11/03/08

日本フットボールリーグオフィシャルWebサイト様

拝啓

貴サイトの
http://www.jfl-info.net/stadium/00672.htmlにある沖縄市陸上競技場のバスでのアクセス表記を訂正したほうがよろしいかと思われます。

「那覇空港国内線旅客ターミナルよりバス 具志川空港線本線で「園田」下車、徒歩10分」

ですが、具志川空港線は113番で沖縄南ICで高速を降りてすぐ「沖縄市運動公園前」バス停に停車します。徒歩2分ほど。運動公園敷地に入るなら10秒です。またこのバス停についていえば、那覇バスターミナル発の180番屋慶名行き高速バスも停車します。

一般道路線の場合、ほぼ表記の通りでよろしいかと思いますが、該当バス路線の系統番号を書いておいた方がよろしいかと。

ちなみに、記載されている具志川空港線本線、具志川線、名護東線、謝苅線、知花線、国体道路線、石川空港線、屋慶名線、泡瀬西線、那覇こどもの国線の系統番号はそれぞれ、

具志川空港線本線(113)、ただし、113番はこれは高速使用バス路線です。具志川線(23)、名護東線(77)、謝苅線(63)、知花線(90)、国体道路線(112)、石川空港線(123)、この石川空港線も高速バスです。屋慶名線(27)、泡瀬西線(31)。

那覇こどもの国線というのは、こどもの国宮里線(22)ですかね?これは残念ながら表記の「園田」は通りません。たぶん、与那城線(80)と間違えられたのでしょうか?この80番は「園田」に停まります。ちなみに「園田」は「そんだ」と読みます。

その他、おもろまちの交通広場発(ゆいレール、おもろまち駅)から、具志川おもろまち線(223)、屋慶名おもろまち線(227)、謝苅おもろまち線(263)、知花おもろまち線(290)でも行けます。系統番号200番台はおもろまち交通広場発着です。

加えて、那覇空港から沖縄市陸上競技場なら、111番高速バス名護行きに乗り「沖縄南IC」バス停で降りれば徒歩3分。空港からそして那覇バスターミナルも停まりますのでこの111番が一番おすすめではないでしょうか。朝からありますし。

ただし、上記情報も、路線改変などで意味をなさないこともあります。正確な情報を得るのにおすすめは沖縄路線バスドットコムさんでしょう。沖縄でバスに乗らなくてはならないときはたいへんありがたく使わせていただいております。


と、日本フットボールリーグオフィシャルWebサイトにはメールアドレスの問い合わせ先がないので、自分のところに書いておきます。

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08/03/08

沖縄でひじきを採りにいったんですよ

ドゥシの家族+αとともに、ひじき採りへ。

昔から、このあたりのお家で食事をいただくと、ひじきを使ったつけ合わせが多いなあと思っていたわけだが、実は沖縄本島で、ひじきが採れる場所として知られていて、この時期になると集落の人々がアメリカ軍基地の許可を取ってひじき採りに入る、ということに。

適宜落ち合って、軍のゲートへ向かう。そこでひと悶着。やはり例の事件が関係しているのか、全員の身分証明書持って来い、幼児はダメだとニーセーターがいう。なんだかなぁ。そんなのウチナーじゃないでしょ。以前入ったときは車のナンバーと人数確認だけだったのに。と、思ったけど、ま、いっか。一度戻って親戚の子たちを下ろして保険証を持ってくる。めんどくさ。

とりあえず無事中に基地内に入り、目的の場所に車をとめる。何台かの車がすでに来ている。しかし日本の宗主国であらせられるアメリカ様はいい場所を選ばれます。さすがですね(いやみ)。

R0011591ドゥシのトゥジは2月の頭にお母さんと入っているので、二袋もあればいいよね、と言っていたのだが、「+α」が物凄い勢いでひじきを採りはじめる。もともと基地の中からではなく、崖を降りて毎日のようにひじき採りをしている「+α」の彼。崖の登り降りがないという気安さからか、結局16袋。それらを男三人で何度か往復しながら砂浜の上をかつぎ、坂を登り車まで。重い。

なんとか運んで、軍内でふらふらして帰宅。夕方、ドゥシのトゥジが牛小屋に今日取れた、ひじきで作った煮物を持って来てくれた。インゲン、糸こんにゃく、豚肉などで煮付けたもの。これが、でーじまーさんどー。がつがつ食べてしまった。とても柔らかく、ひじきのイメージが一新。

このあたりでは乾燥して保存し一年中食卓に上るわけだが、そっちの方もおいしいことはすでに確認済み。

沖縄でひじきが採れるのは、このあたりと南部の与那原だけ。NHKというテレビ局の番組で与那原のひじきを使った石鹸が紹介されたことがあるそうだけれど、実は、ここのひじき、このあたりの人の話だけれど「与那原のひじきはここから持っていったという話がある」ということだが、詳細は不明。

夜、ねぐらで考える。

日本のひじきは基本的に天然もので、主な産地は、長崎(対馬)、千葉、三重。中国と韓国でも採れるがすべて養殖なので除外。日本列島の北海道日高以南の太平洋沿岸。広島から兵庫にかけての瀬戸内。大分、熊本、宮崎、鹿児島。愛知、神奈川、岩手など。

金武湾とひじき。このあたりと内地との関係。ここから北の沖縄、奄美地域に、ひじきが採れるところを聞かない。ひじきがここだけというのは不自然すぎる。自然に出来たとは考えにくい。与那原のひじきはここから持っていったという話があるということは、こここのひじきも誰かが持ってきたのだろうか。

私の知識の中で、アマミクという言葉がよぎる。

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13/02/08

まさにこれぞ灯台下暗し

大城山に登ろうと思っていたのだけれど昨日からの雨+本日の時々雨の天気で断念。

友達と何度も何度も通っていたけれど、いつも「ほお」「怪しいねえ」などとつぶやきながら通り過ぎていた与名間と手々の間。与名間灯台やムシロ瀬のあたり。

徳富先生の地名考を参考にめぐることに。

加えて、先日も書いたけれど別の知人から「ムシロ瀬は神殿の跡で、 ふりかえったら、山の上に羽のついた竜が飛んでいた」という話を確認しようと。

とりあえず空港から出発するが雨が降っていたので島に三軒しかないコンビ二のひとつで昼食。お弁当を食べる。島のコンビニの場合工場からできあいを持ち込んで作ることはできないので、すべてがコンビニ内で製造。これがなかなかおいしい。いいのか悪いの。

雨も上がり北の空も明るめになってきたので出発。

徳富先生の文章に残る「大和城 天城町の最北部」という文言を頼りに携帯にインストールしたGoogle Satで怪しそうな森をチェックしながら進む。

どう考えても山手側にある三角形の山が怪しい。以前から目をつけていた山。旧道に入ると土地改良がなされているにも関わらず残されている小さな丘陵の上に巨石遺構を発見。ノロ系の拝みどころなのか。ちょっと進むともっと大きな遺構も。なんなのだろう。これは。

やはりあの山が怪しい。登る道を捜すことに。近くの牛舎に人がいたので聞いてみた。しかし山に上がる道はないとのこと。それならばとこのあたりの字名を聞いてみると、県道の山よりは「はげだけ」。海よりが「さぎばる」。手々側が「いしぐじん」。

「はげだけ」。今はこんもりとした森になっているにも関わらず「はげだけ」とは。人の手が入った山で、その後、荒れていた。山城跡で戦闘後に放棄されたと考えたらどうだろう。見晴らしも素晴らしい。

ちなみに井之川の大城(ふーぐすく)も「はげやま」と呼ばれていたらしい。

「さぎばる」。これは字名にある「崎原」。

そして「いしぐじん」。友達によると「ぐじん」とは島の言葉で「たくさん」ということらしい。つまり「石がいっぱいある場所」。

手々方面に行ってみる。するとある場所で怪しい場所を確認。車を降りて目を凝らすとヤブの奥、森の中に大量の巨石群を発見。なんなのだ?。以前いった手々山中の石場から切り出したような。そんな岩があちこちに。GPSにマークしてとりあえず今日はそこを離れる。

続いて右に折れて海岸方向へ。そここに巨石のあとがある。単に置いてあるもの(自然にできたとは思いにくい)。こんもりした丘の上に置かれた巨石。そういったものが散見する。うーむ。これは。

そして与名間港へ。ここもどう考えても不思議な石に囲まれている。すべて自然だろうか?

極めつけは与名間灯台。

知人もはじめてくるという。上がって、周りの斜面を見ると、人工的に割られた石が丘の斜面に散乱。ところどころ石を積んだ跡も確認。間違いなく見張り台か住居か拝み所に使われていたに違いない。降りたところに畑地になった平場もあった。グスクといってよい。

「灯台下暗し」とはまさにこのこと。灯台は海側から見えやすいよい場所に作る。当然それは昔の人も同じだ。話によると亀徳の灯台の場所もグスクだったとのこと。なるほど。

友達の仕事の時間になったので海沿いの小道を散策がてら亀津へ。途中、ちょっと変わったお墓群をみつける。

知っているけれど、知らない場所はまだまだありそうだ。

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30/01/08

天願グスクについて再び

天願の公民館を訪れた。

区長さんにいろいろなお話を聞く。

わかったことは、先日行った、拝所のある森は、地元では「霊化森」と言っているとのこと。なるほど。

その尾根伝い南東、現在破壊されて部隊内の図書館になっているところが、チュムイ(人森)。沖縄の古典踊の南島(フェーヌシマ)の舞台になった場所らしい。びっくり。難破したオランダ人をかくまった場所。破壊されてしまって残念とのこと。そりゃそうだ。

その南、天願交差点に面した山にウタキがあってその中腹に戦前までは天願小学校の校舎があった。写真も見せていただいた。

県道をはさんで天願貝塚。その南が現状天願グスクといわれている場所。地元ではツチグスク(土城)と呼んでいる。こういった状況から「天願グスクはツチグスクといわれている」とあちこちで書かれているのだろう。

ところが、区長さんいわく「霊化森だけは部落の共有地だったのです。ですから、天願グスクとは霊化森のことではないか?」と。

一部は宇堅側の人の土地になっているらしいが、現在も基本的に天願集落の共有地であるらしい。個人的にここに入ってみて、いろいろ見たわけだが、まったく、区長さんのおっしゃる意見に賛成である。

もっといえば、この霊化森からツチグスク、天願川を下って野鳥の森公園あたりまでの尾根づたいが天願按司の居城の領域だったのではないか?そう考えたらどうだろうか?琉球史ではほぼ消されている沖縄の歴史。

現在、集落史の編纂を考えておられるとのこと。いろいろな話が出てくることを期待したい。

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28/01/08

帰る日に滝登り

今日は島を離れる日。

飛行機は午後4時前の便なので時間がある。飛行機の時間まで知人たちと島の西側、秋利神という地区を探索。

どうやら絶壁が迫る港の脇に小川が流れてでいる。そこから上を目指す。いつものように鎌を手に藪をかき分け進んでいく。足元は水が流れる滝でツルツルとすべる。自然が作ったものか人工かどうかは定かではないが、ある程度藪をかき分けると、階段状になっていることにも気づく。

登り切るとだいたいの全容がわかった。左手に芋科の植物が群生していたところは、昔の棚田の後。登りきったところにイジュン(湧水)。近くにはどうやらお墓のようなものや石垣を積んだ跡もある。

あとで確認したが、このあたりに住んでいた人が使っていた浜に降りる道らしい。そしてこのイジュンから右手に上って行けば、上の道に出たことも、この地に住んでいた人とGPSのログデータからほぼ判明。惜しかった。

さてどうやって降りようかと思ったのだが、藪を刈りながら進むが断崖絶壁に出てしまい、やむなくもと来た階段状の滝を下る。足元が滑るので慎重に。しかし草を刈っていたので、思っていたより楽に降りられた。おかげさまで、靴やジーンズの裾は水びたしでびちょびちょである。

1時間後、そのまま飛行機に乗ったら、僕の泥だらけの姿を見て、キャビンアテンダントの女性に「島では何をされてたのですが?」と聞かれ「山登りです」と答える。間違いではない。隣の席はあいていたので他の人に汚れがつかなくてよかった。

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27/01/08

グスクをめぐって夜光貝を食べた日

昨日、ウンノーグスクの南北の全容がだいたい把握できたけれど、あまりに巨大なグスクではないかという結論になった。I町の史跡が増えることになるけれど、全体に調査を入れると3憶ぐらいかかるのではないかと。

今日はそのウンノーグスクに島の若い女性をひとり連れていった。こういった史跡に興味あるだけでなく、徳之島の唄者としても有名な子だ。実は昨年全国の若手を集めた民謡大会で優勝している。こちらとしては三日連続で飽きてきてはいるだが(笑)、どうしてもということで友達たちと昨日発見した道を行く。

その後、島東部の友達が新しく発見したグスク跡を確認しにいき、続いてB地区の線刻画を確認したあと、B集落へ。

ここには噂に聞いていた知人たちの知り合いの夜光貝でアート作品などを作っている方がいる。その工房へ。いろいろ話がはずんだ。どうやらこの方はもともとは漁師でもあるらしい。夜光貝の殻は朝鮮半島で作られていた螺鈿細工に使われていた。身は食べてもおいしい。

すると同行した女性が工房の主から夜光貝を三つほどもらった。その場で身を取り出してもらう。素早くナイフで縁をこそげないと身が縮んでとれなくなる。さすが鮮やかな手さばき。

そのまま、I町へ。昨日同行した女性陣が話をしたいというのでいろいろ話をする。そして夜は同じI町の知人の家で先ほどの夜光貝をいただく。身のやわらかいところは刺身。硬いところは圧力鍋で。うまいなあ。

この島は普通に幸せがまだあるように思う。

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26/01/08

アマミクの里とグスク群。地球の鼓動と人の営み

I町の女性陣と町の東方のイジュンをめぐる。

何度か来たことがあるミョーガングスクそばにあるイジュン(湧水)へ案内される。

おお。ここも凄いぞ。イジュンの出口には鍛冶屋跡。前方にウージ畑。つまり以前は田圃。右手に台地があり、案内してくれた地元の女性に「ウフヤーがあの辺にあったのでは?」というとやはり「フーヤがあった」とのこと。絵にかいたようなアマミクの里ではないだろうか。

その後も別のイジュンやグスク跡をめぐりこのあたりがグスク地帯であることを改めて確認。最後には何度も行っている穴川神社へ。ここもイジュンが著名。いつもきれいにしていて地元の人の信心が厚いことを物語る。

いろいろ話をしていたら、この場所の掃除をしているのが、本日案内してくれた女性であることが判明。若いのに立派だ。感服。その女性の話によるともともとの集落はこのイジュンのそばにあってかなり大きかったらしい。ここも絵にかいたようなアマミクの里。

帰り際に、塩田跡へ。江戸時代からのものらしいが、サンゴのごつごつした海岸を削り取って塩田として使っていたのこと。見事。先人の労力が偲ばれる。近世から近代にかけての立派な遺跡だ。

一緒に行った女性陣の中に地質に詳しい友達がいて、この塩田のとなりにある巨大な岩へ案内される。周辺とはあきらかに違う。地質学でいうメランジュ。いろいろ混じり合ったというフランス語から来た名前だが、これだけ大きく立派なメランジュの岩が顔を出しているところって日本にあったか?確か四国のどこかが有名だったように思うけれど。

やはりその友達いわく地質学の先生が来た時も驚いていたらしい。

この場所、地球レベルの年代から近代までの見どころが。ちょっと整備すれば立派な観光地というものではないか。

この島はスゴイものにあふれている。

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25/01/08

島には不思議なものがあってよいはず

夕方、島の探索から帰ってホテルでだらだらしていたら、昨年、松堂玖邇さん関係で知り合った島在住の女性が訪ねてきた。

この方はもともと沖縄、那覇生まれらしいのだが、親は具志川のそれなりというかかなりの家系。そういった方面のチムダカでもあるらしく、興味深い話が聞ける。

沖縄や徳之島だけでなく広島や東京の話にもなったのだが、その中でとくに気になったのは、島の北部のこと。

彼女が内地からやってきた女性とムシロ瀬を訪れた時(この場所も彼女がいうに古代の神殿跡らしい)、その後方、南の山系に、羽のついた龍が飛んでいるのを見たのだという。

その場所あたりは、昨年来知人たちと何度も訪れている巨石の拝み場所などがある不思議な地帯。江戸の頃までは集落もあったというが。

僕個人は努めて文献や研究成果を吟味し、現地に赴き、科学的、実証的に理論だって物事にあたるタイプだと思うのだが、こういった話は嫌いではない。というより、こういった人の感覚や幻視の風景も現実であり科学の対象だと考えている。

昼は昼で知人たちと楽しい発見ができたし、夜にも楽しい話が聞けた。良き一日であった。

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11/01/08

ドゥシのトゥジがイナムドゥチを作ってくれた

食堂などであまり置いていないので、沖縄通のナイチャーでもなかなか口にする機会がないかもしれない。

友達の店にいったら奥さんが「食べる?」といって出してくれたのがイナムドゥチ。3年ぶりぐらい。

短冊に切った豚の三枚肉にしいたけ、こんにゃくを沖縄独特の甘い白味噌で仕立てた内地の豚汁に近い代物。

味噌の甘さがとても優しい。ただし、この甘さは苦手という東日本の人もいるかもしれない。ただし冬場の寒い沖縄では御馳走だ。

ところで、この「イナムドゥチ」という料理、なんでそんな名前なんだい?と30年ほど前から思っていたのだけれど、10年ほど前に食堂のオバァからその出自を聞いて判明。

今では豚の三枚肉を入れるのだけれど、もともともはイノシシの肉を入れて作っていたらしい。これでもうウチナーグチがある程度分かる人にはわかるかと。

つまり猪肉じゃなくて豚肉を代用にしたので、「いのししもどき」。

これをウチナーグチでいえば、「イナムドゥチ」になる、と。

はるかけき昔の沖縄のご先祖さまたちが猪の肉を普通に食べていたという証左であるともいえるかもしれない。そういえば全国あちこちに存在する猪垣はヤンバル方面にも残っている。

くゎっちーさびたん。

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29/11/07

煉獄あたりの船旅

友達の話によると鹿児島ー沖縄航路では一番揺れない船のはずだった。

那覇から9時間半の船旅。ニシカジ(北風)が強いこの季節。ただでさえ上り(那覇から鹿児島へ)は揺れるというのに、そこにあらわれたのが季節を間違った台風ふたつ。南の海上へ逃走して熱帯低気圧になったとはいえ、海はつながっている。

朝6時半。乗船券を買ったら「条件付き」。つまり、目的の港に入れない可能性があるので、名瀬での下船を承諾しないと乗せないよということ。覚悟を決めた。

横揺れはスタビライザーで抑えられているものの、上下に揺れる揺れる。朝7時の出航から午後5時半の到着まで、船には強いはずのおれっちもさすがに便器を抱え込みそうになった。

そんな船中でもラーメンとおにぎりを食べる家族連れ。なんというか。三半規管の構造が違う。船に強い人は強い。

ふらふらになりながら1時間遅れで、なんとか目的の港に到着。名瀬に行ってたら、明日の朝に戻ってくることになってたもんね。不幸中の幸い。

揺れない船だと教えてくれた友達が車で迎えに来てくれていた。ホテルにチェックインし、そのあと牛小屋を探索。いろいろ話がはずんだ。

そのあと友達と小料理屋で食事。そして明日からは山巡り。

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11/11/07

第88回秋の全島闘牛大会 横綱交代も微妙な内容

 ひとことでいえば、旧石川市で行われた、旧石川市域の牛のための大会といってもよいかもしれない。

 番付を見れば一目瞭然で、石川闘牛組合の牛が6頭。伊波闘牛組合の牛が2頭。8/26。つまりほぼ三分の一が石川、伊波両闘牛組合の牛。今年の春の全島闘牛大会も石川が5頭。伊波が2頭と旧石川市域の牛の全島大会への出場が多いという傾向は近年ますます高まっている。

 牛主の体調が悪かった古堅モータースが出場を回避したのは理由があることとはいえ、勢頭からは一頭も出場せず。勢頭の組合がなくなったのだろうか?。そういえば胡屋もゼロ。読谷は一頭。具志川は三頭だが、最近、西と東の両闘牛組合が一緒になったことを考えれば1.5頭ずつ。いろいろな事情はあったのだろうけれど素人目に見ても偏った印象はぬぐえない。

 もちろん「石川方面の牛が優秀であるから出場したのだ」ということなら分からないでもない。それならば、全島の名にふさわしいだろう。しかしながら、横綱を狙えるであろう評判を聞く中堅どころの期待の牛が、ほぼ出場していないという今回の取り組みをどう捉えるかだ。

 しかもC4番戦、靖士花形対クロフネはクロフネが怪我らしく不戦。正直言って、これぞという対戦が少ない今大会における期待の対戦であったので嘆息。また、その後のC3番とC2番が急に順番を急遽入れ替えたあたりの運営も分かりづらかった。

 全島大会という大会は、数ある闘牛大会の中で沖縄最高峰の大会だと思うのだが、今回の取組がその名にふさわしかったのかどうか。石川組合主催の大会なら何も文句はないのだけれど、やはり全島大会である。「これでは第88回秋の全島三分の一石川闘牛大会ではないか」という声も聞こえた。

 翌日の新報にしろタイムズにしろ、こういった事実についてはふれずいつものように盛り上がったという評に終始している。闘牛を盛り上げる目的のためであろうが、もしもこういった内容が続くことになると、沖縄闘牛そのものの存続にも関わってくるのではないかと危惧される。

 やはり全島闘牛大会は準全島や地方大会で優秀な成績をおさめた闘牛が一同に介する場所であってほしいと思うのは単なるファンの都合というものだろうか?

 石川組合からの出場が多かった前回はそれでも他の取組のバランスも良く面白いと感じた。しかしながら、今大会は初めて沖縄闘牛を見た人間であれば楽しめたとは思うが、当方が物足りなさを感じたのも事実。

 と、つらつらと書いて見たが、そこそこの内容は維持していたといえるだろう。軽量級横綱争奪戦の他にも二つほど見ていて面白い内容の取組があっただけでなく、横綱戦も大龍王が敗れたことで盛り上った。一応成功の大会だろうが、先日同じ会場で見た無料のうるま祭りの闘牛大会よりも、観客の出足も、入りもいまひとつだったのは何を現しているのだろうか。

 今後はより多くの期待の牛が各組合からどんどん出てきて、観客も増え、沖縄闘牛が盛り上がってくれることを願わずにいられない。

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28/10/07

久しぶりのむら咲きむら。また闘牛だけだけど。

読谷のむら咲きむらでの闘牛大会。

今日は、よみたん祭りの一環で入場無料。狭い会場は多くの観客でいっぱいだ。やはり全島以外の地方大会の入りがいまひとつなのは純粋に入場料の問題ではないか。

個人的には観光産業ばかりでは問題だと思うが、それでも当分の間、経済のひとつの柱としての沖縄観光をかんがみた場合、リピーターが減っている昨今、闘牛は新しい観光素材として有望かと思うのだが、入場料の問題はやはり大きいと考えられる。

ほとんどの大会の入場料が3000円というのは、こっちは、はいはいと払う値段だが、一見の観光客にとっては間違いなく高い。以前、書いたかもしれないが、航空券の半券持ってきたら1000円などという施策をとれば、観客にとって魅力が上がり、そこでよい取り組みが見せられればリピーター増にも少なからず貢献できるのではないかと思うのだが。

だいたいアメリカ人であれば入場料1000円というのは、宗主国であられます方々への思いやり予算と同じ構造。そこまで優遇しなくても、そのうち帰国して、ほとんど二度と来ないんだから。

などと、立ち見しながら思っていた。

というのも、全島大会が近い上に無料ということもあるため、不戦勝が三つ。大会としては不発気味。もしも入場料をとっていたら問題じゃないかと思われる内容だったため、観戦していても、気が入らなかったためだ。

それでも、何頭か目につく牛は確かにいた。デビュー戦の牛もいたりして、今後の対戦を考えるときにかなり参考になったのも事実。

春と秋の全島大会や旧正月大会の対戦がいまひとつ納得できない内容になっている昨今、こういった無料大会や地方組合主催の大会などの方が、若手や有望な牛を見ることができるので面白いとも思える。考え方次第。

むら咲きむら闘牛場に来たのは、こけら落としの時以来。あの時より、客席部分には芝が生えたりしていい感じになっていた。これはこれで悪くはない。

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27/10/07

久々に闘牛を喰らった夜

牛小屋へ行く。今日もウシくんたちは元気だ。大量の糞が物語る。

夕方になって、バーベキューを行うということで、近くの小屋へ。

コールハン+炭。肉が焼けたので食べてみたら、思ったより硬い。

聞いてみたら、やはり、4歳ぐらいでつぶされた闘牛の肉をつきあいで買ったらしい。

しかし以前の肉に比べたら柔らかく味がはっきりわかる。旨い。

霜降りがのった柔らかい肉というのが日本では一般に高級と紹介されることが多いけれど、肉をガツガツ喰らうところでは本来、歯ごたえと味がポイント。そんな肉に近い。

ハミと乾燥草、飼料や特別な食べ物で大事に育てられた坊ちゃん嬢ちゃん。

一方去勢せず基本的にその日に飼った草だけを食べ、適宜運動や喧嘩をして筋肉をつけた闘牛。

味や好みはいろいろだけれど、どっちの肉が健康食かは一目瞭然かと(笑)。

満月にちょっと足らない月がでかい。

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21/10/07

天願グスク近辺探訪雑記

うるま市の天願グスク(ツチグスクとも呼ばれる)。石川から具志川方面を眺めれば、そして市内の小高いところから、はっきりとわかるその姿。

しかし米軍基地(実際は海兵隊司令官家族の居住地らしい)キャンプコートニーのフェンスの内側にあるため系統だった調査がほとんどなされていないだけでなく、当然グスク探訪者もフェンスの外から指を加えて眺めるだけ。21世紀になってもお預けをくらったワンちゃん状態が続いてる。

その天願グスクを今日訪れることができた。

天願グスク海側から

とりあえず細かい点はのちのち検証するとして、備忘録代わりに以下に状況をここに記す。

この時期、天願の部落はウートートー時期(旧暦九月九日から九月二十日とのこと)。ドゥシ(友達)のトゥジ(刀自=妻)が天願出身で、基地内に入るので一緒にどう?という誘いがあったのだ。

午前11時過ぎコートニーの中に入り直進。二つ目の十字路を右折すると左手前方に天願グスクのこんもりとした森が見える。適当なところに車を停め、芝生が植えられた斜面を上り、森の中に入っていく。

軽自動車なら通れそうな上り坂が続いている。両側の森の中にはところどころ野面積みの後が見える。住居跡なのかもしれない。あがっていくと階段跡と思しき珊瑚で作られた段差がいくつか。ウートートーの時期にはこのあたりの草刈りをするという話だったので後年作られたものか、昔からあるものなのかは不明。というか、この道自体昔からあるものかどうかも不明だ。

天願グスク入り口から

最後の上りの手前に、門の跡らしき岩場があり、その右手奥にふたつのガマ(洞穴)。手前のガマは人が入りきらない程度の小さい穴で奥の穴の手前には「荒フチの男神 ビジル美人の女神 二人は夫婦グサイの神 こちらで拝んでください」と書かれた碑が建てられている。ガマの中を覗くと5人ほどは入れる大きさでクールー(香炉)が。お年寄りや子供の場合、中に入るのは難儀なので、ガマの手前でウガミしてくださいということのようだ。

天願グスクガマ

ドゥシによると宇堅側にアラフチ(アラブチ)という名前の地域があるがそれと関係あるのかも、とのこと。となるとこのウガミ場所は天願側だけでなく宇堅側の人にとっても聖地なのだろうか。そしてなにより、この天願グスクを中心として分かれる天願と宇堅という両集落の成り立ち、とくに屋取(ヤードイ)期以前のことがとても気になった。

そこから上っていくと、右手に大きな窪地がある。浦添グスク山頂の窪地を小さくしたものを想像してみるといいかもしれない。降りてみると足元は奄美の積み石墓のような状態で壁面はどうやら石を積んでふさいでいるように見える。普通に考えれば古墓か。ただもしかすると井戸、窯跡という可能性も。調査が入ればはっきりするのではないだろうか。20分もあればひっくり返せそうだったが、当然見るだけ。早期の調査を望みたい。

そこからあがると山頂となり、ナー(庭)が広がる。左手はコザのインジングスクのような岩。右手は平坦な森。左手の岩場はところどころ削られた跡が見受けられ、クールーが置かれている。右手の森の部分は平坦でおそらくここを掘れば何か出てくるのではないだろうか。表面調査だけしてみて、あるものが目に付いたが、ここでは書かない。

天願グスクナー

まっすぐ向かうと、木と草の影に宇堅の知人の家が見える。そのはるか向こうに勝連グスクの姿。草刈りすれば非常に見晴らしがいい場所だ。子供の時はここから「わあすごい景色」と楽しんだとはドゥシのトゥジの弁。ふと右を見ると水準点が。

ナーにもどり右に。つまりあがってきた方向からすれば左手へ向かうと、両側が岩にはさまれた1画に出る。両側にクールーがある。その正面に目をやると現宇堅ビーチ左手の断崖が。先まで行くとどうやら降りる道があるようだ。ドゥシのトゥジの話によれば、きちんとしたウートートーはこのグスク内で行われたあと、断崖の先にあるウガンにいくとのこと。祖先のやってきた道を辿る儀式ということになるのではないだろうか。つまり、この一帯の祖先は宇堅の浜からあがった集団と想像をめぐらすことも可能だ。そして、この金武湾一帯は中世には一大交易地として栄えたという実績があるので、貿易のための重要港湾施設が正面に見える断崖か宇堅の浜のどこかにあったと考えることもやぶさかではない。

そしてその先には軍艦のような姿を見せる宮城島と伊計グスクを抱える伊計島が真正面に。見えるということはその場所を意識せざるを得ないということ。太古の人はどのような気持ちでこの風景を眺めていたのだろうか?

天願グスクから宮城島

こうなると頭の中はぐるんぐるん。過去の歴史に思いをはせ、それだけではなく、さっきのガマや窪地は何か?。歩いてあがってきた道以外の場所に何かがあるのではないか。などなど、今後どう検証を進めるか思い描き妄想を繰り返す。

この天願グスクの南には天願貝塚跡があり、東に宇堅貝塚。その先には沖縄電力の発電所の一部となっているもののまだ若干残っているクーグスク。その先には具志川グスク。勝連グスク。それらの関係は、時代的な変遷は。金武湾一帯の集落の成り立ちは? 宮城、平安座、伊計の各島と関係は。

とりあえず、今日のところはこのあたりにしておこうと、グスクを降り、車でグスクのまわりを一周する。グスクの東側には「天願城」と看板を掲げた米軍の施設があった。一応、軍も意識しているようだ。このとき南の方見て気がついたのだが、天願貝塚方面に森が続いているようにも感じられる。グスクの周辺もブルトーザーが入っているのは確実なので、天願グスクの領域、もしくは天願グスクを中心とした集落の範囲は、先の断崖の岬のあたりから天願貝塚。つまり天願川のあたりまで広がっていたと考えることもできるだろう。


鎌倉の繁栄に例えられた勝連グスクは日本や大陸との中継貿易で栄えたらしい。奄美の喜界島にも勝連の人が渡っていた形跡もある。その勝連グスクを中心とした地域と同じくらいの規模がこの天願グスク周辺にあったという可能性も否定はできない。

なんといっても、現在知られた沖縄の歴史や伝承、文献は薩摩傀儡政権期にまとめられたものであり、その薩摩の影響を排除したとしても、首里を中心とした正史を前提としたものと考えられる。首里が大陸に朝貢し中華王朝的要素があったと考えれば正史は過去の歴史を抹殺し自らの正当性を語るために作られたと考えるのが普通だろう。

つまり首里だけではない、それ以前の沖縄の歴史に考察を加えていく意味でも、こういったグスクの存在と集落構造の研究は大切なのではないかと考える次第。ただ旧具志川市一帯は屋取集落が発展したところなので首里や那覇の影響は多分に受けているはず。その屋取とそれ以前から集落を形成していた人々とはどのような関係にあるのか、ないのか。

ひとつだけ確実にいえるのは天願、宇堅両部落の小中学生などにとっては格好の歴史教材が基地の中にあるということになるのではないだろうか。

結局のところウガミは早々に終わったのに2時間弱もドゥシたちをつきあわせてしまった。帰りがけに基地内にあるタコベルでタコスを食べてお土産にバーガーキングとピザを買って外に出る。出るときはアメリカらしく去るものは追わずのフリーパス。

午後はドゥシの牛の練習試合。天願グスクも、牛たちのオーラシーを眺めていた。


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20/10/07

第2回うるま祭り闘牛大会

今日明日と第二回うるま祭り。

具志川祭り時代から恒例の無料闘牛大会が石川のドームで行われた。

うるま市が出場料を負担するので無料ということで、かなりの盛況。開始5分前に着いたらほぼいっぱいで、最初から最後まで立ち見。

他の大会でもアメリカーは1000円で入れるのだが、今日は無料ということで、アメリカーがやたら多い。ドゥシがいうに「具志川祭りの頃からアメリカーが多い」とのこと。

うるま祭り

全13番。ただし不戦がふたつあり実質11番。横綱戦を含め四頭ほど地元の牛が出場。当然勝ってほしいわけで、なかなかの成績だったのはよかった。

ちょっと笑ったのは知人の牛。なんでも2週間ほど前にタメシを行ったら逃げてしまって、これは期待できない。負けるつもりで出たら勝ってしまって、うれしいが複雑という話。主名も仮名にしてたので、賞状にもしっかりその仮名になっていて。

夜には部落一帯でお祝い。ドゥシに連れられ二軒ほどはしご。お酒やご馳走にありつく。大量のサシミやヒージャーも食べた。くゎっちーさびたん。34秒で瞬殺、優勝した、「それいけ白タビ」を見に行ったら、小屋の中でゆっくりとくつろいで満足げ。

今年も、ここまでかなりの闘牛大会を見たけれど、来週は読谷祭り闘牛大会。再来週に沖縄国際カーニバル闘牛大会。そして、その翌週はいよいよ秋の全島大会が待っている。

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25/09/07

テレビ二題

大臣が誰になったのか確認しようと思ってテレビをつけたらテレビ朝日系列の番組だった。

どこか見たような潮の香り漂う風景が映っている。海もそれなりに碧い。

あ、あれかとすぐ合点がいった。なんか離婚したお父さんが子供つれて南の島にやってきて生活してるぞ、とかいう一応ドキュメンタリーのふりをしたしろうと使用バラエティ番組である。

今年の春、奄美大島へ行った時、大和村(やまとそん)を廻ったのだけれど、その帰り道、坪山豊先生が舟大工修行をされた大金久からバスに乗って、大棚という集落に近づいた時だ。

まず人などいない時間帯なのにバス停付近に黒山の人だかりができている。といっても30人ほど。それでも大和村的には人が集まったということになる。

なんだろうか?と思っていると、どうやらテレビ局のカメラが見える。バスがバス停に横づけされた。

バスの運転手に対して、ディレクターと思しき人間が、出発しようとするバスの運転手さんに

「ちょっと、待って」

と、ごくごくあたりまえのように声をかける。まだ演出指導が終わっていないから待てということなのだろう。一応マスコミで働いていたおれなのでそのくらいのことはわかるが、一応おれという乗客はがいるのだけれど、何も挨拶はない(笑)。きっとそのディレクターと思しき演出指導していた子は目が悪いのか、視覚障害者なのだろう。テレビ朝日は視覚障害者をディレクターに起用できるほどふところの深いテレビ局に、いつのまにかなっていたのだ。おれの不覚だった。感動である。これからは、視覚障害者の方でも、優秀な方なら、きっとテレビ朝日なら差別などせずに採用してくれるはずだ。大和村大棚でテレビ朝日の真の姿をみたおれだった。

ちょっとすると、その子だくさん家族のうちの女の子なのだろう。ハンディカメラと見届け人なのかわからないがアシスタントディレクターをひきつれ、計三人バスに乗ってきた。

「どこにしますか」
「うしろの方で」

などと話をしている。

バスが走り出そうとしたとき、

「じゃあ、バスを追いかけて走ってください」

といった声が外から聞こえた。なるほど、お姉ちゃんがどこかでかけるのを弟くんたちがおっかけるという感動的シーンだ。子どもたちはいわれたとおりにバスをおっかけて走っているのがサイドミラー越しに見えた。なるほど、つまりそのおっかけるシーンのかえしを撮影するためにバスの最後部に陣取ったということか。スタッフは若いのに映像のイロハのイは抑えているようだ。

でも、誰かが、名瀬や港か空港に行くにしても、たぶんこのへんの子持ち家族なら車を持っていないと生活できないかと思うので、車で行く方がリアルだと思うのだが、貧乏だから車がないという前提になっている演出上なのだろうか。バス代は結構高いので、たいへんじゃないか?。8人の子持ちだったらなおさら、などと思ったのだが、よっぽどテレビ朝日がこのお父さんに払っているギャラが安いのだろうか。車さえ買えないなんて。目頭が熱くなった。

で、そんなこを思うと泣きそうになったので(うそ)、高倉があるところでとっとと降りたのだった。郵政民営化で大棚の簡易郵便局はどうなるのだろうか。そんなことが今は気になる。


そういえば、今年の正月ぐらいだったか、徳之島の面縄港あたりをうろうろしていた時だった。ジャンボタクシーがすーっと止まっておれに声をかけた

「テレビ局の方ですか?」

意味がわからない私は「いいえ、違いますよ」と返答した。港の方を見ると一艘の漁船が波しぶきをあげて港へ入ってくる。漁からの帰りにしちゃ妙な時間だなと、どんよりした空を背景にして、乗員が下りるまで見ていると、なにやらテレビカメラを抱えている人がいる。

「ああ、あの船で撮影か何かしていたのだな。でジャンボタクシーを頼んだのか」と合点がいき、ま、どうでもいいや、と潮風をいっぱいに吸い込んでから、ねぐらに戻った。

後日、たまたまテレビをつけたら、田舎の他人の家に泊って芸能人がいろいろ笑ったり泣いたりしようとかいう番組の終了間際だった。そこには、その昔「また会う日まで」という曲でレコード大賞を獲った歌手が徳之島に来て、別れの時、漁船に乗って島を離れていくという感動シーンが流されていた。

面縄港だ。それもあの時、帰って来た船が、行く時(つまり番組では徳之島に別れを告げるとき)の映像だ」

ちなみに、面縄港から他島への定期船はない。また、漁船をチャーターしていくとしても、徳之島の南端あたりに位置する面縄港。他島へ行くには徳之島の他の港から比して遠い。

演出としてリアリティのなさにちょっと残念ですな。現代はおれがそんな世界で仕事をしていた時と違い、テレビ映像は使い捨てる時代ではない。録画され、あとで何度も何度も個人的jにかつインターネッドでよってたかってチェックされるのがデフォルトだ。そのあたりプロデューサー、ディレクターの子たちの自省はもちろん、スポンサーの担当者くんの的確な判断と批判、指導も必要かと、思うのだがどうだろうか? 老婆心であろうか。

また、あの別れの後、どうやって帰ったのか心配だった面縄港とその港の機能をご存じのみなさん。おそらくカットの声がかかってから無事に面縄港に戻ってきています。ありがとうございます!(なんで、俺が感謝しているのか不明)。しかも、ジャンボタクシーの迎えが来ていたので心配におよびませんよ。

たぶん当日の二便か翌日の一便(徳之島鹿児島間の飛行機は一日二便なので、一便目を「一便」、二便目を「二便」という。その他奄美大島、沖永良部便もあるが芸能人とテレビ局が使うとは思えないので)あたりで戻られたのでしょう。

とにかくも、この番組のプロデューサーとディレクターの現実感のない演出判断がみなさんにご迷惑をおかけしましたこと、昔はそういう業界にもいたおれがとりあえず陳謝いたします(なんでおれが陳謝するのか不明)。視聴者の皆様を不安にさせてはいけませんよ、スポンサーどの。

しかし、このテレビ局は、おれの大学時代の先輩が入社し、まさにその人がかつてとある不祥事で新聞および他局マスコミに挙げられたこともあったテレビ局ではあることは認めます。しかし、当たり前ですが頑張っています。頑張ればいいってものではないことは合点承知の助ですが、いつかどこかで結果がでることもないわけではないと思いますので大目に見てあげてください。

で、徳之島の知人からの連絡によると、英語でGolden Legend とかいう番組で、Good Boyとかいう名称の松竹芸能のお笑いコンビが、現在、徳之島で撮影に傾注しているらいし。

知人は十五夜も近い昨今の夜、外に出て波の音を聞きながら星を眺めようと思ったらしいのですが、その場所で、英語でGolden legend とかいう番組に出ているGood Boyとかいう名称の松竹芸能のお笑いコンビが煌煌とライトを焚いてロケをしているので遠慮して家に帰ったとのこと。

テレビ局もいろいろと大変なので、大目にみてあげてほしいですが、そろそろ限界なのは承知です。あとちょっとだけ視聴者のみなさまには我慢していただければ幸いです。我慢できないなら「見ない」という手もございます。

そうそう、いろいろテレビでとりあげてくれるので大和に、奄美、徳之島、沖縄のことがどんどん広まるという点でだけは、テレビ局の子たち、ありがとね(おふらんす)。でもねえ。

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03/09/07

ウンガミ二日目 E61がベトベト

塩屋のウンガミ二日目。

基本的に、豊年踊りの日。

塩屋の、塩屋、兼久、大川、三地区の女性たちによる豊年踊り。公民館やらで行われるものは何度もみたことがあるけれど、外気の中、雨が降ったりやんだりする中での豊年踊りは貴重な体験だった。

見た限り、兼久が一番うまいのかもしれない。大川は十八番を持つ。塩屋はちょっと都会的。そんな感じか。

最後、三地区それぞれの旗頭をごとに、それぞれの地区の踊り手の女性たちが集まる姿はとても美しく、雨があがった青い空に、旗頭も満足げに踊っていた。

すっかり堪能して名護へ。

戻ってから、今日も、かなり潮にあたったと考え、カメラや携帯電話の掃除を開始。

E61を、Krusellのクラシシックケースから取り出してみると、ん? ベトベトするぞ? 電話の底部からサイドにかけて、何かが溶けたようなベトベト感。さわるとネチョっと糊のようなものが指にこびりつく。

Krusellのこのケース、前面がビニールプラスチックで覆われているのだが、その付け根。革との接合部分に使われた接着剤が、今日の沖縄での暑さに、溶けだしてしまっていたのだ。

Krusell、E61用クラシックケースは暑さに弱い。

考えてみれば、Krusellは北欧の会社。沖縄やら東南アジアやらの夏の暑さなどは考慮にいれていなくても不思議ではないし、だいたい都市におけるビジネスモデルといった位置づけで発売されているE61を、過酷な条件で使っているこちらにも非があるというもの。

ということで、E61のケースとして同じKrusellのカブリオレを注文しようと思ったりも。

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01/09/07

亀と牛

牛小屋へ行ったら亀がいた。

ドゥシ(沖縄でいう友達のこと。「同士」のウチナー発音かと思われる)が草刈の時捕まえたのだそうだ。

ビーバーで草を刈っていたら、ガリッと当たるものがあって、石かと思ったら亀。亀の甲羅にはビーバーの歯の跡がついていた。

この亀だけれど結構速く歩くし凶暴。

そのドゥシに名護まで車で送ってもらったのだが、ダッシュボードに個人的に入った経験がない「美ら海水族館」のパンフレットがあった。夏休みを使って子供たちを連れて行ったらしい。

それをぱらぱら見ていたら、「天然記念物 リュウキュウヤマガメ」という項目が。Wikiでも「1975年には国指定天然記念物に指定された」とある。

先ほどの亀の甲羅の文様などがとても似ている。

「さっきの亀、天然記念物じゃない?」

「わからん」

「であるね」

などと話をしているうちに名護に到着。

最初に書き忘れたのだけれど、ドゥシの牛が一頭減った。あまりに喧嘩しないので、石垣へ売ったとのこと。石垣からの連絡ではよく喧嘩してあっちでは大喜びらしい。あらら。

「ドゥシの小屋には、かつて横綱張った牛と若いのに態度も身体もデージ(とても)大きい牛がいるので、遠慮していたのではないか?」といった話がドゥシの同級生から。

牛はもともと群れで行動する社会的動物で、社会のヒエラルキーに敏感。だからこそ、そのヒエラルキーでトップになるために喧嘩をする。その本能を発露させるのが闘牛。つまり、ドゥシの小屋では本能で戦いを選ばず、石垣へ行って「わんが一番」ということになったので本能として喧嘩をはじめたというのも考察としては一理ある。

闘牛を飼うのは難しい。

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01/08/07

最近ほんのり思っていること 対立史観は苦しい

奄美群島の方たちと話をしていると同じ鹿児島県ではあるが九州鹿児島への恨みつらみ、妬み、嫉み、またそういった気持ちを持っている自分へのあきらめと気恥ずかしさなどがたびたび感じられる。

ひとつには、江戸時代の薩摩藩の過酷を極めた圧政が、人々の間で世代をこえ語り継がれ、記憶の中に残っているということ。そして現実として、多くの離島を抱える鹿児島県にあってひとつの島の振興だけを進めるわけにもいかず、かつ、九州鹿児島の整備も行っていかねばならない。つまり特定離島ばかりあいてにしていられないという事情もあろうが、そういった県の施策を離島に住む人々から評価すれば、やはり取り残されたという感があるようだ。

この2点のみが理由としてあげられるわけではないが、鹿児島県の離島に住む人々は九州鹿児島に羨望と恨みを抱えている場合が多い(とくに奄美群島)といってよいだろう。

しかしこの島の人々の感情というのは、もしかしたら作られたものではないだろうか?。百歩譲って歴史的なしこりに求められる感情を島の人々に持ち続けてもらうため、現在に至っても地域振興などを遅らせている。と、したら。

つまり、わざと人々を経済的、精神的枯渇状態に置くことで、これまでの生活ではダメだ、これまでのしきたりや習慣は時代遅れであるという気にさせ、改革、進歩、発展といった旗印に土地改良、産業振興などを行い、それまで信仰の対象であった聖地や土地、祭り、風習、習俗の記憶を薄めていくことで平均的日本人へと作り変えていく。

この遠大な計画のために、実施されているようにちょっとだけわたしゃそう思っている。なんというか、構造としてはまさに薩摩時代と何も変わってない。

また、このような枯渇から平準へという方策に、いろいろな出汁をあわせると、そう、沖縄である。沖縄というか(那覇を中心とした南部と琉球大学を中心とした高学歴者と言っておく)の場合は、この二分論がより顕著で、ウチナーとヤマトというふたつのテーゼを前提に沖縄を語る人がほとんどであるあたり、常日頃思っているのだけれど、心の底から非常に興味深い。

ウチナーとヤマトを対立軸にすることで利益を得る人々って誰だろうか?

まあ、個人的にはヤマトに対してどう思ってもそれはそれだけれど、沖縄の研究者が奄美群島を沖縄中心史観で語るのは的外れじゃなかろうかなあと思ったりもする。奄美群島は琉球と関係はあるけれど、琉球じゃないしぃ、と。二項対立だけでは語れないことの方が多いと思う。

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25/07/07

耳切坊主 『Suzy』

さて、去った(うちなー的表現ね)6月27日に沖縄で先行発売されていた耳切坊主の新譜『Suzy』。本日、2007年7月25日、目出度く本土発売日を迎えたのでありました。

発売日に入手していたので、とっととエントリーに書こうかと思ったんだけれど、やっぱ、ニッポンのみんなが無理なく買えるようになった頃の方がいいんじゃねーか?と自問自答して、今日になったというわけで。

沖縄の若人(わこうど)バンドは数々あれど、おいらが現状新譜が出たらとにかく常に買っておこうという気になるのは、「MONGOL 800」と、この「耳切坊主」。(MONGOL 800 はちょっとパンク入ってるけどね)

サウンド的には、ほんと、20世紀後半のニューウェイブ、ネオアコの頃によく使われた「いなたい」という四文字がぴったりくる。そ、そっ、きざみまくる、あんな感じのギターサウンドがコア。

そこに妙ちくりんなキーボードなんかも絡んでくる。ドラムのビートはシンプルだけれど、アフタービートをおかずにしたりで、なかなか。またベースの滑り方が、なかなかオイシイ。演奏の隙間を軽々と埋めている。

そしてボーカル。青春だね。嫌いな人は嫌いかもしれないけれど「ジョートーさぁ」と言っておく。これでいいんだ。

でも、おいら、いまんとこ、去年出た『サラバンジ』が一番しっくり来てるかもしれない。というのは以下の理由。

おいらのこと知ってる人は「またかぁ」と笑うかもしれないけど、先に書いたように、80年代初頭、ニューウエイブとかネオアコなどという名前でくくられる音楽があったんだけれど、そういった動きの中で、おいらは、Pale Fountainsってバンドが、かなり好きで、とりあえず新譜が出たら、シングルだろうとアナログだろうと買っていた。クレプスキュールってレーベルやスティッフってレーベルがなんやかんや喧しい頃だったな。

で、そのPale Fountainsってバンドを思い出すサウンドがこの耳切坊主にはあったりしてる。

つまり、いまや50代寸前のおいらに、なんとなく酸っぱい懐かしさを感じさせてくれるというのが、彼らを支持する理由なのかも。逆にいうと、あの80年代のネオアコ体験はないけれど「モンゴル800とか、耳切坊主とかいいかんじィ」と思ってる若人は、Pale Fountainsとか聞いても面白いかもね、なんて、ジジイから提案?。

ほかにも、このあたりだと、あの時代、Buzz CocksとかAztec Cameraとかいろいろあったけれど、おいら的にはPale Fountainsの新しいアルバムが出るまでの<つなぎ>というあたりかな。やっぱり、Pale Fountainsだったなあ、と。


で、耳切坊主というのが、へんちくりんなバンド名だなあと思っている人に、おいらからの余計な親切心。

耳切坊主(みみちりぼうじ。このロックバンドは「みみちりぼうず」と発音しているけどね)とは、沖縄の妖怪話に登場する坊さんのこと。

昔々の沖縄に、放蕩の限りを尽くす女好きで、肌が黒い坊さんがおったそうな(このあたり沖縄裏面史的に、ちょっと示唆的なんだけれど、今回は関係ないので理由はパス)。その肌の色から、黒金座主(くるがにざーすー)という名前でも呼ばれていた。

王様が考えたんだよね。その坊さんのあまりのふるまいが目に余るようになったので、こりゃあの坊主を懲らしめないといけない。ということで、当時、琉球国で、唯一対抗できそうな、北谷王子(ちゃたんおうじ)という人を呼んで「碁の勝負して、黒金座主を、命を賭けてぶっつぶせ」と命令したんだと。

碁の勝負開始。黒金座主は北谷王子を惑わす技を使い権謀術策の限りを尽くすものの、北谷王子はまったく動じず、結局のところ王子の勝利が確定。

王子曰く「おめえさんの命はとんねえから、そんかわりに耳をチョんとさせてもらわぁ」(江戸弁に翻訳)。

黒金座主は耳をちょんぎられ、その傷がもとで破傷風になって、おっちんじまった。

死んじまった黒金座主。怨霊となって、人々の耳を切ろうと町に出没するようになった。執念ですな。というわけで、黒金座主は、耳切坊主と呼ばれるようになった。くわばらくわばら。

ちなみにいっとくと、黒金座主こと耳切坊主はなぜか女の子の耳は切ろうとしなかった。なもので、人々は男の子が生まれた時に、「うふーゐなぐの うまれたんどお」(でっかい女の子が生まれたよー)と歌ったんだとさ。

という、沖縄妖怪坊主の名前をバンド名にした耳切坊主。沖縄であること。沖縄の歴史伝統を感じること。そのあたりが、彼らの音楽にはある。沖縄的「なま」(今)が堪能できると思うのでありました。

新しいものは「ある」。けれど「ない」。

つまり、時代は螺旋でめぐっていくのであって、そういったあたりを通る若人バンドは、今、日本だけじゃなく世界中にたむろしている。だけど、ジジイのおいらが思うに、本当の勝負はそこを通りすぎて、次の90度までのあたりだね。

沖縄の若人バンドは「うちなー」というDNAがある分有利かもしれんけれど。とっぴんぱらりのぷ。
だっからよー。


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22/07/07

草刈りだよ

暇だったんで3時ごろに牛小屋に行ったら「草刈り、いかない?」といわれた。

軽トラックの助手席に乗って、20分。嘉手納基地内の黙認耕作地へ。友達が、ビーバー(いわゆるところのエンジン使用のポータブル草刈機)でウイーンと草を刈る。その草を軽トラックの荷台に積んでいく。

小屋に戻って、牛たちの糞を片付けたり、えさをやったり、山羊小屋を移動したり。

運動不足解消。

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08/07/07

ある島のある場所で見たもの

とある島の北側に妙なところがいくつかあると、地元の友達に聞いて、一緒にいってみた。

数箇所巡ったのだが、そのうちのひとつの場所に巨石が鎮座する妙な場所があった。基本的には、良いヴァイブレーションを満ちているところなのだが、何か負のエナジーも漂う。それでも、基本的には選ばれた場所であろうと感じられるのだった。

とりあえずその日は、鎮座する3mX7mはある巨石や周辺の雰囲気を写真におさめただけで戻ったのだが、三日後の今日、再び友達たちと訪れてみた。

最初の感想にはかわりないけけれど、じっくり観察をしていくといろいろなことが目に付いてきた。

まずその巨石。非常に大きいのだが、同行者が上に上って掃除をしてみたところ、なにやら表面に溝を掘ったような跡がある。飛鳥の酒船石をふと思い出した。

そしてその巨石の後方、一番手前に石舞台的な平べったい石がある。もしかしたらここで祭祀を行ったのか?。また、そこから上に向かって石が参道のように積まれていたのではないかと。実際、崩れたように両側に石がごろごろしているのだ。その奥には、表面を磨いた痕跡のある石がふたつ。こういったことから間違いなく祭祀に関する場所だったのではないか、と。

そしてはたと気がついてコンパスで方角を確認すると、その巨石から後方のふたつ磨いたふたつの石の線が南北にまっすぐだった。そしてその巨石の軸が真北から西に20度ほど曲げておかれている。

これは、もしかしたらアレではないか?違うかもしれないけれど、その可能性はゼロではない。

その夜、一緒に行った人からの情報で、この場所はかつて山を降りたところにある集落の拝み場所だったことを知った。ただ、近年はこのあたりでは自殺者などが多く、誰もよりつかなくなっている、と。

最初の感覚は正しかったのかもしれない。もともと良い場所のはずなのに、何か違和感を感じたということ。

日本は本当に広くて深い。


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02/03/07

おそるべしジュウルクニチ

ジュウルクニチ。グソー正月である。今日ではない。来週の月曜日。今年は3月5日。いわゆる、亡くなった方のためのお正月。

では何が「おそるべし」なのか。

それは民族移動でその前後、飛行機が満席状態になるのだ。今日は宮古へ行ったのでその強力なパワーを実感。

ウチナーにおけるご先祖さまの供養といえば当然、シチガチ(旧盆)が知られているけれど、次にでかいのが、清明(しーみー)。だいたい4月中になることが多いけれど、この間の20日間ほどの週末あたりは中北部から南部へ。那覇から中北部へ、民族大移動。名護と許田の間の58号線が「シーミー渋滞」で車が数珠繋ぎなんてことも少なからず。

と、ここまでは、沖縄本島中南部を中心にした話。

一方で、今度の月曜日が当日のジュウルクニチにおけるご先祖様供養を清明以上にとても大事にする地域がウチナーにはある。それは、八重山や宮古の離島。山原。中部では屋慶名あたり。

今年は月曜日になったので、金曜日の午後から火曜日の午前中くらいまで、宮古、石垣方面の飛行機は満席便多数でなかなか希望の便がとれない状況。月曜日の午前中の東京那覇間もかなり混んでいるのは当日かけつける内地在住のウチナンチューが多いからなのだろうか。

とにかく、ジュウルクニチ前後にはご先祖様のお墓へ向かうウチナンチューたちの民族大移動が起こるわけであります。

で、今日の宮古行、当然満席。しかも車椅子が3台出動。本島に居住する宮古出身のおじい、おばあがご先祖供養のために自分のシマへと向かうわけ。

ということで、宮古、八重山方面を目指す内地の方。ジュウルクニチにかかる移動になるなら、早め、早めに動くのが吉かもしれません。

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18/02/07

旧正月準全島闘牛大会@沖縄市営闘牛場

今日は旧正月。つまり旧正月準全島闘牛大会が開催される日。昼前に起きてとっとと沖縄市営闘牛場へ。

全島大会の場合早めに入場しておかなければ場所を確保できないことが多いのだけれど、今日のような曇り勝ちの天気や大会のインフォメーションなどから鑑みるに3000人ぐらいの入りではないかと予想し、まあギリギリでもなんくるないさ。闘牛場へ向かう行きすがら車や人の数、雰囲気などから、予想が正しかったことをほぼ確信。

入場してみるとやはり客の入りはそこそこといったところ。3000人弱か。ちょうど開会の挨拶がはじまったところだった。

今日の主催は石川闘牛組合。取り組み数、全10番。C9にあたる指名特番に、昨日は見ることがなかった知人の牛が出るのでこっちも少々緊張ぎみ。近くを見回すとその牛主の親戚が三人座っているのだが落ち着かない様子。

最初の特番がはじまった。白のひよこ組あやせちゃん号が勝ったが今日はもしかしたらかなりよい大会かもしれない。そんな気にさせるなかなかの対戦。面白かった。

そしていよいよ知人の牛ユウケイ・一永が登場。以前から噂されていた平良号との宿願の対戦。力としては平良号の方が優るのではという話もあったのだけれど今日はこっちに分があるのではという立ち上がり。気の荒さが良い方に出ていたように感じる。結局、6分過ぎに、勝利。4連勝。ほっと胸をなでおろす。これで牛主の親戚にも普通に挨拶ができると思って目をやるとみなさんさんぴん茶をごくりと飲み干している。喉がカラカラだったのだろう。

緊張した対戦のあとは対戦に傾注できるというもの。ラッキーなことにC8花形戦、C7特番、C6軽量級タイトルマッチと非常に面白いケンカだった。とくにC7で勝利した3850赤虎。C6でタイトル奪取に成功した丸石開発白タビはチェック。

C5番から横綱戦にかけてもなかなかの内容。全10番と全島大会に比べれば対戦数が少ない大会だけれど今日の内容なら3000円は十分に適正価格ではないかと。

道具(角)を使ったカケ技が上手な牛、根性を見せ大逆転で勝利した牛。強烈なワリをかまし続ける牛。もたせこんで相手をいなして耐える牛。いろいろな特徴を持った牛が、よい状態で出場できたこともあるのだろう。この内容ならば、闘牛を見たことがないナイチャーが見てもまた見たいと思えるそんな大会だったように感じる。贔屓目すぎるのかもしれないが。

ということで、来週日曜日(2月25日)はいつも訪れている地区の牛が6頭も出場する予定の"具志川東若手有望牛大闘牛大会"が安慶名闘牛場で午後1時から開かれる。

全島大会はビッグイベントであるし準全島大会も有名な牛が出ることが多い。だけれど、こういった地方大会にも闘牛の面白さは十分にあるとぼくは思っている。とくに今回は闘牛を育てあげることでは定評のある地区の若手牛がそろうというので玄人筋の間でも話題とのこと。

個人的には知っている牛が一頭出場しただけでも今日のように過度に緊張してしまうのに、6頭も出たらどうなってしまうのか。そして現場の牛主や周りの人たちに至っては…。いや、緊張の一番大きな理由は終了後の宴会が楽しく酔えるか、しんみりとしてサキも進まない暗い会合になるか、だと思われるけれど。

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10/02/07

「おでん小町」

数日前、ネットを飛んできたメールが「おめぇがコザで行ってるいきつけのおでん屋とかいうの教えろ」とかほざいている。

メールの主はハナタレ小僧の頃からのバカ友達。マヌケな野郎のくせして、いっちょまえに流行に乗って沖縄までツアーで遊びにいくらしいが、なんでも那覇や恩納、名護に展開されるツアー客ご用達ホテルじゃなくて

「コザのホテルに泊まることになっちまったから、そんなにうめぇってーなら、いってやる。ありがてーとおもえ」

という塩梅。当方といたしましては、

「てめぇも、やっとこさインターネット使えるようになりやがったか。めでてぇーな。お天道さまがでんぐりげえって、浅草の観音さんもびっくりしてら。教えてやるからありがたくききやがれ」

といつものように丁寧に時候の挨拶をしたあと、こと細かくメールを流したのでした。

それで、ついでといってはなんですが、今日はその店、紹介しておきます。はい。いろいろな雑誌やサイトにも出ているのでいまさら感はありますが…。

お店の名前は「おでん小町」。沖縄市の「中の町社交街」にあります。ホテルニューセンチュリーの向かいの道を入っていってメインストリートの右の角。赤提灯に「小町」の文字が目印。

わからなかったら、その辺で客ひきやっているキャッチ(呼び込み)のニイニイに「おでん屋の『小町』ってどこ?」と聞けばわかるはず。というのも午後10時ぐらいからキャッチのニイニイたちが500円分とか1000円分とか言いつつ夜食(というか朝食かもしれないが)をテイクアウトしていくので知らないわけはない。

というか、昭和44年創業で、コザ暴動の時も営業していたという、この界隈ではかなりの老舗なので知らないともぐり。中の町の「顔」といって間違いはないはず。ニイニイたちも「小町へ行く客」にはしつこい勧誘はしない。