真壁花形はとてつもない牛かもしれない しかし真壁花形だけではない

父の日闘牛大会のC2番戦において、11連勝を飾っている読谷山若特牛に何もさせずに強烈なカケから押し込み最後には両角で読谷山を抱え上げてしまった真壁花形。

この牛、やはりただものではない。

3連勝ほどの真壁花形はデビューは今年だが年齢はそこそこいっている。そういった点を差し引いても、あの読谷山若特牛に圧勝したのだから、やはりスペシャルな牛であることは間違いないだろう。

この日、C1で勝利を収めた靖士山が11月の全島大会で横綱酋長若虎に挑むことは決定だろうが、もしも靖士山が勝利し、真壁花形があと2勝ほどすれば、間違いなく横綱戦へ挑戦という運びになるのではないか。それだけ、この真壁花形の潜在能力は計り知れない。

ただし、もしも酋長若虎が横綱を防衛し続けるなら真壁花形の横綱挑戦はもっと先だろう。なぜなら酋長若虎と真壁花形は同じ牛舎で飼われているという話なので、よくわからないが、牛主同士話がついている可能性も否定できないからだ。沖縄闘牛の世界というのは人と人つまり牛主と牛主のつながりを無視することはできない。穿った見方をすれば融通のつく牛主同士で横綱を回すということも可能なのである。

ただ、牛たちにとってはそんなことは関係ない。目の前の相手を倒すだけ。

現時点で、沖縄において横綱候補クラスの牛は、古堅モータース号(旧阿吽大力)、靖士山、真壁花形、あかり花形といったあたりといったことになるだろう。

古堅モータース号は先日の全島大会での勝ち方では、怪我が治ったのかはっきりはしない。とにかくあの対戦は全島大会にあるまじき酷さだった。

靖士山はすでに11月の全島で酋長若虎との対戦が決まりだが、攻め牛の靖士山が防御一辺倒の巨大不人気赤牛である酋長若虎にどのように挑むか。

真壁花形はその強烈なかけと体躯でどこまで登りつめるか。デビュー間もないが経験という面での心配はないと思われる。ただし個人的意見だが後ろ足の運びがいまひとつなかんじがする。

あかり花形は現在四連勝だが実質三勝しかしていないというあたりの経験が問題か。

そのほか、本日負けた、源大尊、読谷山若特牛も今後次第では綱を狙える可能性がある。ここからどのような展開になるのか目が離せないこれからの沖縄闘牛界ではある。

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安慶名での大会は、お祭りになりました。

久しぶりの安慶名闘牛場での大会。

出入りしている集落から5頭もの牛が出場し、その中でも友達のここまで2連敗の牛が初勝利なるかが個人的には一番の問題だった。

とりあえず組めば強い牛なので大きな心配はしていなかったが、とにかく2連敗というのが問題。一度目は、途中で飽きて逃げ、2度目は組みもしないでリング内を走り回って終わり。

敗戦の二戦はともに石川ドームだったので、今回安慶名に環境が変わったことが功を奏するかだ。

うれしいことに勝利。友達のお父さんともがっちり握手。

おまけに、集落から出場した5頭すべて勝利。おまけに宜野湾の知人の牛も勝利。

小さな大会とはいえ、個人的に関係する牛すべてが勝利したというのはまれにみる結果である。

で、牛小屋でのお祝いのあと10人ほどで中之町へ繰り出す。みんな笑顔で本当によかったよかった。

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勝ったのだ、あかり花形

第91回春の全島闘牛大会Cの5番戦で、あかり花形は常勝会荒波に勝利。

何を思ったか(といって牛の思っていることは分かりづらい)、いつもと逆の右からのかけを繰り出す花形が強烈に押し込むが、そこをこらえた荒波が得意のうっちゃりで応戦。足を運んで耐える花形。このような攻防が2度ほど。やはり花形の経験不足は否めない。

体重や道具、身体のつくりなどは花形の方が確実に上なのだがやはり闘牛はそれだけでは勝てない。喧嘩をした経験値がものをいう。そろそろ油ののる年齢にさしかかった花形だがいろいろあって、実質的にデビューしたのは今年の正月。実戦経験が10戦を超える荒波との差はいかんともしがたいものがある。

そんなことを思っていた、4分半すぎ。荒波が背走。追った花形がリングに荒波をはりつけにして勝負あり。対戦前はどっちにせよ5分以内でけりはつくという判断をしていたので、想像していた範囲の結果になったといえるのかもしれないが、正直いえば、どちらに転んでもおかしくない戦いであったように感じる。

しかし、とにかくもこれで3連勝。次は今回以上の難敵になるかと思うが、怪我だけには気をつけてがんばっていただきたい(って牛にいって意味あるかどうかは不明)。

実はこの対戦のことが気になっていたのと、あまりの人の多さに席に座れず、ずーっと立って観戦していたこともあり、ほとんど集中できず、封切り戦からC6までの対戦の記憶が薄れているのは歳だからだろうか。全島にあっては恥ずかしいとしかいえないだろう、何もしない20分での引き分けがあったことだけをかろうじて記憶しているだけ。

しかし、あかり花形勝利後の隠岐爆弾とGOGO雄紀号の軽量級のタイトルマッチは43分ほどの長いケンカになったにも関わらず(勝利に安心したこともあったかもしれないけれど)いや、本当に興奮したわり合いの一戦となった。

雄紀号の喧嘩もたいしたものだったが、それよりなにより隠岐爆弾のしなやかで強靭な身体と長期戦でも折れない根性は、軽量級横綱にふさわしい。同じ階級では現在敵なしといっていいのではないだろうか。

C3からC1は…。詳しいコメントはひかえておいた方が大人の態度というものであろうか、と。そんな出来だったように思う。それでも簡単にいえばC3は意外だった。どちらもどこまで、体調が戻ったかが鍵だったのだがほとんど角をあわさずに終了。C2とC1は長期戦になることはわかっていたので、その通りの結果であったということ。ただ、両対戦とも30分ほどであったものの、隠岐爆弾戦の40分の対戦時間の方が短く感じていたのはおそらく私だけではないだろう。

全島はやはり全島であってほしいと願うのだけれど。

来週末はドゥシの牛が2頭出場。勝てるといいな。

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伊仙町のシマウタCD 『伊仙町シマジマぬ唄』 素晴らしすぎるのだが…

Woshite_4徳之島の友人たちが関わった新しい徳之島のシマ唄CDが完成して、聴く機会があった。

内容は徳之島の伊仙町で唄われて来たシマウタなのだが、これまでCD化されていなかった曲や長すぎて一部はしょられ短縮ヴァージョンのみであった曲が全歌詞を唄ったヴァージョンで入るなど、南西諸島のシマウタを愛する人にとってだけでなく音楽好きにとっては狂喜乱舞の内容といってよいだろう。

さらにシマグチによる歌詞カードおよび日本語訳もついている。これを素晴らしいといわずして何を素晴らしいというのだろう。関係者の努力に拍手を送りたい。

とにかくこのCDは学術的価値が高いだけなく徳之島という島を多くの人に理解してもらうきっかけのひとつとなりえる出来栄えである。

知っている人には釈迦に説法だが、徳之島は南西諸島に残る琉球文化と本土文化の緩衝地帯に存在する地域でありその文化状況におけるウタという側面から、かつ、葬送唄、呪い唄などが残り日本列島弧に居住する人々の心象風景や習俗を知る上で民族音楽研究者にとって=日本人にとって、もっとも興味深いシマウタを残す島のひとつである。加えて、徳之島のシマウタはこれまでCDだけでなくカセットで手に入れられるものも少なかった。つまり徳之島在住者、関係者以外、徳之島のシマウタを聴く機会は限られていたいってよいだろう。

お隣りの奄美大島ではシマウタのCDがあれだけ多く発売され元ちさとなど多くのシマウタ出身の歌手をポピュラーミュージックの世界に輩出している。喜界島もそうだ。確かに沖永良部や与論のシマウタCDは少ないがこちらはほぼ琉球文化圏といってよく、本土の文化と琉球文化がいまだにせめぎ合う徳之島のCDがなぜ少ないのかと個人的に解せなかったのだが、そういったとにかく「ものがない」現在の状況に、このCDが登場してきたことを貴重といわずして何を貴重といえばいいのだろう。そういうことだ。

ただし、である。ここが大きな問題点なのだが、このCD。伊仙町が請け負った文化庁事業で作られたため一般には販売されていない。よって徳之島在住者および親族や知人が徳之島にいる人間以外、今月作られたものであるにも関わらず入手困難と思われる。誠に残念なことだ。

本来、国家の事業というものは国民から徴収した国税でまかなわれているわけなので、その成果が一般国民に供されてしかりと考えられるのがまっとおだろうが、このCDに関してはいろいろと複雑な問題があるらしい。落胆せざるをえないが、えてして世の中こういうものではある。が、こういった行政との関わりあたりにも徳之島のシマウタが世に知られていないひとつの理由があるのではないか、と愚考するわたしだ。

本当はこの文章の中に、収録された曲のタイトルや一曲一曲個別に私の感想なりを書いてもよかったのだが、世界のほとんどの人が手にできないCDについて詳しく書くというのは、明らかに選民思想であり、かつ、余計な誤解を生むもととなるかもしれないので、今回はひかえることとした。できれば、このCDについてのより詳しい検討結果を書いてみたいのだが、それは未来への課題としよう。

宝は眠っているうちが華ということだろうか。それもひとつの見識であることは否定しないのだが。

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とりあえず調子はよい

5月10日、全島大会に出場する、あかり花形。

調子は悪くない。食欲もあり、みんたま(目玉)にも力が漲っている。身体もこの一月ひとまわり大きくなった。

相手は経験のある良い牛だけれどなんとか勝利してほしいものだ。

20090428036

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あかり花形 全島出場決定

本日、石川の舞天館(ぶーてんかん)での会合において、5月10日に開催される第91回春の全島闘牛大会の取組が決定。

先月29日に愛美無双を破った、あかり花形がC5番戦で、常勝会荒波と対戦することが決まった。

おそらく今年中に横綱挑戦するであろう真壁花形、実力牛靖士山、期待の源太尊あたりが取組からずれたのは意外だったが(靖士山は怪我らしいが)、人のことはかまっている余裕はない。とにかく目の前の相手に勝たなければならない。

とはいっても調整がうまくいってさえいれば、あとは運を天に任せるしかないわけで、たんたんと準備をするのみ。

しかしながら、現在デビューから3連勝とはいえ実質今年の新正月が実戦の初戦だったあかり花形が、はやくも全島大会に出場できるとは。ラッキーな側面もあるが秘めた実力が認められたということになるのかもしれない。

対戦相手も連勝中とはいえ、経験、年齢的に大きな差があるがあかり花形が大きさで勝る常勝会荒波である。はっきりいえば靖士山とは年齢と経験、真壁花形は大きさと年齢、源太尊は経験といった面で現状かなわないだろうと予測がつくので、あかり花形にとって、実質3戦目の相手が常勝会荒波というのは現状ではベストではないがベターな相手。望むところだ。

あかり花形は実際のところまだ底が見えていない牛なのである。どのくらい実力があるのか。これまでの2戦ではその片鱗をのぞかせたにすぎない。その底を見極める意味でも、常勝会荒波戦は興味深いかと思う。

とにかく、まずは勝つことだ。

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南西諸島の「口説」

ぼんやり長年の音楽ストックをiTunesで聞いていたら、八重山の「念仏口説」と徳之島の「前原口説」や「全島口説」の節(メロディ)が同じことに気がついた。

加えて八重山の「黒島口説」も同じ節である。

もっといえば、沖縄に残る「口説」という名称がついた唄のそのほとんどが、同じメロディ。大宜味口説なども。

これは口説に共通する節=メロディラインなのか?

徳之島で活動する知人の学芸員がこんなことをいっていた。

「(徳之島の)「全島口説」に唄われている地名の順番はその当時の各集落を結ぶ道の順番ではないか」

八重山の竹富島には徳之島から移住した人々が作った集落がある。

南西諸島の「口説」は沖縄民謡(というか沖縄の三線)を練習する人にとって、最初の難関だという話もあるが。

現代のラップにも通ずるこの「口説」というものについて、多くの識者が様々な論説を述べているが、どのような経路を伝ってこのメロディラインが伝わったのだろう。

知っている方は教えてください。


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天狗?

たとえば、源義経が鞍馬山で教示を受けたという話があります。また、天狗の頭に載っている、ミョウチクリンな箱型のもの。これは、ユダヤ教のラビ(神主さんみたいなもん)が頭に載せていたものと同じではないか、なんて話もあります。加えていうと、なぜかわかんないのですが、日本国という極東の国においてかつて首相であられた、小泉純一郎さんも、エルサレムを訪れた時、例の壁で、頭にそんなもんを載せて祈りを捧げたという写真があったりしています(苦笑)。

それはそうと、テングは山中に生存の場を得ていたことは確実なので、山の民や修験道ネットワークと関わりがあったと考えることは、現状、まっとうかと思いますが、いやはや、天狗。正直いってよくわかりません。

私たちのイメージにある、あのとんがった鼻や真っ赤なお面。こいつらは誰なのでしょうか?

ここで、しょうもない私の経験からですが、現ロシア、当時はソビエトであったバイカル湖周辺に行ったときのことです。このあたりは、平原と川が続く基本的に平べったい場所なのですけれど「あ、天狗がいるじゃん」などと、思ったりしたのでした。正直、意味がわかりませんでした(笑)。私はラリってんじゃねーか?などと思ったり。

しかしながら、この私の内観からすると、天狗は現在のユーラシア大陸のステップやシベリア地帯と関係があるのではないかなあと思ったりしております。

もっといえば、ユーラシア大陸の肝である、ペルシャ(現在のイラン)あたりとも関連があるのか、と。

で、ミトラが出てくるんです。ミトラ=日本で一番知られているのは「弥勒」というやつですね。沖縄というか、八重山ですが、そのあたりでは、「ミルク」。「ミろク世=みるくゆ」なんて言葉もあります。

ここで「ミトラ」とか「ゾロアスター」とかで検索してみてくださいませ。「火」というキーワードが浮かび上がります。火神楽とか。ニタニタしてください(笑)

で、ちなみに、現在の韓国語で「弥勒=ミルク」なんですね。だから、なに?なんですけど(笑)。もひとついえば、京都の広隆寺とか(これはハニーさんにお話しましたよね)。で、も、もひとついえば、ここで、「秦氏」なんてキーワードも出てきたりします。

脱線しましたが、そういったいろいろな関連が考えられる天狗が、徳之島にやってきた経路と経緯は? これもまた、とっても楽しい謎です(笑)。

つーか、ちょっと疑問なのですが、テンゴとテングはやっぱり一緒なんですかね?。南西諸島においては基本的に、「え」と「お」の二つの母音は脱落する傾向にあるので、テンゴ=テンゴゥ=テング=天後、となっていても不思議ではないんですが。

やっぱり三京、馬根、中山、白井あたりを徹底調査ですか?(笑)

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徳之島の遺跡図から(3) 天城町

トレジャーアイランドという徳之島在住の友達がやっているサイトにおいて、過去に鹿児島県が調査したという遺跡図がフラッシュペーパーでアップロードされた。

この遺跡図から現状、私が思うことを三町にわけて、メモ代わりにとどめておくことにする。

当然、これらの見解が外れても、あっていても、当方は関知しませんのでそのあたりはよろしくお願いいたします。

天城町

●与名間
周辺の地名などが分かるのが非常に有意義である。シバマツリ?これに当方が探索した資料を重ね、探求していけば、与名間の謎が分かるかもしれない。

●松原
フルグンコ、つまり現在の松原神社のあるところだが、この泉のある山肌がカジヤ跡であったというのは、なるほど、と納得。向かいにアミフシドーがあったということは、往時はこのあたりまで船は上がってきていたという証左だろう。フルグンコのイジュンで船を操り移動していた人は、水を得ていたという話もうなずける。ところで、松原にもグスクがあるのだが、どこだろうか。

●岡前
カミミチがはっきり分かるのが収穫。しかしこのあたりももっと多くの遺跡、史跡が多いはず。

●浅間
馬鞍岳をカミ山とする構造であるのかもしれない。湾屋川北岸に開けた集落であることは確認できる。ここに見えるカミミチは場所がはっきりしないが、このあたりを探索するのもよいかもしれない。ウッカンドヌチ、ウガヌヤマも要チェック。

●天城
「アシャギ」の文字が興味深い。このあたりは考古学上の遺跡があったところのはず。タマグスクや大和城との関係も。字図などと照合していけばよいだろう。

●兼久
空港から伊仙方面へ向かうとき、このあたりで、左側の山や谷が非常に気になっていたのだが、この図でわが意を得たり。カミ山、テラ山というのは確実にかつてのグスク。しかし、記憶ではもっと怪しいところがあったはずなので、探索を深めればより新しい発見があるのではないだろうか。

●大津川
ウェーマグシク。このあたり一帯がグスク地帯だったと考えてよいはず。このあたりもいつも首をひねって通り抜けていたところなので要探索である。

●瀬滝
何度も訪れているところ。具体的な名前がいくつかあがっているのは収穫。ユーワタシ神というのは何?

●当部
やはり「グシク」という名称があったかというのが正直な感想。「カミヤマ」というのも、おそらくグスクで間違いはない。与名間等もそうだったがユーレイやケンムンが出るといわれる場所は聖地だった可能性が高いので要探索である。カジヤ跡も。

●西阿木名
西阿木名公民館周辺は、まだあまり見ていない場所。カジヤ跡にテラがあるということは集落構造を確認するべき。下原は、何度かいって、当分入りたくない雰囲気であったところ。秋利神との間の、牛ぬくゎ、ワンクヮーのあたりは、もしかして行ったところか?水の神も。首切馬のところは現状土砂採取跡になっていて、グスクだが、グスクと関係があるのかもしれない。

●三京
やはり「グスク」地名があったか、と納得。行かなければいけない。いつも、首をひねっていたところだと思われるし。また、この図のビンズルの場所は? おそらく三京坊主(ここではボージ)の手前だと思うが。川沿いを下って、位置のとりあえずの位置特定をしなくてはいけないだろう。


本資料は伊仙町とともに天城町についても、いまひとつ詳しくない。おそらく、調査した人間は徳之島町の海沿いでそのエネルギーが事切れたのかも。しかし、、天城町に関する遺跡資料や住民の話による情報があまりに少なすぎるため、この資料は有益だと思われる。

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徳之島の遺跡図から(2) 伊仙町

トレジャーアイランドという徳之島在住の友達がやっているサイトにおいて、過去に鹿児島県が調査したという遺跡図がフラッシュペーパーでアップロードされた。

この遺跡図から現状、私が思うことを三町にわけて、メモ代わりにとどめておくことにする。

当然、これらの見解が外れても、あっていても、当方は関知しませんのでそのあたりはよろしくお願いいたします。

伊仙町

●喜念
ほぼ重要な場所は網羅していたのだが、風葬跡やメーマトノチ、カミ山の場所が特定できたのは収穫。喜念原始墓とは? また、このフラッシュペーパー最後の細かい喜念集落図から見れば喜念集落は四つの小組合(小字?もしくは同属集団)から成ることが判明する。おそらく、郵便局のあたりが集落全体の中心であった可能性が高い。アシャゲ跡というのも気になる。また、現在の喜念小学校はかなりの聖地であったはずである。

●佐弁
もともと喜念から分かれた集落ということなので、この図でも簡素な内容。これにどれだけ遺跡を特定して重ねられるかが今後の課題か。

●面縄
風葬跡などの場所が改めてわかる。ここに見えるカミミチは図からすると一度丘をあがって降りることになるように思うのだが…。ということは、その途中に何か重要な場所があったはず。とにかくも、面縄は縄文時代から現代まで、人の営みが重層的に重なった場所なので、今後もいろいろな発見があってよいはず。

●検福
この図では穴八幡だけなのでなんともいえない。私が聞いたり確認しただけでも、まだまだ多くの遺跡が残っているのだが。ということは、それらを、再び確認することが課題ということだろうか。

●伊仙
墓地や風葬跡が特定できそうなのは収穫。初めて聞いたのが、イシャンダリメームリと八幌神社跡。

●鹿浦
もっと何かあるように思われるが、トビャラガナシだけが主な遺跡とすると、鹿浦が栄えたのはかなり新しく、鹿浦は鹿浦側を遡るための入り口という存在だったのだろうか?調べる必要はあるかと思う。

●阿権
すでにこの図以上の数の遺跡、史跡を訪れているが、県道沿いの風葬跡は、やはりそうだったか、という感想。

●馬根
何度も行っている地域。いまだにシバサシ、為朝石のあたりの特定が難しい。アジ屋敷の文字は場所としてもう少し為朝に近いが、いゆわる、ウービラグスクといっていいのだろう。また、シオづけグムリだが、たぶんここではないかと以前、探索して特定したが、位置的にはあっているのだけれど、支流の方向が違う。となると、現在特定している場所から西にあがった尾根の裏側ということになるのだが。

●中山
とくにコメントはない。分かっている場所。グスクなどもあるので、すでに当方の方がこのあたりの遺跡資料は多い。唯一、川の名称がわかったのが収穫。

●八重竿
いや、この辺りにも、もっと遺跡がある。間違いはない。貴島新兵衛とは誰?

●糸木名
糸木名小あたりは、大きな屋敷あったということだが、八幡神社が勧請されていることを鑑みるに、集落の聖地。後にアジ屋敷などにもなったかもしれない。しかし、このあたりはここに出ているだけではないはず。

●木之香
すでにもっと多くの遺跡を把握しているが、地神の位置は再確認であろう。

●犬田布
ミョウガングスク裏の風葬洞というのはたぶんあそこだろうと特定できた。犬田布貝塚向かいの風葬跡は知らなかった。しかし、犬田布についてもすでにこれ以上の遺跡特定を行っているため、新しい発見は少ない。

●崎原
亀津からの移住者が作った集落と聞く。麦満神社は例の牛を祀っている神社だろう。


この資料を作った人は伊仙町に関しては時間がなかったのだろうか。おざなりな印象を受ける。当原も入っていない。伊仙町は多くの学者が入っている自治体で徳之島町の遺跡調査を一手に引き受けてきた印象がある。それなのにこのあたりでとどまっているということは、資料作成者の見解か酒を飲みすぎたか?(笑)

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徳之島の遺跡図から(1) 徳之島町

トレジャーアイランドという徳之島在住の友達がやっているサイトにおいて、過去に鹿児島県が調査したという遺跡図がフラッシュペーパーでアップロードされた。

この遺跡図から現状、私が思うことを三町にわけて、メモ代わりにとどめておくことにする。

当然、これらの見解が外れても、あっていても、当方は関知しませんのでそのあたりはよろしくお願いいたします。


徳之島町

●手々
集落後方(南)に神山。基本的に県道の山側を今後探索すべき。琉球を被っている集落ではあるが、それ以前の形が見えてくる可能性あり。

●金見
ほぼ検討はついてるが鍛冶場跡を確定することで、大まかな集落構造を現状に落とし込めると考える。豊受神社の存在を覚えているご老人がまだいればよいが。

●山
集落そのものがアメキデとの関係がやはり強いことが分かる。学校裏の鍛冶跡の特定。ヌルゴー山(ナゴロ山)。山中学校の場所だと思われる風葬墓。山中学校あたりも要探索。

●轟木
鍛冶跡はもちろんだが、「エルダ」が気になる。現在の集落より少々ずれたあたりに昔の集落があったように思える。

●花徳
丘(ここもグスク)上の新村ができた時期が分かったのが収穫。水神、人形石のあたりは以前から注目していた山の下あたりか。小学校?

●母間
鍛冶跡の集中が異常。特殊技能集団居住地のにおい。小字にキナ(ここでは喜納)地名があることから焼畑を行っていたことがわかる。石垣溜とは?この集落も徹底的に探索すべきところではある。大本教跡というのは、確認せねばならない。日本の宗教史に関わる問題。

●下久志
久志地名があることから、どこのクシ(後ろ)なのかと思っていたが、この図からおぼろげながら、検討がつきはじめている。グスクがあり神山がふたつ。鉱山と鍛冶。母間とともに特定集団が居住していた可能性あり。

●井之川
聞いたことがある名称が多く、ある意味知った場所だが、三つの集落に分かれる井之川のこと。それぞれの集落と地名の関係を今一度要確認。ひとつ気になったのが、「グシク」と書かれている場所。現在の当方の知識では八幡神社と公民館のある山が「城」なのだが、ウェンニグシクの裏にもあるのか?はたまたそちらが「グシク」なのか。勘では、八幡神社の丘が「グシク」、この図の「グシク」別のグシクでは?

●神ノ嶺
あらためてここでの地名を見ると、やはり神之嶺はかなり有力な権力者(按司)が統治した、大規模な居住地(集落)だったのではないかと思われる。ハチノミネを含め全体的な調査が待たれる。

●諸田
鍛冶跡と水神を結ぶ神道の特定はしておくべき。ところで、徳之島東部沿岸における「クシ」はどこから見た「クシ」なのだろうか?

●徳和瀬
白峰神社はグスクもしくはウガンジョ。和瀬ドマイに続く神道は特定すべき。また、先人の詳しい研究があるので、照合が必要かと。

●亀徳
この図から見る限り、亀徳川を挟み、異なる部族集団が居住した可能性がある。東側はとくに混在地か。一向宗墓とは。秋津神社周辺はだいたい把握しているが、旧聖地とは?

●亀津
やはり大瀬川の左岸の山は「グスク」山だったことを確認。やはり舌状尾根すべてがなんらかの聖地であることが確認できる。徳之島において最も都会化している亀津なので、早急にすべてを特定する必要あり。

●尾母
溝川(じょうご)神社を中心に集落の境界に風葬場を作ったという集落構造か。セーチンダは小学校の校庭のはずれあたりか?当然、大谷山周辺、および、この図で、ウッカン屋敷やノロ田、共同墓地のあたりは要注目。以前行った、琉さん宅の裏山は大きなポイント。

●南原
大谷山から海にかけての場所に多くのポイントがあるということは、人の営みが相当あったということ。この資料の喜念の図には按司屋敷の名称も見える。特定できれば大きな発見。徹底的に調査するべき。また、ターチゴーのあたりは貝塚跡でもあるため、こちらも探索すべきポイントかと。

●白井
「あのあたり怪しい」といいながら通り過ぎていた地域。地名が分かり、大きな収穫。神山、アジ屋敷とあるのだから、やはり、怪しいと思っていた山がグスクといってよい。このあたりも、徳之島の心臓部のひとつなので要探索。

遺跡が少ないといわれ続けた徳之島町にも、大量にあるということが先人によって調査されていた事実は非常に大きなこと。徳之島では伊仙町が圧倒的な遺跡の残る地域で「徳之島町に遺跡はない」などという話をした研究者もいたと聞くが、私が回っているだけでも怪しいと睨んだ場所が多数。伊仙町とは異なる民族集団のにおいがぷんぷんするのだ。そういったことが今回のように陽があたったことは、非常に喜ばしいことといえる。同時に徳之島町にとってこれらの遺跡、史跡をどうしていくかが問われるだけでなく、ここにない遺跡や史跡をまだまだ当方は訪れているので、これらと整合、合致させて考える必要がある。

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いまさらだが無駄な抵抗はやめてとにかく聴くことです 大城美佐子『唄ウムイ』

 大城美佐子『唄ウムイ』沖縄で私が一番入り浸っている集落生まれかつ在住の名護良一さん(一応知ってるので「さん」づけ(笑)。以下略)が参加して唄っているという理由で昨年購入したのだけど、いやはや、すいませんでした。大城美佐子はホンモノのバケモノ(ほめ言葉です)だったわけで。

おかげで発売当日に買って以来いままで、このアルバムについて文章を綴るという作業に入れなかったのでした。

大城美佐子、1997年の名盤『絹糸声』以来10年振りの新録とか、売れっ子のエンジニア上原キコウが沖縄に帰って初めて手がけた島唄録音盤とか、知名定男、名護良一の参加といったうたい文句は、どうでもよくなってしまう、大城美佐子渾身の全14曲。

個人的には細野晴臣『FLYING SAUCER 1947』とともに、2007年ベストアルバムのツートップ。

とにかく、大城のその声。ゐなぐかでかる、と呼ばれていた頃の美しい高音は望むべくもないが、年齢相応に変容した艶となめらかさ。豊潤の凄み。

大城美佐子ここにあり。

参加している、知名や名護も快演を聴かせる。贅沢な音だ。

同時に、今回、彼女の声をCDに定着させた上原キコウの仕事も特筆してよい。

これまでの沖縄民謡関連のアルバムには感じられなかった、丁寧なサウンド処理がなされ、大城の歌声と三線が、スピーカーの前にくっきりと像を現す。

名うてのエンジニアとホンモノの唄者が作り上げた、沖縄民謡や島唄といった範疇を超えた快作。


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あかり花形 の 実質デビュー戦決まる

_igp4577ということで、新春正月に、いつも出入りしている牛小屋の一頭「あかり花形」の実質デビューが決まりました。

1月2日 新春闘牛大会。午後1時開始。石川多目的ドーム

相手は、松若力。

この牛、大きいです。ただ大きいといっても高さがあるということで幅はそれほどではありません。加えて、過去に2度ほどためし(練習試合)をとっているのですが、こちらは、普通にかけておしこめていました。

ただし、歳はほとんど同じなのですが、相手は何戦かすでにこなしており経験という意味では不利。なんといっても、こちらは一応不戦勝が一回あるとはいえ(このときの牛名は「名護花形」)、実質のデビュー戦ですから。

この大会、別の知人の小屋の牛(清龍嵐)も出るので、どちらも勝ちますよーに。

対戦予定は以下の通り。左が紅。右が白。

クロフネ vs 常勝会荒波
松若力 vs あかり花形
山栄春号 vs 翔龍
貴花トガイー vs 丸石開発白タビ
清龍嵐 vs 不動明王
手々青年団パンダ vs 琉球花形
白拳龍王 vs 光一号
丸昇組白龍 vs 大福大力
優心白龍 vs 玉善一号
荒風番町 vs 無限小力

下四つは良く知らないけれど、そこから上はそれぞれ、そこそこの対戦じゃないかと思われます。

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宴会の席で久しぶりにあったおばぁとゆんたくしてわかったこと

「おばぁ、肉とか食べる?」

「肉は好きさ。時々ステーキ食べたくなるよ」

「もちろん豚は食べるよね」

「豚は食べる」

豚肉は日常食といっていいほど沖縄ではよく食べるのであたりまえのこたえである。

「鳥は?」

「鳥は食べないさ」

ん、前、おばぁのうち行ったときケンタッキーフライドチキン出されたぞ、と思いだし、

「ケンタッキーは?」

「ケンタッキーは好きさあ。まーさんど」

「?」

ということで、おばぁにとってケンタッキーフライドチキンと鳥肉は異なるジャンルということがわかった。

沖縄ではケンタッキーフライドチキンはお土産やお祝いお返しなどに大活躍しているので特別な存在なのだろう。

半年ぶりにあったおばぁと話をして確認できたことでしたとさ。

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岩や山。日本列島各地に見られる海上からの目印

日本列島中央部(ここでは九州から北海道のこと)に存在する三角山や岬、海上の岩といった存在と同じような風景が、沖縄北部や離島においても、多々目に付くのは何故だろう。

沿岸近くに屹立する岩や三角山が沿岸航法や漁場の目当てになっているという事例は日本全国に見られる。

アマミクたちも海上移動にこれらを目印にしたのは当然のこと、だったはず。

奄美周辺には立神、沖縄にはキョウやキダラといった名前の岩。日本列島中央部においては、注連縄が飾られた夫婦岩や立ち岩。もっと大きなものでは、神奈備山(かんなびやま)と呼ばれることもある三角形の姿をした山。

これらの岩や山はなんのために作られたのか。もしくは見立てられたのか。

沖縄から奄美、九州、瀬戸内、近畿へ、そして紀伊半島、伊豆、房総半島へと続く、立岩や見立て山の存在。

現代の沖縄信者の方たちから見れば南九州あたりまでで止めておきたいお話かもしれないけれど、それは残念ながら無理だろう。海の道は続いている。

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石敢當(いしがんとう)におもうこと

石敢當(いしがんとう)。日本国内においては沖縄に多いといわれる。南西諸島出身者が移住した日本列島中央部にも少なくない。

基本的にはT字路の低い場所に置かれることが多いようだ。一種の魔よけで、魔物は低く真っ直ぐ進んでくるため、この石巌当を置いておくと魔物がこれにぶつかり退散するということらしい。

現状、石敢當がどこから、そしていつ頃日本列島弧にやって来たか、現代における石敢當の全国的な広がりといったあたりが識者の間での問題点になっているように感じる。

一応出自は現在の中国大陸南部あたりではないかと考えられているようだ。

徳之島で、九字の入った石敢當を見たことがある。九字はもともと道教からもたらされたものが密教、修験等系の仏教に取り入れられたということだが、そう考えると、九字のある石巌当はもしかしたらかなり古いといえるのかもしれない。もしくは仏教、修験道の日本列島中央部から南西諸島への伝播によってもたらされたのか。

わたしの場合、そういったことに加えて、どちらかといえば、この石敢當を置くという人の行為そのものに興味がある。

逆にいえば、なぜ人はT字路や辻、曲がり角といった路傍に魔を感じ、怖れ、身を護ろうとするのか。

奄美大島などでは、石敢當が置かれるかわりに辻に魔よけの木を植えることがある。これが部落の端に植えらているならば、一種の結界表示機能を有しているとも考えられる。沖縄の名護にあるヒンプンガシュマルはその典型かもしれない。野本寛一などはそんなことも言っている。シマ(集落)とソトを分ける目印としての木。石敢當にこのような機能はなかったのだろうか。

沖縄県中部に喜友名という集落がある。現在は普天間基地の北あたり。この集落にはあちらこちらに古い獅子の石像が置かれている。これはかつての集落の境に置かれたものだそうで、様相からして、沖縄の家の屋根や門柱に置かれることがあるシーサーの原型と考えることもできるかもしれない。

石敢當、辻の木、獅子、シーサー。

どれも魔をよせつけないために置かれる。人は魔性の者を恐れる。ウチではない外部からやってくる異形の魔性がもたらす不幸や悪を恐れる。そして不思議なことに、そのソトからやってくる異形のものに対して怖れを抱くだけでなく、崇拝し、受け入れるという相反する感覚を持つこともある。

好奇心という言葉では片付けられないわたしたちの中の何か。その何かが、石敢當など路傍に置かれた石や木に、こめられているはず。それは何なのか。

石敢當を見るたびにそんな気持ちがもたげてくる。

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カムィヤキに関する現代のバイアス

http://www.amami-jc.com/s_bbs/s_bbs.cgiで’カムィヤキについての断定的な物言いがなされていて大きな違和感を覚えた。

そのBBSに直接返答すればいいのだろうが、私の考えていることを記すと長くなるので、こちらに記しておくことにする。

さて、鹿児島県の徳之島はカムィヤキと称する中世期土器の製造を司ったという歴史がある。

その流通範囲は南九州から八重山まで(おそらく台湾までも含む)。

この発見を東京に持ち込んだ前伊仙町歴史民族資料館館長の義先生、現在同資料館に勤務する新里亮人氏などによる論文が存在するものの、未だその全貌は中世の闇に包まれている。

このカムイヤキについて私も実際に現物にふれたり、徳之島の当該地域での表面採取により破片を拾ったことがあるけれども、中世においてこの素朴な土器が徳之島で生産されたという必然性とその事実について、確実なことを述べることはできない。

もちろん、各方面から様々な意見が寄せられているが、推定の範囲を出るものではない。

なんといってもこのカムィヤキの土が徳之島のどこにあるものなのか?という検証もなされていない。もしかしたら徳之島の土ではない可能性もある。また、徳之島で製造されていたことは確実であるけれど、徳之島のどの港から移出されたかも定かではない。

なんとも謎に包まれているのだ。

しかし、ひとつだけいっておきたい。

このカムィヤキという名称だけから、様々な判断するという行為は、現状、行きすぎであるということである。たとえば、カムィという単語は、南西諸島において、神、亀、などといった漢字を想起する言葉ではあるが、だからといって、カムィヤキが諸田の神之嶺や、亀津と関係があると考えるのは、早計であろう。なぜなら、カムィヤキの窯跡がある地域は現状、現伊仙町であり、上記神之峰や亀津は徳之島町である。ちなみにひとついっておくと(同じ亀がつく現亀徳はもともと、秋徳である。亀津も秋津と呼ばれていた)。

古来、現在のような一島三町の行政区域があったわけではないが、一年に10回ほど徳之島に訪れる私からすれば、伊仙のカムィヤキ窯跡地帯から、神之峰や亀津まで、その焼き物を運んでいく必然性が見出せないのだ。

それならば、窯跡からそのまま海へ下り、鹿浦や伊仙、面縄あたりの港から積み出した方が効率的なのである。また徳之島はシマ(集落=部落)ごとに言葉や人の気質が異なるというモザイク模様の文化形態を示す土地である。伊仙の窯跡地帯と、件の神之嶺や亀津の気質は今も違う(もちろん現代だけその習俗が異なるという可能性もあることは考慮する)。

単にカムィヤキという名称だけから、その積出港を神之嶺や亀津に比定するというのは、基本的に首を傾げる。

また、徳之島に居住するか何度も訪れ、島の文化をある程度理解している人間がそう言うのだとしたら、それは、現代社会におけるある種のバイアス(意図的な見識)がかかっているととられてもしかたあるまい。

とにかくあの大量に移出された焼き物を港へと持っていくことを考えれば少しでも近い港を目指すはず。少なくともめんどくさがりの私ならそうする。伊仙の山奥から亀津まで持っていくという労力が必要であるとは思えない。

もちろん、亀津がカムィヤキの島における集積地だった可能性もないわけではないし、カムィヤキの窯が現在の徳之島町や天城町に存在していた可能性もないわけではない。が、その理由がカムィヤキと亀という字づらだけからの判断というなら残念な見解といわざるをえない。

だいたい、亀津がカムィヤキ時期に亀津と呼ばれていたかもさだかではない。

もちろん、字名などから各種の遺跡を発見することは多い。しかし、何度もいうが、現在のカムィヤキ窯跡地帯から亀津にわざわざ焼き物を持っていく必然性は見出せない。

もしも神之嶺や亀津がカムィヤキの一大集積地で積み出し港であったなら一大発見である。ただそのためには本川に巨大な橋がかかっていなければ亀津への移送は困難を極めたであろう。もしくは一度伊仙町の海へ出て亀津に集めたというならわからないでもない。

加えて、本川流域や尾母近辺でカムィヤキの窯跡が発見されれば、亀津が積み出し港だった可能性も考慮することが可能になる。

とにかく大切なことは、ネットや書籍の情報をうのみにするだけでなく、自らの足で歩き、現地で想像し判断することだ。私はその経験と様々な文献から、カムィヤキの積出港は神之嶺や亀津ではないと今のところ考えている。もちろん亀津あたりが集積港として機能した可能性もあるが、それは面縄あたりでも十分ではないか?と思ったりもするがどうだろうか?

とにかく、件の投稿には首をかしげざるをえない。もしもこの投稿が誠実な気持ちからなされているなら南西諸島についての理解が浅いといえるだろうし、そうでないのなら、なんらかのバイアスや意図的な策謀を含んでいると考えるのが現状真っ当な見解だろう。

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日本フットボールリーグオフィシャルWebサイト様

拝啓

貴サイトの
http://www.jfl-info.net/stadium/00672.htmlにある沖縄市陸上競技場のバスでのアクセス表記を訂正したほうがよろしいかと思われます。

「那覇空港国内線旅客ターミナルよりバス 具志川空港線本線で「園田」下車、徒歩10分」

ですが、具志川空港線は113番で沖縄南ICで高速を降りてすぐ「沖縄市運動公園前」バス停に停車します。徒歩2分ほど。運動公園敷地に入るなら10秒です。またこのバス停についていえば、那覇バスターミナル発の180番屋慶名行き高速バスも停車します。

一般道路線の場合、ほぼ表記の通りでよろしいかと思いますが、該当バス路線の系統番号を書いておいた方がよろしいかと。

ちなみに、記載されている具志川空港線本線、具志川線、名護東線、謝苅線、知花線、国体道路線、石川空港線、屋慶名線、泡瀬西線、那覇こどもの国線の系統番号はそれぞれ、

具志川空港線本線(113)、ただし、113番はこれは高速使用バス路線です。具志川線(23)、名護東線(77)、謝苅線(63)、知花線(90)、国体道路線(112)、石川空港線(123)、この石川空港線も高速バスです。屋慶名線(27)、泡瀬西線(31)。

那覇こどもの国線というのは、こどもの国宮里線(22)ですかね?これは残念ながら表記の「園田」は通りません。たぶん、与那城線(80)と間違えられたのでしょうか?この80番は「園田」に停まります。ちなみに「園田」は「そんだ」と読みます。

その他、おもろまちの交通広場発(ゆいレール、おもろまち駅)から、具志川おもろまち線(223)、屋慶名おもろまち線(227)、謝苅おもろまち線(263)、知花おもろまち線(290)でも行けます。系統番号200番台はおもろまち交通広場発着です。

加えて、那覇空港から沖縄市陸上競技場なら、111番高速バス名護行きに乗り「沖縄南IC」バス停で降りれば徒歩3分。空港からそして那覇バスターミナルも停まりますのでこの111番が一番おすすめではないでしょうか。朝からありますし。

ただし、上記情報も、路線改変などで意味をなさないこともあります。正確な情報を得るのにおすすめは沖縄路線バスドットコムさんでしょう。沖縄でバスに乗らなくてはならないときはたいへんありがたく使わせていただいております。


と、日本フットボールリーグオフィシャルWebサイトにはメールアドレスの問い合わせ先がないので、自分のところに書いておきます。

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沖縄でひじきを採りにいったんですよ

ドゥシの家族+αとともに、ひじき採りへ。

昔から、このあたりのお家で食事をいただくと、ひじきを使ったつけ合わせが多いなあと思っていたわけだが、実は沖縄本島で、ひじきが採れる場所として知られていて、この時期になると集落の人々がアメリカ軍基地の許可を取ってひじき採りに入る、ということに。

適宜落ち合って、軍のゲートへ向かう。そこでひと悶着。やはり例の事件が関係しているのか、全員の身分証明書持って来い、幼児はダメだとニーセーターがいう。なんだかなぁ。そんなのウチナーじゃないでしょ。以前入ったときは車のナンバーと人数確認だけだったのに。と、思ったけど、ま、いっか。一度戻って親戚の子たちを下ろして保険証を持ってくる。めんどくさ。

とりあえず無事中に基地内に入り、目的の場所に車をとめる。何台かの車がすでに来ている。しかし日本の宗主国であらせられるアメリカ様はいい場所を選ばれます。さすがですね(いやみ)。

R0011591ドゥシのトゥジは2月の頭にお母さんと入っているので、二袋もあればいいよね、と言っていたのだが、「+α」が物凄い勢いでひじきを採りはじめる。もともと基地の中からではなく、崖を降りて毎日のようにひじき採りをしている「+α」の彼。崖の登り降りがないという気安さからか、結局16袋。それらを男三人で何度か往復しながら砂浜の上をかつぎ、坂を登り車まで。重い。

なんとか運んで、軍内でふらふらして帰宅。夕方、ドゥシのトゥジが牛小屋に今日取れた、ひじきで作った煮物を持って来てくれた。インゲン、糸こんにゃく、豚肉などで煮付けたもの。これが、でーじまーさんどー。がつがつ食べてしまった。とても柔らかく、ひじきのイメージが一新。

このあたりでは乾燥して保存し一年中食卓に上るわけだが、そっちの方もおいしいことはすでに確認済み。

沖縄でひじきが採れるのは、このあたりと南部の与那原だけ。NHKというテレビ局の番組で与那原のひじきを使った石鹸が紹介されたことがあるそうだけれど、実は、ここのひじき、このあたりの人の話だけれど「与那原のひじきはここから持っていったという話がある」ということだが、詳細は不明。

夜、ねぐらで考える。

日本のひじきは基本的に天然もので、主な産地は、長崎(対馬)、千葉、三重。中国と韓国でも採れるがすべて養殖なので除外。日本列島の北海道日高以南の太平洋沿岸。広島から兵庫にかけての瀬戸内。大分、熊本、宮崎、鹿児島。愛知、神奈川、岩手など。

金武湾とひじき。このあたりと内地との関係。ここから北の沖縄、奄美地域に、ひじきが採れるところを聞かない。ひじきがここだけというのは不自然すぎる。自然に出来たとは考えにくい。与那原のひじきはここから持っていったという話があるということは、こここのひじきも誰かが持ってきたのだろうか。

私の知識の中で、アマミクという言葉がよぎる。

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轟木側のコブと谷と尾根

天城町大城山の轟木側のコブ(つまり徳之島町側になる)へ上った。水が流れた跡と思しきところを上ると、大きくU字型に削った形跡がある巨大な谷の空間。何段かの石垣や巨石が。そこからGPSを頼りに急斜面をあがっていく。

結論をいえば、期待した、天城側のコブ(いわゆるフーグスク)にあったような巨石の拝み場所は発見できず。残念。ただここのコブはかなりまるくなっていて植生も年代が浅い。そしてお約束の松があり、となると、人の手が入っていた可能性はあるのか、と。

Fugusukuone

その場所を大城山方面に降りると峠に出る。そして尾根伝いにいけば大城山の山頂。進んでいくと、実際、道は見えているのだけど、木が邪魔してアウト。たぶん10年以上踏まれていない。行くならノコギリとナタ必須。ただ、この尾根、とても見晴らしがよく、花徳側の海が見える。そして大城山山頂から続く轟木からみえる三角山も目の前。

で、その北側に田んぼと思しきあと。段差と水を流した小さな掘り込みが。知人の話では轟木にあった染物のための田んぼではないか?とか。

このあたりであきらめて下山。

Fugusukuzentai

もときたU字型の谷のところへ来たのだけれど、よーくみると、この空間、内地的にいえば神社の境内ような作りのように感じる。神社といってもいわゆる聖地であった頃の神社。


Fugusukuiashigaki

参拝道と思しき石や、土止めも兼ねているような石垣。水を流したような跡。

R0011450

なんだか女性に見える石への彫りこみ。

Fugusukumitate

そしてふとみると、なんだか大城山を模したような岩。見立てというやつですが、見れば見るほど大城山の姿と似ている。手前のコブもあるし。

なんとなくだが、この場所、いわゆる当時の方の公園や内地でいう鎮守の杜みたいなもんだったんじゃないだろうか。暑い時に涼みに来る場所。そして拝みの場所でもあって、ここから奥は神女しか行けないところとか。

松原側と違って、ふんわりしたやわらかい雰囲気が漂っている。


Fugusukuentrance1

車をとめた道路に下ると、入るときに水が流れていた跡と思しきところは、滝だったんじゃないか?という思いが。気持ちよい水がいっぱいの。そしてよく見れば入り口の両側にたっていたんじゃないかと思しき石がふたつ。

もしかしたら大城山への正式の登山道(参拝道)はこちら側(徳之島町轟木側)だったのだろうか?。とにかく尾根からの景色が素晴らしい。整備すれば気持ちいい登山道かもしれない。

しかしなぜ徳之島には三角形の山頂の山が多いのだろうか。いや多すぎるし。

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まさにこれぞ灯台下暗し

大城山に登ろうと思っていたのだけれど昨日からの雨+本日の時々雨の天気で断念。

友達と何度も何度も通っていたけれど、いつも「ほお」「怪しいねえ」などとつぶやきながら通り過ぎていた与名間と手々の間。与名間灯台やムシロ瀬のあたり。

徳富先生の地名考を参考にめぐることに。

加えて、先日も書いたけれど別の知人から「ムシロ瀬は神殿の跡で、 ふりかえったら、山の上に羽のついた竜が飛んでいた」という話を確認しようと。

とりあえず空港から出発するが雨が降っていたので島に三軒しかないコンビ二のひとつで昼食。お弁当を食べる。島のコンビニの場合工場からできあいを持ち込んで作ることはできないので、すべてがコンビニ内で製造。これがなかなかおいしい。いいのか悪いの。

雨も上がり北の空も明るめになってきたので出発。

徳富先生の文章に残る「大和城 天城町の最北部」という文言を頼りに携帯にインストールしたGoogle Satで怪しそうな森をチェックしながら進む。

どう考えても山手側にある三角形の山が怪しい。以前から目をつけていた山。旧道に入ると土地改良がなされているにも関わらず残されている小さな丘陵の上に巨石遺構を発見。ノロ系の拝みどころなのか。ちょっと進むともっと大きな遺構も。なんなのだろう。これは。

やはりあの山が怪しい。登る道を捜すことに。近くの牛舎に人がいたので聞いてみた。しかし山に上がる道はないとのこと。それならばとこのあたりの字名を聞いてみると、県道の山よりは「はげだけ」。海よりが「さぎばる」。手々側が「いしぐじん」。

「はげだけ」。今はこんもりとした森になっているにも関わらず「はげだけ」とは。人の手が入った山で、その後、荒れていた。山城跡で戦闘後に放棄されたと考えたらどうだろう。見晴らしも素晴らしい。

ちなみに井之川の大城(ふーぐすく)も「はげやま」と呼ばれていたらしい。

「さぎばる」。これは字名にある「崎原」。

そして「いしぐじん」。友達によると「ぐじん」とは島の言葉で「たくさん」ということらしい。つまり「石がいっぱいある場所」。

手々方面に行ってみる。するとある場所で怪しい場所を確認。車を降りて目を凝らすとヤブの奥、森の中に大量の巨石群を発見。なんなのだ?。以前いった手々山中の石場から切り出したような。そんな岩があちこちに。GPSにマークしてとりあえず今日はそこを離れる。

続いて右に折れて海岸方向へ。そここに巨石のあとがある。単に置いてあるもの(自然にできたとは思いにくい)。こんもりした丘の上に置かれた巨石。そういったものが散見する。うーむ。これは。

そして与名間港へ。ここもどう考えても不思議な石に囲まれている。すべて自然だろうか?

極めつけは与名間灯台。

知人もはじめてくるという。上がって、周りの斜面を見ると、人工的に割られた石が丘の斜面に散乱。ところどころ石を積んだ跡も確認。間違いなく見張り台か住居か拝み所に使われていたに違いない。降りたところに畑地になった平場もあった。グスクといってよい。

「灯台下暗し」とはまさにこのこと。灯台は海側から見えやすいよい場所に作る。当然それは昔の人も同じだ。話によると亀徳の灯台の場所もグスクだったとのこと。なるほど。

友達の仕事の時間になったので海沿いの小道を散策がてら亀津へ。途中、ちょっと変わったお墓群をみつける。

知っているけれど、知らない場所はまだまだありそうだ。

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天願グスクについて再び

天願の公民館を訪れた。

区長さんにいろいろなお話を聞く。

わかったことは、先日行った、拝所のある森は、地元では「霊化森」と言っているとのこと。なるほど。

その尾根伝い南東、現在破壊されて部隊内の図書館になっているところが、チュムイ(人森)。沖縄の古典踊の南島(フェーヌシマ)の舞台になった場所らしい。びっくり。難破したオランダ人をかくまった場所。破壊されてしまって残念とのこと。そりゃそうだ。

その南、天願交差点に面した山にウタキがあってその中腹に戦前までは天願小学校の校舎があった。写真も見せていただいた。

県道をはさんで天願貝塚。その南が現状天願グスクといわれている場所。地元ではツチグスク(土城)と呼んでいる。こういった状況から「天願グスクはツチグスクといわれている」とあちこちで書かれているのだろう。

ところが、区長さんいわく「霊化森だけは部落の共有地だったのです。ですから、天願グスクとは霊化森のことではないか?」と。

一部は宇堅側の人の土地になっているらしいが、現在も基本的に天願集落の共有地であるらしい。個人的にここに入ってみて、いろいろ見たわけだが、まったく、区長さんのおっしゃる意見に賛成である。

もっといえば、この霊化森からツチグスク、天願川を下って野鳥の森公園あたりまでの尾根づたいが天願按司の居城の領域だったのではないか?そう考えたらどうだろうか?琉球史ではほぼ消されている沖縄の歴史。

現在、集落史の編纂を考えておられるとのこと。いろいろな話が出てくることを期待したい。

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帰る日に滝登り

今日は島を離れる日。

飛行機は午後4時前の便なので時間がある。飛行機の時間まで知人たちと島の西側、秋利神という地区を探索。

どうやら絶壁が迫る港の脇に小川が流れてでいる。そこから上を目指す。いつものように鎌を手に藪をかき分け進んでいく。足元は水が流れる滝でツルツルとすべる。自然が作ったものか人工かどうかは定かではないが、ある程度藪をかき分けると、階段状になっていることにも気づく。

登り切るとだいたいの全容がわかった。左手に芋科の植物が群生していたところは、昔の棚田の後。登りきったところにイジュン(湧水)。近くにはどうやらお墓のようなものや石垣を積んだ跡もある。

あとで確認したが、このあたりに住んでいた人が使っていた浜に降りる道らしい。そしてこのイジュンから右手に上って行けば、上の道に出たことも、この地に住んでいた人とGPSのログデータからほぼ判明。惜しかった。

さてどうやって降りようかと思ったのだが、藪を刈りながら進むが断崖絶壁に出てしまい、やむなくもと来た階段状の滝を下る。足元が滑るので慎重に。しかし草を刈っていたので、思っていたより楽に降りられた。おかげさまで、靴やジーンズの裾は水びたしでびちょびちょである。

1時間後、そのまま飛行機に乗ったら、僕の泥だらけの姿を見て、キャビンアテンダントの女性に「島では何をされてたのですが?」と聞かれ「山登りです」と答える。間違いではない。隣の席はあいていたので他の人に汚れがつかなくてよかった。

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グスクをめぐって夜光貝を食べた日

昨日、ウンノーグスクの南北の全容がだいたい把握できたけれど、あまりに巨大なグスクではないかという結論になった。I町の史跡が増えることになるけれど、全体に調査を入れると3憶ぐらいかかるのではないかと。

今日はそのウンノーグスクに島の若い女性をひとり連れていった。こういった史跡に興味あるだけでなく、徳之島の唄者としても有名な子だ。実は昨年全国の若手を集めた民謡大会で優勝している。こちらとしては三日連続で飽きてきてはいるだが(笑)、どうしてもということで友達たちと昨日発見した道を行く。

その後、島東部の友達が新しく発見したグスク跡を確認しにいき、続いてB地区の線刻画を確認したあと、B集落へ。

ここには噂に聞いていた知人たちの知り合いの夜光貝でアート作品などを作っている方がいる。その工房へ。いろいろ話がはずんだ。どうやらこの方はもともとは漁師でもあるらしい。夜光貝の殻は朝鮮半島で作られていた螺鈿細工に使われていた。身は食べてもおいしい。

すると同行した女性が工房の主から夜光貝を三つほどもらった。その場で身を取り出してもらう。素早くナイフで縁をこそげないと身が縮んでとれなくなる。さすが鮮やかな手さばき。

そのまま、I町へ。昨日同行した女性陣が話をしたいというのでいろいろ話をする。そして夜は同じI町の知人の家で先ほどの夜光貝をいただく。身のやわらかいところは刺身。硬いところは圧力鍋で。うまいなあ。

この島は普通に幸せがまだあるように思う。

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アマミクの里とグスク群。地球の鼓動と人の営み

I町の女性陣と町の東方のイジュンをめぐる。

何度か来たことがあるミョーガングスクそばにあるイジュン(湧水)へ案内される。

おお。ここも凄いぞ。イジュンの出口には鍛冶屋跡。前方にウージ畑。つまり以前は田圃。右手に台地があり、案内してくれた地元の女性に「ウフヤーがあの辺にあったのでは?」というとやはり「フーヤがあった」とのこと。絵にかいたようなアマミクの里ではないだろうか。

その後も別のイジュンやグスク跡をめぐりこのあたりがグスク地帯であることを改めて確認。最後には何度も行っている穴川神社へ。ここもイジュンが著名。いつもきれいにしていて地元の人の信心が厚いことを物語る。

いろいろ話をしていたら、この場所の掃除をしているのが、本日案内してくれた女性であることが判明。若いのに立派だ。感服。その女性の話によるともともとの集落はこのイジュンのそばにあってかなり大きかったらしい。ここも絵にかいたようなアマミクの里。

帰り際に、塩田跡へ。江戸時代からのものらしいが、サンゴのごつごつした海岸を削り取って塩田として使っていたのこと。見事。先人の労力が偲ばれる。近世から近代にかけての立派な遺跡だ。

一緒に行った女性陣の中に地質に詳しい友達がいて、この塩田のとなりにある巨大な岩へ案内される。周辺とはあきらかに違う。地質学でいうメランジュ。いろいろ混じり合ったというフランス語から来た名前だが、これだけ大きく立派なメランジュの岩が顔を出しているところって日本にあったか?確か四国のどこかが有名だったように思うけれど。

やはりその友達いわく地質学の先生が来た時も驚いていたらしい。

この場所、地球レベルの年代から近代までの見どころが。ちょっと整備すれば立派な観光地というものではないか。

この島はスゴイものにあふれている。

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島には不思議なものがあってよいはず

夕方、島の探索から帰ってホテルでだらだらしていたら、昨年、松堂玖邇さん関係で知り合った島在住の女性が訪ねてきた。

この方はもともと沖縄、那覇生まれらしいのだが、親は具志川のそれなりというかかなりの家系。そういった方面のチムダカでもあるらしく、興味深い話が聞ける。

沖縄や徳之島だけでなく広島や東京の話にもなったのだが、その中でとくに気になったのは、島の北部のこと。

彼女が内地からやってきた女性とムシロ瀬を訪れた時(この場所も彼女がいうに古代の神殿跡らしい)、その後方、南の山系に、羽のついた龍が飛んでいるのを見たのだという。

その場所あたりは、昨年来知人たちと何度も訪れている巨石の拝み場所などがある不思議な地帯。江戸の頃までは集落もあったというが。

僕個人は努めて文献や研究成果を吟味し、現地に赴き、科学的、実証的に理論だって物事にあたるタイプだと思うのだが、こういった話は嫌いではない。というより、こういった人の感覚や幻視の風景も現実であり科学の対象だと考えている。

昼は昼で知人たちと楽しい発見ができたし、夜にも楽しい話が聞けた。良き一日であった。

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ドゥシのトゥジがイナムドゥチを作ってくれた

食堂などであまり置いていないので、沖縄通のナイチャーでもなかなか口にする機会がないかもしれない。

友達の店にいったら奥さんが「食べる?」といって出してくれたのがイナムドゥチ。3年ぶりぐらい。

短冊に切った豚の三枚肉にしいたけ、こんにゃくを沖縄独特の甘い白味噌で仕立てた内地の豚汁に近い代物。

味噌の甘さがとても優しい。ただし、この甘さは苦手という東日本の人もいるかもしれない。ただし冬場の寒い沖縄では御馳走だ。

ところで、この「イナムドゥチ」という料理、なんでそんな名前なんだい?と30年ほど前から思っていたのだけれど、10年ほど前に食堂のオバァからその出自を聞いて判明。

今では豚の三枚肉を入れるのだけれど、もともともはイノシシの肉を入れて作っていたらしい。これでもうウチナーグチがある程度分かる人にはわかるかと。

つまり猪肉じゃなくて豚肉を代用にしたので、「いのししもどき」。

これをウチナーグチでいえば、「イナムドゥチ」になる、と。

はるかけき昔の沖縄のご先祖さまたちが猪の肉を普通に食べていたという証左であるともいえるかもしれない。そういえば全国あちこちに存在する猪垣はヤンバル方面にも残っている。

くゎっちーさびたん。

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煉獄あたりの船旅

友達の話によると鹿児島ー沖縄航路では一番揺れない船のはずだった。

那覇から9時間半の船旅。ニシカジ(北風)が強いこの季節。ただでさえ上り(那覇から鹿児島へ)は揺れるというのに、そこにあらわれたのが季節を間違った台風ふたつ。南の海上へ逃走して熱帯低気圧になったとはいえ、海はつながっている。

朝6時半。乗船券を買ったら「条件付き」。つまり、目的の港に入れない可能性があるので、名瀬での下船を承諾しないと乗せないよということ。覚悟を決めた。

横揺れはスタビライザーで抑えられているものの、上下に揺れる揺れる。朝7時の出航から午後5時半の到着まで、船には強いはずのおれっちもさすがに便器を抱え込みそうになった。

そんな船中でもラーメンとおにぎりを食べる家族連れ。なんというか。三半規管の構造が違う。船に強い人は強い。

ふらふらになりながら1時間遅れで、なんとか目的の港に到着。名瀬に行ってたら、明日の朝に戻ってくることになってたもんね。不幸中の幸い。

揺れない船だと教えてくれた友達が車で迎えに来てくれていた。ホテルにチェックインし、そのあと牛小屋を探索。いろいろ話がはずんだ。

そのあと友達と小料理屋で食事。そして明日からは山巡り。

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第88回秋の全島闘牛大会 横綱交代も微妙な内容

 ひとことでいえば、旧石川市で行われた、旧石川市域の牛のための大会といってもよいかもしれない。

 番付を見れば一目瞭然で、石川闘牛組合の牛が6頭。伊波闘牛組合の牛が2頭。8/26。つまりほぼ三分の一が石川、伊波両闘牛組合の牛。今年の春の全島闘牛大会も石川が5頭。伊波が2頭と旧石川市域の牛の全島大会への出場が多いという傾向は近年ますます高まっている。

 牛主の体調が悪かった古堅モータースが出場を回避したのは理由があることとはいえ、勢頭からは一頭も出場せず。勢頭の組合がなくなったのだろうか?。そういえば胡屋もゼロ。読谷は一頭。具志川は三頭だが、最近、西と東の両闘牛組合が一緒になったことを考えれば1.5頭ずつ。いろいろな事情はあったのだろうけれど素人目に見ても偏った印象はぬぐえない。

 もちろん「石川方面の牛が優秀であるから出場したのだ」ということなら分からないでもない。それならば、全島の名にふさわしいだろう。しかしながら、横綱を狙えるであろう評判を聞く中堅どころの期待の牛が、ほぼ出場していないという今回の取り組みをどう捉えるかだ。

 しかもC4番戦、靖士花形対クロフネはクロフネが怪我らしく不戦。正直言って、これぞという対戦が少ない今大会における期待の対戦であったので嘆息。また、その後のC3番とC2番が急に順番を急遽入れ替えたあたりの運営も分かりづらかった。

 全島大会という大会は、数ある闘牛大会の中で沖縄最高峰の大会だと思うのだが、今回の取組がその名にふさわしかったのかどうか。石川組合主催の大会なら何も文句はないのだけれど、やはり全島大会である。「これでは第88回秋の全島三分の一石川闘牛大会ではないか」という声も聞こえた。

 翌日の新報にしろタイムズにしろ、こういった事実についてはふれずいつものように盛り上がったという評に終始している。闘牛を盛り上げる目的のためであろうが、もしもこういった内容が続くことになると、沖縄闘牛そのものの存続にも関わってくるのではないかと危惧される。

 やはり全島闘牛大会は準全島や地方大会で優秀な成績をおさめた闘牛が一同に介する場所であってほしいと思うのは単なるファンの都合というものだろうか?

 石川組合からの出場が多かった前回はそれでも他の取組のバランスも良く面白いと感じた。しかしながら、今大会は初めて沖縄闘牛を見た人間であれば楽しめたとは思うが、当方が物足りなさを感じたのも事実。

 と、つらつらと書いて見たが、そこそこの内容は維持していたといえるだろう。軽量級横綱争奪戦の他にも二つほど見ていて面白い内容の取組があっただけでなく、横綱戦も大龍王が敗れたことで盛り上った。一応成功の大会だろうが、先日同じ会場で見た無料のうるま祭りの闘牛大会よりも、観客の出足も、入りもいまひとつだったのは何を現しているのだろうか。

 今後はより多くの期待の牛が各組合からどんどん出てきて、観客も増え、沖縄闘牛が盛り上がってくれることを願わずにいられない。

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久しぶりのむら咲きむら。また闘牛だけだけど。

読谷のむら咲きむらでの闘牛大会。

今日は、よみたん祭りの一環で入場無料。狭い会場は多くの観客でいっぱいだ。やはり全島以外の地方大会の入りがいまひとつなのは純粋に入場料の問題ではないか。

個人的には観光産業ばかりでは問題だと思うが、それでも当分の間、経済のひとつの柱としての沖縄観光をかんがみた場合、リピーターが減っている昨今、闘牛は新しい観光素材として有望かと思うのだが、入場料の問題はやはり大きいと考えられる。

ほとんどの大会の入場料が3000円というのは、こっちは、はいはいと払う値段だが、一見の観光客にとっては間違いなく高い。以前、書いたかもしれないが、航空券の半券持ってきたら1000円などという施策をとれば、観客にとって魅力が上がり、そこでよい取り組みが見せられればリピーター増にも少なからず貢献できるのではないかと思うのだが。

だいたいアメリカ人であれば入場料1000円というのは、宗主国であられます方々への思いやり予算と同じ構造。そこまで優遇しなくても、そのうち帰国して、ほとんど二度と来ないんだから。

などと、立ち見しながら思っていた。

というのも、全島大会が近い上に無料ということもあるため、不戦勝が三つ。大会としては不発気味。もしも入場料をとっていたら問題じゃないかと思われる内容だったため、観戦していても、気が入らなかったためだ。

それでも、何頭か目につく牛は確かにいた。デビュー戦の牛もいたりして、今後の対戦を考えるときにかなり参考になったのも事実。

春と秋の全島大会や旧正月大会の対戦がいまひとつ納得できない内容になっている昨今、こういった無料大会や地方組合主催の大会などの方が、若手や有望な牛を見ることができるので面白いとも思える。考え方次第。

むら咲きむら闘牛場に来たのは、こけら落としの時以来。あの時より、客席部分には芝が生えたりしていい感じになっていた。これはこれで悪くはない。

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久々に闘牛を喰らった夜

牛小屋へ行く。今日もウシくんたちは元気だ。大量の糞が物語る。

夕方になって、バーベキューを行うということで、近くの小屋へ。

コールハン+炭。肉が焼けたので食べてみたら、思ったより硬い。

聞いてみたら、やはり、4歳ぐらいでつぶされた闘牛の肉をつきあいで買ったらしい。

しかし以前の肉に比べたら柔らかく味がはっきりわかる。旨い。

霜降りがのった柔らかい肉というのが日本では一般に高級と紹介されることが多いけれど、肉をガツガツ喰らうところでは本来、歯ごたえと味がポイント。そんな肉に近い。

ハミと乾燥草、飼料や特別な食べ物で大事に育てられた坊ちゃん嬢ちゃん。

一方去勢せず基本的にその日に飼った草だけを食べ、適宜運動や喧嘩をして筋肉をつけた闘牛。

味や好みはいろいろだけれど、どっちの肉が健康食かは一目瞭然かと(笑)。

満月にちょっと足らない月がでかい。

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天願グスク近辺探訪雑記

うるま市の天願グスク(ツチグスクとも呼ばれる)。石川から具志川方面を眺めれば、そして市内の小高いところから、はっきりとわかるその姿。

しかし米軍基地(実際は海兵隊司令官家族の居住地らしい)キャンプコートニーのフェンスの内側にあるため系統だった調査がほとんどなされていないだけでなく、当然グスク探訪者もフェンスの外から指を加えて眺めるだけ。21世紀になってもお預けをくらったワンちゃん状態が続いてる。

その天願グスクを今日訪れることができた。

天願グスク海側から

とりあえず細かい点はのちのち検証するとして、備忘録代わりに以下に状況をここに記す。

この時期、天願の部落はウートートー時期(旧暦九月九日から九月二十日とのこと)。ドゥシ(友達)のトゥジ(刀自=妻)が天願出身で、基地内に入るので一緒にどう?という誘いがあったのだ。

午前11時過ぎコートニーの中に入り直進。二つ目の十字路を右折すると左手前方に天願グスクのこんもりとした森が見える。適当なところに車を停め、芝生が植えられた斜面を上り、森の中に入っていく。

軽自動車なら通れそうな上り坂が続いている。両側の森の中にはところどころ野面積みの後が見える。住居跡なのかもしれない。あがっていくと階段跡と思しき珊瑚で作られた段差がいくつか。ウートートーの時期にはこのあたりの草刈りをするという話だったので後年作られたものか、昔からあるものなのかは不明。というか、この道自体昔からあるものかどうかも不明だ。

天願グスク入り口から

最後の上りの手前に、門の跡らしき岩場があり、その右手奥にふたつのガマ(洞穴)。手前のガマは人が入りきらない程度の小さい穴で奥の穴の手前には「荒フチの男神 ビジル美人の女神 二人は夫婦グサイの神 こちらで拝んでください」と書かれた碑が建てられている。ガマの中を覗くと5人ほどは入れる大きさでクールー(香炉)が。お年寄りや子供の場合、中に入るのは難儀なので、ガマの手前でウガミしてくださいということのようだ。

天願グスクガマ

ドゥシによると宇堅側にアラフチ(アラブチ)という名前の地域があるがそれと関係あるのかも、とのこと。となるとこのウガミ場所は天願側だけでなく宇堅側の人にとっても聖地なのだろうか。そしてなにより、この天願グスクを中心として分かれる天願と宇堅という両集落の成り立ち、とくに屋取(ヤードイ)期以前のことがとても気になった。

そこから上っていくと、右手に大きな窪地がある。浦添グスク山頂の窪地を小さくしたものを想像してみるといいかもしれない。降りてみると足元は奄美の積み石墓のような状態で壁面はどうやら石を積んでふさいでいるように見える。普通に考えれば古墓か。ただもしかすると井戸、窯跡という可能性も。調査が入ればはっきりするのではないだろうか。20分もあればひっくり返せそうだったが、当然見るだけ。早期の調査を望みたい。

そこからあがると山頂となり、ナー(庭)が広がる。左手はコザのインジングスクのような岩。右手は平坦な森。左手の岩場はところどころ削られた跡が見受けられ、クールーが置かれている。右手の森の部分は平坦でおそらくここを掘れば何か出てくるのではないだろうか。表面調査だけしてみて、あるものが目に付いたが、ここでは書かない。

天願グスクナー

まっすぐ向かうと、木と草の影に宇堅の知人の家が見える。そのはるか向こうに勝連グスクの姿。草刈りすれば非常に見晴らしがいい場所だ。子供の時はここから「わあすごい景色」と楽しんだとはドゥシのトゥジの弁。ふと右を見ると水準点が。

ナーにもどり右に。つまりあがってきた方向からすれば左手へ向かうと、両側が岩にはさまれた1画に出る。両側にクールーがある。その正面に目をやると現宇堅ビーチ左手の断崖が。先まで行くとどうやら降りる道があるようだ。ドゥシのトゥジの話によれば、きちんとしたウートートーはこのグスク内で行われたあと、断崖の先にあるウガンにいくとのこと。祖先のやってきた道を辿る儀式ということになるのではないだろうか。つまり、この一帯の祖先は宇堅の浜からあがった集団と想像をめぐらすことも可能だ。そして、この金武湾一帯は中世には一大交易地として栄えたという実績があるので、貿易のための重要港湾施設が正面に見える断崖か宇堅の浜のどこかにあったと考えることもやぶさかではない。

そしてその先には軍艦のような姿を見せる宮城島と伊計グスクを抱える伊計島が真正面に。見えるということはその場所を意識せざるを得ないということ。太古の人はどのような気持ちでこの風景を眺めていたのだろうか?

天願グスクから宮城島

こうなると頭の中はぐるんぐるん。過去の歴史に思いをはせ、それだけではなく、さっきのガマや窪地は何か?。歩いてあがってきた道以外の場所に何かがあるのではないか。などなど、今後どう検証を進めるか思い描き妄想を繰り返す。

この天願グスクの南には天願貝塚跡があり、東に宇堅貝塚。その先には沖縄電力の発電所の一部となっているもののまだ若干残っているクーグスク。その先には具志川グスク。勝連グスク。それらの関係は、時代的な変遷は。金武湾一帯の集落の成り立ちは? 宮城、平安座、伊計の各島と関係は。

とりあえず、今日のところはこのあたりにしておこうと、グスクを降り、車でグスクのまわりを一周する。グスクの東側には「天願城」と看板を掲げた米軍の施設があった。一応、軍も意識しているようだ。このとき南の方見て気がついたのだが、天願貝塚方面に森が続いているようにも感じられる。グスクの周辺もブルトーザーが入っているのは確実なので、天願グスクの領域、もしくは天願グスクを中心とした集落の範囲は、先の断崖の岬のあたりから天願貝塚。つまり天願川のあたりまで広がっていたと考えることもできるだろう。


鎌倉の繁栄に例えられた勝連グスクは日本や大陸との中継貿易で栄えたらしい。奄美の喜界島にも勝連の人が渡っていた形跡もある。その勝連グスクを中心とした地域と同じくらいの規模がこの天願グスク周辺にあったという可能性も否定はできない。

なんといっても、現在知られた沖縄の歴史や伝承、文献は薩摩傀儡政権期にまとめられたものであり、その薩摩の影響を排除したとしても、首里を中心とした正史を前提としたものと考えられる。首里が大陸に朝貢し中華王朝的要素があったと考えれば正史は過去の歴史を抹殺し自らの正当性を語るために作られたと考えるのが普通だろう。

つまり首里だけではない、それ以前の沖縄の歴史に考察を加えていく意味でも、こういったグスクの存在と集落構造の研究は大切なのではないかと考える次第。ただ旧具志川市一帯は屋取集落が発展したところなので首里や那覇の影響は多分に受けているはず。その屋取とそれ以前から集落を形成していた人々とはどのような関係にあるのか、ないのか。

ひとつだけ確実にいえるのは天願、宇堅両部落の小中学生などにとっては格好の歴史教材が基地の中にあるということになるのではないだろうか。

結局のところウガミは早々に終わったのに2時間弱もドゥシたちをつきあわせてしまった。帰りがけに基地内にあるタコベルでタコスを食べてお土産にバーガーキングとピザを買って外に出る。出るときはアメリカらしく去るものは追わずのフリーパス。

午後はドゥシの牛の練習試合。天願グスクも、牛たちのオーラシーを眺めていた。


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第2回うるま祭り闘牛大会

今日明日と第二回うるま祭り。

具志川祭り時代から恒例の無料闘牛大会が石川のドームで行われた。

うるま市が出場料を負担するので無料ということで、かなりの盛況。開始5分前に着いたらほぼいっぱいで、最初から最後まで立ち見。

他の大会でもアメリカーは1000円で入れるのだが、今日は無料ということで、アメリカーがやたら多い。ドゥシがいうに「具志川祭りの頃からアメリカーが多い」とのこと。

うるま祭り

全13番。ただし不戦がふたつあり実質11番。横綱戦を含め四頭ほど地元の牛が出場。当然勝ってほしいわけで、なかなかの成績だったのはよかった。

ちょっと笑ったのは知人の牛。なんでも2週間ほど前にタメシを行ったら逃げてしまって、これは期待できない。負けるつもりで出たら勝ってしまって、うれしいが複雑という話。主名も仮名にしてたので、賞状にもしっかりその仮名になっていて。

夜には部落一帯でお祝い。ドゥシに連れられ二軒ほどはしご。お酒やご馳走にありつく。大量のサシミやヒージャーも食べた。くゎっちーさびたん。34秒で瞬殺、優勝した、「それいけ白タビ」を見に行ったら、小屋の中でゆっくりとくつろいで満足げ。

今年も、ここまでかなりの闘牛大会を見たけれど、来週は読谷祭り闘牛大会。再来週に沖縄国際カーニバル闘牛大会。そして、その翌週はいよいよ秋の全島大会が待っている。

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S氏所有のT先生書籍よりのグスク地名

◎徳之島町

 ○手々
  大和城   ヤットグシク
  城田     グシクダ

 ○金見
         グシクバル(俗称地名)
 
 ○
  山城    ヤァグシク

 ○轟木
  大城    フグシク
  城田    グシクダ

 ○花徳
  宮城    ニャギィグシク
  上城    ウィグシク
  城畠    グスクバテ
  城ノ又   グシクヌマタ
  中城    ナァグシク(殿地)

 ○母間
  城      グシク
  宮城    ニャギィグシク

 ○下久志
        グスコ(俗称地名)

 ○井之川
  大城    フゥグシク
  城      グシク
  東城?   アガリグシク
         ウィニグシク

 ○神之嶺
         グシコ(俗称地名)

 ○諸田
  山城赤畑  ヤァグシクアァバテ
 
 ○徳和瀬
  山城    ヤァグスク

 ○亀津
  大城跨   フゥグシクマタ

 ○尾母
        ウシクド
        マサグシクバテ(俗称地名)

◎伊仙町

 ○喜念
        タマグシク(俗称地名)

 ○佐弁
        グスクダ
        フゥドバルグシク

 ○面縄
        ウスクト
        恩納グシク(俗称)=面縄グシク?=

 ○阿権
  城俣    グスクマタ
         フゥドバルグシク
         タァミジグシク(俗称地名)

 ○木之香
         アマングシク

 ○阿三
  浅間按司城 アザマアジグシク(俗称地名)

 ○犬田布
  下内城    サァウチグシク
           ウスクブレ
  明眼按司城 ミョウガンアジグシク(俗称地名)
  
 ○糸木名
  上ウスク俣 ウィウスクマタ
          ウスク俣
          ウスク
          南ウスク
          下ウスク俣

◎天城町

 ○天城
  納城
  南山城
  西山城
  大和城山 ヤマトグシクヤマ(248m)
  玉城    タマグシク
         グシク(俗称地名)

 ○松原
  大城    フゥグシク
  城配田   グシクフェジャ
  城田    グシクダ
  松当城   マチントゥグシク
         グシクントゥ
 
 ○与名間
  城当    グシクントゥ
  城      グシク
  大和城   ヤマトグシク

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テレビ二題

大臣が誰になったのか確認しようと思ってテレビをつけたらテレビ朝日系列の番組だった。

どこか見たような潮の香り漂う風景が映っている。海もそれなりに碧い。

あ、あれかとすぐ合点がいった。なんか離婚したお父さんが子供つれて南の島にやってきて生活してるぞ、とかいう一応ドキュメンタリーのふりをしたしろうと使用バラエティ番組である。

今年の春、奄美大島へ行った時、大和村(やまとそん)を廻ったのだけれど、その帰り道、坪山豊先生が舟大工修行をされた大金久からバスに乗って、大棚という集落に近づいた時だ。

まず人などいない時間帯なのにバス停付近に黒山の人だかりができている。といっても30人ほど。それでも大和村的には人が集まったということになる。

なんだろうか?と思っていると、どうやらテレビ局のカメラが見える。バスがバス停に横づけされた。

バスの運転手に対して、ディレクターと思しき人間が、出発しようとするバスの運転手さんに

「ちょっと、待って」

と、ごくごくあたりまえのように声をかける。まだ演出指導が終わっていないから待てということなのだろう。一応マスコミで働いていたおれなのでそのくらいのことはわかるが、一応おれという乗客はがいるのだけれど、何も挨拶はない(笑)。きっとそのディレクターと思しき演出指導していた子は目が悪いのか、視覚障害者なのだろう。テレビ朝日は視覚障害者をディレクターに起用できるほどふところの深いテレビ局に、いつのまにかなっていたのだ。おれの不覚だった。感動である。これからは、視覚障害者の方でも、優秀な方なら、きっとテレビ朝日なら差別などせずに採用してくれるはずだ。大和村大棚でテレビ朝日の真の姿をみたおれだった。

ちょっとすると、その子だくさん家族のうちの女の子なのだろう。ハンディカメラと見届け人なのかわからないがアシスタントディレクターをひきつれ、計三人バスに乗ってきた。

「どこにしますか」
「うしろの方で」

などと話をしている。

バスが走り出そうとしたとき、

「じゃあ、バスを追いかけて走ってください」

といった声が外から聞こえた。なるほど、お姉ちゃんがどこかでかけるのを弟くんたちがおっかけるという感動的シーンだ。子どもたちはいわれたとおりにバスをおっかけて走っているのがサイドミラー越しに見えた。なるほど、つまりそのおっかけるシーンのかえしを撮影するためにバスの最後部に陣取ったということか。スタッフは若いのに映像のイロハのイは抑えているようだ。

でも、誰かが、名瀬や港か空港に行くにしても、たぶんこのへんの子持ち家族なら車を持っていないと生活できないかと思うので、車で行く方がリアルだと思うのだが、貧乏だから車がないという前提になっている演出上なのだろうか。バス代は結構高いので、たいへんじゃないか?。8人の子持ちだったらなおさら、などと思ったのだが、よっぽどテレビ朝日がこのお父さんに払っているギャラが安いのだろうか。車さえ買えないなんて。目頭が熱くなった。

で、そんなこを思うと泣きそうになったので(うそ)、高倉があるところでとっとと降りたのだった。郵政民営化で大棚の簡易郵便局はどうなるのだろうか。そんなことが今は気になる。


そういえば、今年の正月ぐらいだったか、徳之島の面縄港あたりをうろうろしていた時だった。ジャンボタクシーがすーっと止まっておれに声をかけた

「テレビ局の方ですか?」

意味がわからない私は「いいえ、違いますよ」と返答した。港の方を見ると一艘の漁船が波しぶきをあげて港へ入ってくる。漁からの帰りにしちゃ妙な時間だなと、どんよりした空を背景にして、乗員が下りるまで見ていると、なにやらテレビカメラを抱えている人がいる。

「ああ、あの船で撮影か何かしていたのだな。でジャンボタクシーを頼んだのか」と合点がいき、ま、どうでもいいや、と潮風をいっぱいに吸い込んでから、ねぐらに戻った。

後日、たまたまテレビをつけたら、田舎の他人の家に泊って芸能人がいろいろ笑ったり泣いたりしようとかいう番組の終了間際だった。そこには、その昔「また会う日まで」という曲でレコード大賞を獲った歌手が徳之島に来て、別れの時、漁船に乗って島を離れていくという感動シーンが流されていた。

面縄港だ。それもあの時、帰って来た船が、行く時(つまり番組では徳之島に別れを告げるとき)の映像だ」

ちなみに、面縄港から他島への定期船はない。また、漁船をチャーターしていくとしても、徳之島の南端あたりに位置する面縄港。他島へ行くには徳之島の他の港から比して遠い。

演出としてリアリティのなさにちょっと残念ですな。現代はおれがそんな世界で仕事をしていた時と違い、テレビ映像は使い捨てる時代ではない。録画され、あとで何度も何度も個人的jにかつインターネッドでよってたかってチェックされるのがデフォルトだ。そのあたりプロデューサー、ディレクターの子たちの自省はもちろん、スポンサーの担当者くんの的確な判断と批判、指導も必要かと、思うのだがどうだろうか? 老婆心であろうか。

また、あの別れの後、どうやって帰ったのか心配だった面縄港とその港の機能をご存じのみなさん。おそらくカットの声がかかってから無事に面縄港に戻ってきています。ありがとうございます!(なんで、俺が感謝しているのか不明)。しかも、ジャンボタクシーの迎えが来ていたので心配におよびませんよ。

たぶん当日の二便か翌日の一便(徳之島鹿児島間の飛行機は一日二便なので、一便目を「一便」、二便目を「二便」という。その他奄美大島、沖永良部便もあるが芸能人とテレビ局が使うとは思えないので)あたりで戻られたのでしょう。

とにかくも、この番組のプロデューサーとディレクターの現実感のない演出判断がみなさんにご迷惑をおかけしましたこと、昔はそういう業界にもいたおれがとりあえず陳謝いたします(なんでおれが陳謝するのか不明)。視聴者の皆様を不安にさせてはいけませんよ、スポンサーどの。

しかし、このテレビ局は、おれの大学時代の先輩が入社し、まさにその人がかつてとある不祥事で新聞および他局マスコミに挙げられたこともあったテレビ局ではあることは認めます。しかし、当たり前ですが頑張っています。頑張ればいいってものではないことは合点承知の助ですが、いつかどこかで結果がでることもないわけではないと思いますので大目に見てあげてください。

で、徳之島の知人からの連絡によると、英語でGolden Legend とかいう番組で、Good Boyとかいう名称の松竹芸能のお笑いコンビが、現在、徳之島で撮影に傾注しているらいし。

知人は十五夜も近い昨今の夜、外に出て波の音を聞きながら星を眺めようと思ったらしいのですが、その場所で、英語でGolden legend とかいう番組に出ているGood Boyとかいう名称の松竹芸能のお笑いコンビが煌煌とライトを焚いてロケをしているので遠慮して家に帰ったとのこと。

テレビ局もいろいろと大変なので、大目にみてあげてほしいですが、そろそろ限界なのは承知です。あとちょっとだけ視聴者のみなさまには我慢していただければ幸いです。我慢できないなら「見ない」という手もございます。

そうそう、いろいろテレビでとりあげてくれるので大和に、奄美、徳之島、沖縄のことがどんどん広まるという点でだけは、テレビ局の子たち、ありがとね(おふらんす)。でもねえ。

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ウンガミ二日目 E61がベトベト

塩屋のウンガミ二日目。

基本的に、豊年踊りの日。

塩屋の、塩屋、兼久、大川、三地区の女性たちによる豊年踊り。公民館やらで行われるものは何度もみたことがあるけれど、外気の中、雨が降ったりやんだりする中での豊年踊りは貴重な体験だった。

見た限り、兼久が一番うまいのかもしれない。大川は十八番を持つ。塩屋はちょっと都会的。そんな感じか。

最後、三地区それぞれの旗頭をごとに、それぞれの地区の踊り手の女性たちが集まる姿はとても美しく、雨があがった青い空に、旗頭も満足げに踊っていた。

すっかり堪能して名護へ。

戻ってから、今日も、かなり潮にあたったと考え、カメラや携帯電話の掃除を開始。

E61を、Krusellのクラシシックケースから取り出してみると、ん? ベトベトするぞ? 電話の底部からサイドにかけて、何かが溶けたようなベトベト感。さわるとネチョっと糊のようなものが指にこびりつく。

Krusellのこのケース、前面がビニールプラスチックで覆われているのだが、その付け根。革との接合部分に使われた接着剤が、今日の沖縄での暑さに、溶けだしてしまっていたのだ。

Krusell、E61用クラシックケースは暑さに弱い。

考えてみれば、Krusellは北欧の会社。沖縄やら東南アジアやらの夏の暑さなどは考慮にいれていなくても不思議ではないし、だいたい都市におけるビジネスモデルといった位置づけで発売されているE61を、過酷な条件で使っているこちらにも非があるというもの。

ということで、E61のケースとして同じKrusellのカブリオレを注文しようと思ったりも。

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亀と牛

牛小屋へ行ったら亀がいた。

ドゥシ(沖縄でいう友達のこと。「同士」のウチナー発音かと思われる)が草刈の時捕まえたのだそうだ。

ビーバーで草を刈っていたら、ガリッと当たるものがあって、石かと思ったら亀。亀の甲羅にはビーバーの歯の跡がついていた。

この亀だけれど結構速く歩くし凶暴。

そのドゥシに名護まで車で送ってもらったのだが、ダッシュボードに個人的に入った経験がない「美ら海水族館」のパンフレットがあった。夏休みを使って子供たちを連れて行ったらしい。

それをぱらぱら見ていたら、「天然記念物 リュウキュウヤマガメ」という項目が。Wikiでも「1975年には国指定天然記念物に指定された」とある。

先ほどの亀の甲羅の文様などがとても似ている。

「さっきの亀、天然記念物じゃない?」

「わからん」

「であるね」

などと話をしているうちに名護に到着。

最初に書き忘れたのだけれど、ドゥシの牛が一頭減った。あまりに喧嘩しないので、石垣へ売ったとのこと。石垣からの連絡ではよく喧嘩してあっちでは大喜びらしい。あらら。

「ドゥシの小屋には、かつて横綱張った牛と若いのに態度も身体もデージ(とても)大きい牛がいるので、遠慮していたのではないか?」といった話がドゥシの同級生から。

牛はもともと群れで行動する社会的動物で、社会のヒエラルキーに敏感。だからこそ、そのヒエラルキーでトップになるために喧嘩をする。その本能を発露させるのが闘牛。つまり、ドゥシの小屋では本能で戦いを選ばず、石垣へ行って「わんが一番」ということになったので本能として喧嘩をはじめたというのも考察としては一理ある。

闘牛を飼うのは難しい。

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最近ほんのり思っていること 対立史観は苦しい

奄美群島の方たちと話をしていると同じ鹿児島県ではあるが九州鹿児島への恨みつらみ、妬み、嫉み、またそういった気持ちを持っている自分へのあきらめと気恥ずかしさなどがたびたび感じられる。

ひとつには、江戸時代の薩摩藩の過酷を極めた圧政が、人々の間で世代をこえ語り継がれ、記憶の中に残っているということ。そして現実として、多くの離島を抱える鹿児島県にあってひとつの島の振興だけを進めるわけにもいかず、かつ、九州鹿児島の整備も行っていかねばならない。つまり特定離島ばかりあいてにしていられないという事情もあろうが、そういった県の施策を離島に住む人々から評価すれば、やはり取り残されたという感があるようだ。

この2点のみが理由としてあげられるわけではないが、鹿児島県の離島に住む人々は九州鹿児島に羨望と恨みを抱えている場合が多い(とくに奄美群島)といってよいだろう。

しかしこの島の人々の感情というのは、もしかしたら作られたものではないだろうか?。百歩譲って歴史的なしこりに求められる感情を島の人々に持ち続けてもらうため、現在に至っても地域振興などを遅らせている。と、したら。

つまり、わざと人々を経済的、精神的枯渇状態に置くことで、これまでの生活ではダメだ、これまでのしきたりや習慣は時代遅れであるという気にさせ、改革、進歩、発展といった旗印に土地改良、産業振興などを行い、それまで信仰の対象であった聖地や土地、祭り、風習、習俗の記憶を薄めていくことで平均的日本人へと作り変えていく。

この遠大な計画のために、実施されているようにちょっとだけわたしゃそう思っている。なんというか、構造としてはまさに薩摩時代と何も変わってない。

また、このような枯渇から平準へという方策に、いろいろな出汁をあわせると、そう、沖縄である。沖縄というか(那覇を中心とした南部と琉球大学を中心とした高学歴者と言っておく)の場合は、この二分論がより顕著で、ウチナーとヤマトというふたつのテーゼを前提に沖縄を語る人がほとんどであるあたり、常日頃思っているのだけれど、心の底から非常に興味深い。

ウチナーとヤマトを対立軸にすることで利益を得る人々って誰だろうか?

まあ、個人的にはヤマトに対してどう思ってもそれはそれだけれど、沖縄の研究者が奄美群島を沖縄中心史観で語るのは的外れじゃなかろうかなあと思ったりもする。奄美群島は琉球と関係はあるけれど、琉球じゃないしぃ、と。二項対立だけでは語れないことの方が多いと思う。

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耳切坊主 『Suzy』

さて、去った(うちなー的表現ね)6月27日に沖縄で先行発売されていた耳切坊主の新譜『Suzy』。本日、2007年7月25日、目出度く本土発売日を迎えたのでありました。

発売日に入手していたので、とっととエントリーに書こうかと思ったんだけれど、やっぱ、ニッポンのみんなが無理なく買えるようになった頃の方がいいんじゃねーか?と自問自答して、今日になったというわけで。

沖縄の若人(わこうど)バンドは数々あれど、おいらが現状新譜が出たらとにかく常に買っておこうという気になるのは、「MONGOL 800」と、この「耳切坊主」。(MONGOL 800 はちょっとパンク入ってるけどね)

サウンド的には、ほんと、20世紀後半のニューウェイブ、ネオアコの頃によく使われた「いなたい」という四文字がぴったりくる。そ、そっ、きざみまくる、あんな感じのギターサウンドがコア。

そこに妙ちくりんなキーボードなんかも絡んでくる。ドラムのビートはシンプルだけれど、アフタービートをおかずにしたりで、なかなか。またベースの滑り方が、なかなかオイシイ。演奏の隙間を軽々と埋めている。

そしてボーカル。青春だね。嫌いな人は嫌いかもしれないけれど「ジョートーさぁ」と言っておく。これでいいんだ。

でも、おいら、いまんとこ、去年出た『サラバンジ』が一番しっくり来てるかもしれない。というのは以下の理由。

おいらのこと知ってる人は「またかぁ」と笑うかもしれないけど、先に書いたように、80年代初頭、ニューウエイブとかネオアコなどという名前でくくられる音楽があったんだけれど、そういった動きの中で、おいらは、Pale Fountainsってバンドが、かなり好きで、とりあえず新譜が出たら、シングルだろうとアナログだろうと買っていた。クレプスキュールってレーベルやスティッフってレーベルがなんやかんや喧しい頃だったな。

で、そのPale Fountainsってバンドを思い出すサウンドがこの耳切坊主にはあったりしてる。

つまり、いまや50代寸前のおいらに、なんとなく酸っぱい懐かしさを感じさせてくれるというのが、彼らを支持する理由なのかも。逆にいうと、あの80年代のネオアコ体験はないけれど「モンゴル800とか、耳切坊主とかいいかんじィ」と思ってる若人は、Pale Fountainsとか聞いても面白いかもね、なんて、ジジイから提案?。

ほかにも、このあたりだと、あの時代、Buzz CocksとかAztec Cameraとかいろいろあったけれど、おいら的にはPale Fountainsの新しいアルバムが出るまでの<つなぎ>というあたりかな。やっぱり、Pale Fountainsだったなあ、と。


で、耳切坊主というのが、へんちくりんなバンド名だなあと思っている人に、おいらからの余計な親切心。

耳切坊主(みみちりぼうじ。このロックバンドは「みみちりぼうず」と発音しているけどね)とは、沖縄の妖怪話に登場する坊さんのこと。

昔々の沖縄に、放蕩の限りを尽くす女好きで、肌が黒い坊さんがおったそうな(このあたり沖縄裏面史的に、ちょっと示唆的なんだけれど、今回は関係ないので理由はパス)。その肌の色から、黒金座主(くるがにざーすー)という名前でも呼ばれていた。

王様が考えたんだよね。その坊さんのあまりのふるまいが目に余るようになったので、こりゃあの坊主を懲らしめないといけない。ということで、当時、琉球国で、唯一対抗できそうな、北谷王子(ちゃたんおうじ)という人を呼んで「碁の勝負して、黒金座主を、命を賭けてぶっつぶせ」と命令したんだと。

碁の勝負開始。黒金座主は北谷王子を惑わす技を使い権謀術策の限りを尽くすものの、北谷王子はまったく動じず、結局のところ王子の勝利が確定。

王子曰く「おめえさんの命はとんねえから、そんかわりに耳をチョんとさせてもらわぁ」(江戸弁に翻訳)。

黒金座主は耳をちょんぎられ、その傷がもとで破傷風になって、おっちんじまった。

死んじまった黒金座主。怨霊となって、人々の耳を切ろうと町に出没するようになった。執念ですな。というわけで、黒金座主は、耳切坊主と呼ばれるようになった。くわばらくわばら。

ちなみにいっとくと、黒金座主こと耳切坊主はなぜか女の子の耳は切ろうとしなかった。なもので、人々は男の子が生まれた時に、「うふーゐなぐの うまれたんどお」(でっかい女の子が生まれたよー)と歌ったんだとさ。

という、沖縄妖怪坊主の名前をバンド名にした耳切坊主。沖縄であること。沖縄の歴史伝統を感じること。そのあたりが、彼らの音楽にはある。沖縄的「なま」(今)が堪能できると思うのでありました。

新しいものは「ある」。けれど「ない」。

つまり、時代は螺旋でめぐっていくのであって、そういったあたりを通る若人バンドは、今、日本だけじゃなく世界中にたむろしている。だけど、ジジイのおいらが思うに、本当の勝負はそこを通りすぎて、次の90度までのあたりだね。

沖縄の若人バンドは「うちなー」というDNAがある分有利かもしれんけれど。とっぴんぱらりのぷ。
だっからよー。


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草刈りだよ

暇だったんで3時ごろに牛小屋に行ったら「草刈り、いかない?」といわれた。

軽トラックの助手席に乗って、20分。嘉手納基地内の黙認耕作地へ。友達が、ビーバー(いわゆるところのエンジン使用のポータブル草刈機)でウイーンと草を刈る。その草を軽トラックの荷台に積んでいく。

小屋に戻って、牛たちの糞を片付けたり、えさをやったり、山羊小屋を移動したり。

運動不足解消。

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ある島のある場所で見たもの

とある島の北側に妙なところがいくつかあると、地元の友達に聞いて、一緒にいってみた。

数箇所巡ったのだが、そのうちのひとつの場所に巨石が鎮座する妙な場所があった。基本的には、良いヴァイブレーションを満ちているところなのだが、何か負のエナジーも漂う。それでも、基本的には選ばれた場所であろうと感じられるのだった。

とりあえずその日は、鎮座する3mX7mはある巨石や周辺の雰囲気を写真におさめただけで戻ったのだが、三日後の今日、再び友達たちと訪れてみた。

最初の感想にはかわりないけけれど、じっくり観察をしていくといろいろなことが目に付いてきた。

まずその巨石。非常に大きいのだが、同行者が上に上って掃除をしてみたところ、なにやら表面に溝を掘ったような跡がある。飛鳥の酒船石をふと思い出した。

そしてその巨石の後方、一番手前に石舞台的な平べったい石がある。もしかしたらここで祭祀を行ったのか?。また、そこから上に向かって石が参道のように積まれていたのではないかと。実際、崩れたように両側に石がごろごろしているのだ。その奥には、表面を磨いた痕跡のある石がふたつ。こういったことから間違いなく祭祀に関する場所だったのではないか、と。

そしてはたと気がついてコンパスで方角を確認すると、その巨石から後方のふたつ磨いたふたつの石の線が南北にまっすぐだった。そしてその巨石の軸が真北から西に20度ほど曲げておかれている。

これは、もしかしたらアレではないか?違うかもしれないけれど、その可能性はゼロではない。

その夜、一緒に行った人からの情報で、この場所はかつて山を降りたところにある集落の拝み場所だったことを知った。ただ、近年はこのあたりでは自殺者などが多く、誰もよりつかなくなっている、と。

最初の感覚は正しかったのかもしれない。もともと良い場所のはずなのに、何か違和感を感じたということ。

日本は本当に広くて深い。


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おそるべしジュウルクニチ

ジュウルクニチ。グソー正月である。今日ではない。来週の月曜日。今年は3月5日。いわゆる、亡くなった方のためのお正月。

では何が「おそるべし」なのか。

それは民族移動でその前後、飛行機が満席状態になるのだ。今日は宮古へ行ったのでその強力なパワーを実感。

ウチナーにおけるご先祖さまの供養といえば当然、シチガチ(旧盆)が知られているけれど、次にでかいのが、清明(しーみー)。だいたい4月中になることが多いけれど、この間の20日間ほどの週末あたりは中北部から南部へ。那覇から中北部へ、民族大移動。名護と許田の間の58号線が「シーミー渋滞」で車が数珠繋ぎなんてことも少なからず。

と、ここまでは、沖縄本島中南部を中心にした話。

一方で、今度の月曜日が当日のジュウルクニチにおけるご先祖様供養を清明以上にとても大事にする地域がウチナーにはある。それは、八重山や宮古の離島。山原。中部では屋慶名あたり。

今年は月曜日になったので、金曜日の午後から火曜日の午前中くらいまで、宮古、石垣方面の飛行機は満席便多数でなかなか希望の便がとれない状況。月曜日の午前中の東京那覇間もかなり混んでいるのは当日かけつける内地在住のウチナンチューが多いからなのだろうか。

とにかく、ジュウルクニチ前後にはご先祖様のお墓へ向かうウチナンチューたちの民族大移動が起こるわけであります。

で、今日の宮古行、当然満席。しかも車椅子が3台出動。本島に居住する宮古出身のおじい、おばあがご先祖供養のために自分のシマへと向かうわけ。

ということで、宮古、八重山方面を目指す内地の方。ジュウルクニチにかかる移動になるなら、早め、早めに動くのが吉かもしれません。

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旧正月準全島闘牛大会@沖縄市営闘牛場

今日は旧正月。つまり旧正月準全島闘牛大会が開催される日。昼前に起きてとっとと沖縄市営闘牛場へ。

全島大会の場合早めに入場しておかなければ場所を確保できないことが多いのだけれど、今日のような曇り勝ちの天気や大会のインフォメーションなどから鑑みるに3000人ぐらいの入りではないかと予想し、まあギリギリでもなんくるないさ。闘牛場へ向かう行きすがら車や人の数、雰囲気などから、予想が正しかったことをほぼ確信。

入場してみるとやはり客の入りはそこそこといったところ。3000人弱か。ちょうど開会の挨拶がはじまったところだった。

今日の主催は石川闘牛組合。取り組み数、全10番。C9にあたる指名特番に、昨日は見ることがなかった知人の牛が出るのでこっちも少々緊張ぎみ。近くを見回すとその牛主の親戚が三人座っているのだが落ち着かない様子。

最初の特番がはじまった。白のひよこ組あやせちゃん号が勝ったが今日はもしかしたらかなりよい大会かもしれない。そんな気にさせるなかなかの対戦。面白かった。

そしていよいよ知人の牛ユウケイ・一永が登場。以前から噂されていた平良号との宿願の対戦。力としては平良号の方が優るのではという話もあったのだけれど今日はこっちに分があるのではという立ち上がり。気の荒さが良い方に出ていたように感じる。結局、6分過ぎに、勝利。4連勝。ほっと胸をなでおろす。これで牛主の親戚にも普通に挨拶ができると思って目をやるとみなさんさんぴん茶をごくりと飲み干している。喉がカラカラだったのだろう。

緊張した対戦のあとは対戦に傾注できるというもの。ラッキーなことにC8花形戦、C7特番、C6軽量級タイトルマッチと非常に面白いケンカだった。とくにC7で勝利した3850赤虎。C6でタイトル奪取に成功した丸石開発白タビはチェック。

C5番から横綱戦にかけてもなかなかの内容。全10番と全島大会に比べれば対戦数が少ない大会だけれど今日の内容なら3000円は十分に適正価格ではないかと。

道具(角)を使ったカケ技が上手な牛、根性を見せ大逆転で勝利した牛。強烈なワリをかまし続ける牛。もたせこんで相手をいなして耐える牛。いろいろな特徴を持った牛が、よい状態で出場できたこともあるのだろう。この内容ならば、闘牛を見たことがないナイチャーが見てもまた見たいと思えるそんな大会だったように感じる。贔屓目すぎるのかもしれないが。

ということで、来週日曜日(2月25日)はいつも訪れている地区の牛が6頭も出場する予定の"具志川東若手有望牛大闘牛大会"が安慶名闘牛場で午後1時から開かれる。

全島大会はビッグイベントであるし準全島大会も有名な牛が出ることが多い。だけれど、こういった地方大会にも闘牛の面白さは十分にあるとぼくは思っている。とくに今回は闘牛を育てあげることでは定評のある地区の若手牛がそろうというので玄人筋の間でも話題とのこと。

個人的には知っている牛が一頭出場しただけでも今日のように過度に緊張してしまうのに、6頭も出たらどうなってしまうのか。そして現場の牛主や周りの人たちに至っては…。いや、緊張の一番大きな理由は終了後の宴会が楽しく酔えるか、しんみりとしてサキも進まない暗い会合になるか、だと思われるけれど。

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「おでん小町」

数日前、ネットを飛んできたメールが「おめぇがコザで行ってるいきつけのおでん屋とかいうの教えろ」とかほざいている。

メールの主はハナタレ小僧の頃からのバカ友達。マヌケな野郎のくせして、いっちょまえに流行に乗って沖縄までツアーで遊びにいくらしいが、なんでも那覇や恩納、名護に展開されるツアー客ご用達ホテルじゃなくて

「コザのホテルに泊まることになっちまったから、そんなにうめぇってーなら、いってやる。ありがてーとおもえ」

という塩梅。当方といたしましては、

「てめぇも、やっとこさインターネット使えるようになりやがったか。めでてぇーな。お天道さまがでんぐりげえって、浅草の観音さんもびっくりしてら。教えてやるからありがたくききやがれ」

といつものように丁寧に時候の挨拶をしたあと、こと細かくメールを流したのでした。

それで、ついでといってはなんですが、今日はその店、紹介しておきます。はい。いろいろな雑誌やサイトにも出ているのでいまさら感はありますが…。

お店の名前は「おでん小町」。沖縄市の「中の町社交街」にあります。ホテルニューセンチュリーの向かいの道を入っていってメインストリートの右の角。赤提灯に「小町」の文字が目印。

わからなかったら、その辺で客ひきやっているキャッチ(呼び込み)のニイニイに「おでん屋の『小町』ってどこ?」と聞けばわかるはず。というのも午後10時ぐらいからキャッチのニイニイたちが500円分とか1000円分とか言いつつ夜食(というか朝食かもしれないが)をテイクアウトしていくので知らないわけはない。

というか、昭和44年創業で、コザ暴動の時も営業していたという、この界隈ではかなりの老舗なので知らないともぐり。中の町の「顔」といって間違いはないはず。ニイニイたちも「小町へ行く客」にはしつこい勧誘はしない。というかできない。

わたしも「内地の娘、どうです?」と声をかけられたとき、(ナイチャーのわたしにそういう呼び込みはどうかと思うが。いやそういうことではないが)、「小町へいくから、またね」というと。「あっ」と顔が変わり、引き下がる。中の町のニイニイもお世話になっているお店ということ。

ドアをあけて中に入ってみると、内部は内地でいうところのスナック形式カウンター+座敷X2。多人数でない限り、カウンターに座るのが良いかと思われます。

さて何を頼むかですが、ご存知のように沖縄のおでんは内地のそれとは異なる。関東風のわけはないし、関西風でもなく都内で流行の静岡風でもない。

なんといってもメインは「てびち」

早い話が豚足。焼肉屋さんなどで食べられるコリコリした豚足と材料は同じでも、まったく異なる食べ物。おそらく初めて見たら、グロテスクと思うかもしれない。というか確かにグロい。けれど、この旨さを体験してしまうと「ここで、てびち食べないと沖縄にいる意味がない」と思う出来。

臭みもなくトロトロとして完全にゼラチン化した皮と脂。すっきりとほぐれる筋。いわゆる沖縄の「てびち」よりもトロトロ度は高い。

一応、沖縄で有名どころを含め、数々のおでん屋で「てびち」を食してきたけれど、ここの「てびち」は格が違うと感じられる。てびちに対するこだわりは先代のお母さんの頃からとのこと。昨今、「お肌のためにゼラチンゼラチン」と呪詛を唱えるお嬢さま方が増加傾向にあるとのことですが、そんなみなさまにもまさにおすすめ。

開店の午後6時から7時ぐらいに店に入ると仕事帰りのうちなー女性が何組かカウンターを占拠していることもあります。それもこれも、この「てびち」がお目当て。肌を地獄に追いやるうちなーの紫外線対策として体の中からということもあるのかもしれません。

とにかく「てびち」は食べないといけません。

ちなみに那覇の栄町で焼きてびちを売り物にしている有名なおでん屋さんもよく知られていますが、両方食べたわたしの好みはどちらかといえばコザは中の町の「小町」に軍配をあげてしまいます。

さて、あとはお好みですが、うちなんちゅーの定番は、くーぶ(昆布)、野菜、大根。時々ウインナ-、こんにゃく、とうふ、というあたりかと思われます。

くーぶはうちなんちゅーの伝統食材。くーぶが採れない沖縄なれど、はるか琉球王国時代の交易の賜物。豚にくーぶはセットです。野菜というのはその時期に採れる青菜を軽くくぐらせ食べるというもの。これも身体に悪いわけがない上、ちょっと珍しい。てびちとXXXXの出汁が野菜に絡んで美味。

説明が必要なのはウインナ-ですか。文字通りウインナーソーセージなんですが、伊藤ハムとか日本ハムとかのものではなく、ホーメルとかそういうところのちょっと長めの沖縄ウインナ-。これ、うちなんちゅーは大好き。それと、とうふは、関東でいう厚揚げ風。うちなーとうふなので感触はちょっと違います。

以上、このあたりを食べれば、沖縄おでんの真髄に肉薄できるはず。

さて、お皿にもられたおでんが出てきたとき、関東などでは、和がらしを使ったりしますが、ここ小町では「マスタード」が主流であるということも付け加えなくてはいけませんでした。

うちなんちゅーでも「マスタードだと酸味があって嫌だ」という和がらし党は多いのですが、味くーたー気味のてびちのおでんにはなぜかマスタードの酸味が絡みあうと旨い、と感じるのはわたしだけではないはず。もしかしたら嘉手納を控えるちゃんぷるー文化の所作かもしれません。トライしてみていただきたいところです。

それと、お酒は飲まなくてもいいんですが、できたら、ビール一本ぐらい、お店のねえさんに奢ったりするとそれもよきかな。もちろん死ぬほど飲んでもかまいません。

基本的にこの店は地元の客を大事にしているので、若い女性からおじい、仕事がえりの中の町のお店の方などがやってきます。おじいがいたりすると、民謡カラオケをうたってくれたりもするので、そういう楽しみもあったりします。わたしもここで遭遇した数々のうちなんちゅーの方々からいろいろ教わったりしましたです。はい。

また頻繁におでんの出前依頼が、近辺のクラブやキャバクラ、スナックなどから来るいうのもここの味がコザで支持されている証明かと思います。

ということで、ひととおり紹介しましたが、最後にひとつ。お腹がすいていたら、「そば」か「うどん」をおでんと一緒にいただくことも可能です。「そば」はうちなーそば、「うどん」というのは内地のうどん。おでんそば。おでんうどんですね。

うちなーの人は「そば」を食べなれているからか、「うどん」を所望する人が多いようにも感じられますが、内地の方ならここは「そば」でいきたいところ。いわゆる沖縄そばとは異なる沖縄の味が堪能できるかと。

この、おでんそば。最初の方で書いた、中の町をいったりきたりするキャッチのニイニイたちの定番食だったりもします。これもおすすめ。

というわけで、コザ、中の町社交街の「おでん小町」。一度トライしてみるのも一興かと。

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再び闘牛の肉を喰らう

昨日に続き牛小屋に行った。

三頭がむしゃむしゃとうーじ(さとうきび)や草を喰っているのを見て幸せを感じていたら、知人から電話。上の小屋で牛汁作るから食べに来いと。牛汁かあ。長い間食べてないなあ。ということで、昨日に続き、歩いて1分の別の牛小屋へ。

牛汁は醤油味であっさりとしてかなりおいしいものだった。肉はちょっと固いけれどなかなかいい味がしていた。

「その肉、こないだの闘牛の」

あ、やっぱり。そんな気がしていた。しかし、こうやって汁に煮込むとかなりいける。牛は偉大かもしれない。

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そばと山羊雑炊の日

ちょっと午前中に那覇に用があったので、軽くいなしたら、そろそろお昼。おなかがすいてきた。そばでも食べようかなと久茂地(くもぢ)の交差点で考えていたら、国際通りを通らず58号線を北上するバスが来た。その瞬間、安謝(あじゃ)まで行って、「あじゃず」に行こうと決心。

20分後、あじゃずに到着。おいなりさん一個とそーきそばを所望。

ここは麺も汁もたぶん那覇では最高の部類に入るそば屋なのだけれど、このそーきもかなりのもの。うれしいことに骨付きそーきと軟骨のそーきが入っていて異なる肉の味わいを楽しめる。

店名どおりのJAZZをBGMにあっというまにごちそうさま。おいしかった。那覇ではやっぱり「あじゃず」だなあと改めて納得。

食後は伊佐経由のバスでコザ。コザで用を済ませてから、10日ぶりぐらいに牛小屋へ。

今日も三頭ともいい感じである。やはりここに来ると落ち着くだけでなくとても楽しい。牛に草をあげたり、糞を片付けたり、散らかった草を箒ではいたりしていると、電話が。

「ひーじゃーじゅーしーがあるから食べに来い」

歩いてすぐの別の牛小屋からのお誘い。

「ひーじゃー」とは山羊。「じゅーしー」とは、沖縄では炊き込みごはんにも使用する言葉だけれど、雑炊のことでもある。わたしは、焼き飯以外で「ごはんになんらかの処置をほどこしたものを沖縄では『じゅーしー』という」と理解している。つまり、炊き込みごはんにしたり、雑炊にしたりということ。ということで歩いて1分の小屋へ。

行ってみると、いままさにつくっている最中。5分ほどして「ひーじゃーじゅーしー」が登場。日曜日に山羊汁の宴会を開いたそうで、そのあまりの汁にごはんをいれた雑炊風の代物。醤油味で山羊の乳臭い匂いが良い感じである。

この山羊の乳臭い匂い。山羊汁などでおなじみかと思いますが、わたしの経験からランクがあるように感じる。ちょっと勘弁してくれという乳臭さもあれば、いい頃合だと感じる乳臭さもある。これは山羊そのものの肉質や育て方、年齢、屠殺してからの時間などいろいろな要素があるかと思うが、このあたりについて、いまだ明快な答えは得ていない。ただ、こと山羊に関しては喜界島で食べた山羊が一番うまかったなあ、と思いがあった。

ところが、今日の「ひーじゃーじゅーしー」。山羊料理としてはかなりわたしの好み。喜界島の山羊に匹敵するようないい味ぐあい。旨い。

ということであっという間に食べてしまって、あとは宴会に突入。正直酔っ払った。

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闘牛を喰らう(というほどでもない)

一週間ぶりに牛小屋を訪ねた。徳之島で負けた牛が一頭増えていた。ちょっと小さい。とにかくも、この近辺の牛はほぼすべて体調は良さそうだ。

などと思っているうちに、酒盛りに突入。わたしは時々参加する程度だけれど、この場所で、ほぼ毎日、この地区の闘牛関係者による酒盛りが開かれている。

今日はこの正月に行われた大会のビデオを見ながら(当然の屋良ビデオ製)。1月3日の南部の大会だったが、お世辞にも良い大会とはいえないように感じた。牛同士が合わないことも度々。牛そのものも、このあたりに比べると…。これで3000円か。それでも話によれば、このビデオの南部のGは最近、闘牛を飼う人が増えてきた地域。「あのFだって最初の頃は似たようなものだった」。つまり、4,5年すればそれなりになっていくということなのであろう。

と、いった話などをしながら気がつくとなにやらさいころ上の肉を焼いている。闘牛の肉だという。

角が折れる。はらわたがでてしまう。足の骨が折れ治る見込みがない等。戦えなくなった闘牛は多くの場合潰される運命にあるが、その肉は関係者に配られたり、または「たすけ」という互助的購入に供せられることがある。細かなことは聞かなかったけれど、とにかくいま焼かれている牛肉はどこかで廃牛になった闘牛の肉なのである。

話には気いてたし、食べている風景を見たこともあるのだけれど、食べてみたことはない。が、良い機会だし、いわれるままに、闘牛肉デビュー。ひとかけらを口に放り込む。味は醤油としょうが酒というあたりで悪くはない。悪くないのだが、ん?。

噛む。いや、噛み切れない。堅い。筋だらけ。前歯で歯を立て、奥歯で磨って、くちゃくちゃと。どんどん肉の味が出てくる。味はいい。しかし、くちゃくちゃと。味はいい。でも、厭きてきた。くちゃくちゃと。結局。ほんの1cm角の牛肉を食べきるのに5分以上の時間を要した。

口の中でくちゃくちゃしていると誰かがいう「この肉、それ」。その「それ」の方向には、先ほどのG地域主催の闘牛大会のビデオが再生されている。カメラは角が折れてしまった牛の敗戦後の姿を追っている。「その牛だよ。この肉」。ビデオで牛を見ながら、その牛の肉を食うというある意味得がたい体験であったのかもしれない。

肉の堅さ=闘牛の筋肉なのだろうが、噂以上の堅さ。ガムやグミなんてものではない。いや正直、2個目は噛み続けるのを放棄してぺっと吐き出してしまったわたしなのだった。本当に堅いのですよ。

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共同店の本

宜野湾にあるいきつけの古書店へ寄った。ほしい本が何冊かあったのだが断念。なんといっても、大型本で重かったのだ。車で来て買いなおすか通販が正解。

その代わり、昨年出版されていた、季刊カラカラ別冊『共同店ものがり』を購入。小さくて軽かったので。
共同店ものがたり

戻ってから読んでみたけれど、なんだ、面白いじゃない。もっと早く買っておけばよかった。紹介されているうちの半分以上はいったことがある共同店で、その時の記憶が甦る。

「あ、あそこで買ったビールは温かったなあ」「地元の泡盛の小瓶はお土産にしたっけか」

わたしの場合、シマ(集落)を訪れ、そこに共同店があった場合、最低でも飲み物を購入するという暗黙の自発的ルールが21世紀になってから発動されているが、20世紀中は、入っただけでモノを買わずというところがあるので、商品を買ったのはまだ3分の1強というところかもしれない。まだまだかと思われます。

なんといっても共同店の元祖である奥共同店。行ったことはあるのだが何も買っていないのだ。これではいけない。今年中に買い物にでかけることにしようと新年に誓うのだった。

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今年はじめての牛小屋

昼近くにホテルを出て、那覇から2時間弱かけ牛小屋へ。

三頭とも元気だ。デビューするかもしれないと聞いている黒牛くんも、かなり体調が戻ってきたように思える。よかったよかった。なんといっても、草をしっかり食べるようになってきた。昨年10月頃に風邪をひいてしまったあとは食欲もなく身体の筋肉も落ちていたようだったが、今は、まさに筋骨隆々という言葉が当てはまるような。

戻ってきた、あかりパンダも元気だった。しかし考えてみれば、あかりパンダは沖縄の横綱だった牛。それがふつうにこうやって見られてペシペシとか身体に触れることもできるのだ。やっぱりあかりパンダは沖縄の観光名所のひとつではなかろうか?いや、「ぼくにとっての」、という但し書きはつくけれど。

加えて、これから、どうなっていくのか見物のメリーちゃん。あいかわらずの食欲を発揮している。

そういうことで、とりあえず新年の小屋は順調かと。

お年玉がわりということではないが、彼等の背中をゴリゴリと掻いてみた。気持ちいいらしく頭を下げ涎を垂らし小さくうなっている。垢と埃が風に舞う。

帰りがけ車内で近くに座っていた女の子が変な顔をしている。時々鼻をつまんだり。

その彼女が降りてから気がついた。牛の垢やらゴミが服や髪にふりかかり、モノスゴイ匂いを周辺にばら撒いていたのが、そう、僕だったのだ。着ていたウインドブレイカーの臭いことといったら…。

周りにいた方ごめんなさい。と、謝罪。

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なぞるように南へ

6時に起き船に電話をかけたのだが留守電になっている。いま泊まっている町に船は着くのだろうか。10月に来たときは海が荒れ反対側の町へついてしまい、たいへんな思いをしたのだがその二の舞だけはごめんだ。

などといいつつ、もう、腹をくくってこの町に船は着くと決めてもうひと寝入りを決め込む。

8時すぎに目がさめ、港に電話。予定通りだと知り安堵。一時間後ホテルを出て港へ。10時10分出航。これから9時間あまり南へ下っていく。

空にところどころ浮かぶにわか雨を降らす雨雲を従え船は南へ南へ。沖永良部を出航しても、航跡のはるかかなたに徳之島の姿が。進行方向に目をやれば与論島の先に、沖縄本島の絶対聖地である安須森(アスムイ)のギザギザした山容の影が浮かんでいる。そのうえ右手には伊平屋島まで。こんなに周辺の島々が拝める日は珍しい。

太古の昔、南下していったわれわれの祖先はこんな風景をみながら船を操っていたのだろうか。そして、安須森の威容に神を見ていたのかもと想像が膨らむ。

本島の本部港で日没。角がタッチューぎみだったので間違いないかと思うが徳之島で載せられたのであろう闘牛が3頭コンテナごと降ろされていた。

これからは夜の航行。残波岬までは暗がりに名護の町、ライトアップされたブセナ、恩納のホテル群によるあかりだけが浮かぶ真っ暗な世界なのに、そこから先は「沖縄は都会だ」ということをあらためて知らされる思い。

観覧車が見える美浜、宜野湾、浦添の住宅街。その中で最も強烈な光を放っていたのが嘉手納と普天間、ふたつの基地と滑走路の誘導灯だった。これだけのあかりを維持する電力は相当なものではないだろうか。

それでも西の空にはオリオンがまたたき、東京では天上付近にある昴がかなり低いところにうっすらと。闇に浮かぶ街の灯りというコントラストが幻想的でさえある。

ぼーっと見ているうちにいよいよ那覇港の防波堤内に入る。三重グシクを左に見て、右手にかつて存在した屋良座森グシクを想像し、かつての交易船のように船は漫湖へと遡れる那覇港へ。あの狭い港湾内でUターンしてから接岸。疲れていたので近くのホテルへ。

そばでも食べようと以前から何度も横を通っていた屋台風の店へ。思いのほか良い味だったのは収穫。

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Welcome back あかりパンダ

あかりパンダが、先週帰沖。ただし闘牛としてではなく余生を送るために。今日、久しぶりに、彼に会った。

岩手県の山形村(今は久慈市)で闘牛としての余生を送っていたあかりパンダ。今年の成績は1勝2敗。その2敗も戦意がなく、牛主は闘牛としては見切りをつけざるをえなかった。つまり、つぶすということになったと。そんな連絡を受けた知人が買い戻したことで、長年暮らした土地へと戻ってきたのだった。

帰ってきたあかりパンダ通常闘牛として戦わなくなった牛は屠殺される運命にあるので、今回のようなケースは非常にまれだ。闘牛を飼う人間が、ケンカができなくなった、かつて飼っていた牛を買い戻すなんてことは、まず、いや、聞いたことがない。

知人にもさまざまな理由があったことは察するに余りあるが、やはり、手塩にかけて育てあげ、沖縄で横綱をはった牛。ひとことではいえない思いがあったに違いない。

とにかくも、あかりパンダは、沖縄に戻ってきた。

さて、久しぶりのあかりパンダ。

寒いところにいたからなのか、体毛がこころなしかふさふさしたように感じる。まとまりのある巨体。大きな顔。見えなくなった右目。全体の印象はそのままなのだが、どうみても筋肉が落ちている。それだけでなく、触れるとぷよぷよとした脂肪。よくよくみると角もかなり短くなっている。素人目にも闘牛としては終わったという事実は理解できた。

それでも、一世を風靡した人気牛。

この牛小屋はぼくにとっての沖縄の新しい観光名所になった。もしかしたら、あなたにとっても。

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豆汁

名護のブラジル食堂でポルコ・アッサード(ブラジウ風焼き豚定食)を食べてたら、おじいとおばあのカップルが、ぼくと同じポルコ・アッサードにフェィジョアーダを頼んでいた。

だいたいおじい、おばあなら、そばあたりを頼むので、ちょっと珍しい。

話しを聞くでもなく聞いてたら、お店の奥さんに「『豆汁』が懐かしいから試しに食べてみる」みたいなことを話している。どうやら、おじいの方がブラジウ帰りらしい。なるほど。それでここにきてみた、と。

それにしても、「豆汁」…。

なるほど、なるほど。フェィジョアーダのことですか。いいえて妙。

ここブラジウ食堂のパステウ=「空気てんぷら」の命名に匹敵する日本語名ではなかろうか、などとちょっと感動した秋の午後。

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与那原家II

与那原家のそば久しぶりに那覇泊だった。夕方、小禄周辺で解放され、小腹がすいたので、そばでもと。

以前書いたうるくそばも近くだが同じところ行っても芸がないなと、喜多方ラーメンをはさんで並びにある、与那原家IIに突入。

沖縄そばがメインだが、メニューを見ていると定食や泡盛、料理もある。

沖縄そばはあっさりかつお味とこってりとんこつ味。かつ、麺は従来の沖縄そば麺に加え店独自の手法で長期熟成させた麺から選ぶらしい。今回はあっさり味でオリジナル麺のソーキそばにトライ。

数分してやってきソーキそば。麺は中太のラーメンのよう。喜多方ラーメンのそれが近いかも。ソーキは骨までいただける上品さ。スープはあっさりというがちょっと強めの味つけ。ここまでだとわたくし好みということでけりがつくのだが、いやちょっとお待ちあれ。

うーん。やはり、この麺だとあっさり味の汁だとちょっと物足りないかもしれない。麺がプリプリツルツルのためスープがあまりからまず、物足りなく感じるのだ。ソーキそばを構成するそれぞれのパーツはいい線だと思うのだが。

しかしそうすると沖縄そばの範疇に入るのかという疑問がもたげてくる。二軒となりのうるくそばも「沖縄そば亜種」とでもいいたくなるたたずまいだったけれど、こちらも違った方向で「亜種」かもしれない。それでも飲んで食べたあとの締めにはこの麺と汁でも悪くないのかもしれない。

とはいうものの、きっとこのぷりぷり熟成麺には、こってりとんこつ味のスープがデフォルトなのではないだろうか。たぶんそんな気がする。とりあえず機会があったなら、今度はとんこつ味で食べてみようかなど思ったりも。

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奄美あたりのマクダネルダグラス

MD81とか87といった機材が鹿児島から沖縄の間の島々の空港に投入されている理由は、その地域が旧JASの領分だったのでその機材を使っているということなのだろうと思うのだけれど、いつまであの機材に乗ってればいいのかなあと暗い気もちになるぼくなのですが、どうなんでしょうJALさん?

あの驚異の狭さの2-3の席。ちょっと大き目のバックも入らない天井の荷物棚。後方席に座ろうものなら(座ったことは過去に一回だけなんだけれど)、爆裂のようなエンジン音が飛行中、頼んでもいないし、できればどっかへ行って欲しいのだけれど、常にそばに寄り添ってくれる。幸せなわけがないわけでして。

はたまた一番前に座ったとしても、機材によっては、テーブルをロッカーから出して来て設置するといった荒業まで登場する。まあ、これはこれで昔のDC-10とかもそうだったので懐かしいんですけれどね。

もちろんいろいろな島をあわせて12万ぐらいしか人間がいない奄美群島を中心にした地域。優遇するわけにもいきません、ということなのでしょう。

そういえば、同じ系統のMD90などにはClassJとやらも導入するそうで、まだまだマクダネルダグラスの機材を使うのだ!という心意気ですか…。古いものを大事に。いいことではありますけれど、航空機の場合はどうだろうか?

南西諸島方面への移動が多い身としてはANAさんよりJALさんにお世話になる機会が必然的に増えるのが当然ですし、JALの上級会員になったのはANAよりもずーっと早い。現在の悲惨な株価を見ていても、涙をぬぐう袖も濡れる状況。いいすぎですけれどね(笑)

今日も徳之島発の鹿児島行き。「二便」。いつもどおりMD81の狭さを体感させていただきました。ま、これはこれで奄美群島名物?としてちょっとの間残ってもいいのかも、などと、今月4回目のこの機材を堪能したのでありました。

関係ありませんが、鹿児島空港の足湯につかってたら、痛んでいた右足の人差し指の爪がべろべろに。あと数日したらとれてしまうのかもしれない。次の爪まで半年だろうか?。

それでも東目手久での大会は面白かったので、よくわからないけれど、許したいと思うのですが。

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やんばるうろうろ

安田海岸への道

東海岸の安田(あだ)へ。ほぼ四半世紀ぶり。噂のとおりテトラポットがいっぱい転がる海岸へと変容。太平洋側は波が荒いので部落を守るにはしょうがないことなのではありますが、少々悲しい気分になるのはよそ者の身勝手か。

四半世紀ぶりに部落から浜へのアダンの道を通る。ここはあまり変ってない。主な御獄(うたき)や神様はそのまま。コンクリート作りの立派な建物になったりもしている。この共同売店あたりはおそらく古代からの集落跡のはず。

村営バスの帰りがけ、辺土名の手前の宇良バス停で村営バスを降り、伊地と宇良ふたつの集落を歩く。どちらもお社の屋根は赤く伊地のそれはたぶん伊地遺物散布地かと。小学生に挨拶される。ふたつの部落の共同売店が58号線沿い、すぐそばにあるので、複雑な状況はないのか気になるのだった。

宇良から海岸をてくてく歩いて辺土名のバスターミナルまで。こういうところを歩くのはあまり苦にならないのが不思議ではある。

名護に戻っていきつけの寿司屋でアグーのしゃぶしゃぶをいただき、腹ごなしに名護市内を歩いて帰る。部屋に戻ると、ドカン!ドカン!ドカン!と花火が上がった。ん?。日本ハムが勝ったお祝いだったようだ。名護は日本ハムのキャンプ地であっちこっちの居酒屋に日本ハムの選手の色紙とかあったりするので不思議でもない。

たぶん明日の新聞には名護市内の様子とかが掲載されるんだろう。沖縄にとってプロ野球の春季キャンプとその関連収入は、県にとっての一大産業であることは周知の事実。悪いことではないけれど、2月の沖縄は野球に興味がない人間にとってホテルを取りにくいという問題点もないわけではない。まあ、そのあたりは避けて通ることかと。

安田カミアシャギ今日は、本当に久しぶりに安田を訪れた、昔に比べてそれぞれの家が今風になり、拝所がコンクリート作りになり、海にテトラポットが並び、漁港が大きくなるなど、時代は土地の記憶を変容させている。観光客もほとんど訪れることのないやんばる東海岸集落にも台風によるそれだけでなく時代の波もおしよせている。

それでも、安田独特の屋根が低く足の多い神アシャギは茅葺のまま残されていて、2年かけて完結するシヌグはきちんと継承されている。安田という集落は太古からの記憶の一端を現代に浮かび上がらせるそんな場所なのかもしれないと。

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名護散策(というか結果としてウォーキング)

コザから77番のバスで一般道を北上。うるま、金武、宜野座、辺野古などを通って名護まで1時間半。いつものバス停で降りる。ねぐらに荷物を置き、歩き出す。東京だとあまり歩きたいと思わないのだけれど、南西諸島方面だと歩いてもあまり苦にならないのは不思議。

タクシーに乗ってもよかったが、あまりに天気がいいので行けるところまでやっぱり歩くことにする。目的地はブラジル食堂。名護の観光ガイドには必ず登場するブラジウ帰りのご家族がはじめたお店。

正直普通は歩かない距離だが、今も書いたように天気がいいのだもの。しょうがない。

かつて知ったる道をぷらぷら歩き、58号線バイパスを越え名桜大方面へ。右手に我部祖河食堂の支店が。入ってことはない。坂を上ると左手にブラジウ食堂の看板が。

実は今年の春もやってきたのだけれど、残念なことに、お休みで入れずじまい。しかたなく近くのエンダーで食事をしたことを思い出す。あとで調べたら定休日が月曜とのこと。今日は水曜日。大丈夫。あいていた。

中に入るとテーブル席がいくつかと座敷。ゆったりとしたつくりがいいかんじだ。壁にはブラジウ国旗の真中のところをそばにした国旗、というか店旗。奥の壁にはブラジウセレソンのユニフォームが額に入り鎮座ましまし。個人的に顔がほころぶ。

フェジョアーダなどのブラジウ料理もあったりするのだけれど、ここは名護。新山食堂や宮里そば、我部祖河食堂など名店ひしめく沖縄そば処。実はこのブラジル食堂、そんな名護にあって、そばでも名店に数えられる。ということで、ソーキそばを所望することに。もうちょっと頼もうかと、ふと壁を見るとおおパステウがあるではないですか。餃子みたいな四角い皮の中にチーズとかひき肉を入れたブラジルのおつまみ。なんとここでは、「空気てんぷら」と命名されていたのであった。「空気てんぷら」。この名称、個人的にかなりツボ。躊躇なく頼む。そして食後に、このブラジル食堂の名物でもある、エスプレッソもいただくことにする。

そばが来た。とても奇麗なそばだ。汁の味。うむ。かつおの風味と味。申し分ない。くわえて歯ごたえもある、沖縄的正統派の麺。申し分ございません。ソーキもやわらかく臭みなし。そんな気持ちよいそばを食べている間に、アツアツのパステウこと「空気てんぷら」が登場。これもおいしい。ビール飲もうかと思ったけれど、ガマン。あっという間に食べ終えてしまう。

そして名物のエスプレッソ。自宅でイタリア製の手動式エスプレッソメーカーでカフェを毎日飲むほどというかそれしか飲まないエスプレッソ好きのわたし。イタリアだとデミタスカップの半分ぐらいに入ってくるのだが、ここは「ブラジル食堂」。つまりブラジル式。デミタスカップになみなみと。イタリアのそれに比べて粘性はないけれどそれでいて味はしっかりエスプレッソ。満足。

というのもカフェ好きのわたくしですが沖縄でまともなコーヒーを飲んだことはあまりない。コザなんかほとんど壊滅状態で知ってるホテルのロビーにある無料コーヒーが一番まともかも、と思うほど。まあ、その代わりにアイスコーヒーはそこそこいい線のものを飲めるけれど。などと思いながら、メニューを見ていたら、アイスコーヒーのところに「ブラジルにアイスコーヒーはありません」なんて正しい但し書きが。個人的にはまりました。

などと思っていたらお店の若主人と奥様が話し掛けてくる。調子に乗っていろいろと話しをしてしまう。息子さんがFC琉球の巡回スクールに入ってフチボールやっているとか、「オシムはもっと我那覇使って欲しい」とか、「我那覇は九州大会で福岡に行った時宿舎抜け出して中洲で遊んでたくらい悪かった」とか、ブラジウ時代のお話しとか、お店は以前屋部にあったというので「ゴルフの諸見里しのぶが屋部ですよね」とかの地元ネタ。連れがサンバやっているといった話しでまた盛り上がる。なんと1時間以上話して盛り上がってしまった。

時間はもう4時。2時間はたっぷりいたことになる。あまりお邪魔してもいけないので、そろそろ退散。帰りがけ厨房雄の奥では写真で見たことのあるオバァが鎮座ましましておいでで、「おいしかったです。また来ますねえ」と挨拶をして店を出る。

予定では羽地の方へでも行こうかと思っていたのだけれど、行こうとしていた時間をかなりオーバー。どうしようかなと考えたが、ここは沖縄。東京にくらべて太陽が西に傾くまではまだまだ時間がある。ということで羽地の田井等へ。以前来たとき未踏だった南側のあたりの御願やら拝所を巡る。うーむ。やっぱりこのあたりは落ち着いていていいところだ。

ひととおりまわったがまだ太陽は帰りたくないらしい。1時間半は明るいと読んで、以前から歩いてみたかった山側の集落方面へ。山の中腹の車一台がやっと通れるくらいの道をのんびりと名護方面へ向かっていい感じの民家や拝所や御願のそばを歩く。空気はおいしいし58号線と違って車は時々通る程度。1時間後バス通りに出て、名護十字路まで。いつも来ている居酒屋に入って食事。ただいつもなら魚がいっぱいなのだが今日は島タコとグルクンぐらいしかない。漁港が休みなのだろうか。それでも普通においしく食べて、300mぐらいいったところで作っているオリオンビールの生を。やっぱりオリオンビールは名護で飲むべきですよ。だんな。

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うるま市あちらこちら

イベント広場1010コザ的にだらだらと爆睡してしまって気がついたらもうお昼近く。いつものこと、とはいえる。とにかくおなかがすいた。とっとと石川漁港を目指す。いつものようにイカ汁+寿司のセットで1500円。ここのイカ汁はいつ訪れても安定しておいしいくいただける。10月だけれど屋外テラスの屋根に水を撒いて冷房のかわり。気持ちいいなあ。少々まどろんでから、歩いてイベント広場の進捗状況の確認に向かう。途中の石川川は気水域となっていてマングローブが両岸に見られるのでしばし観察。石川イベント広場は先月来たときよりやぐらが高くなっている。いよいよドームにとりかかるといったかんじだろうか。しかし暑い。だけれど日陰に入れば心地よい風を感じられる。ちょうど6月の欧州みたいな天気だ。もしかしたら台風シーズンもすぎ南西諸島を楽しむには一番いい季節かもしれない。

ドームをあとにして石川のジャスコのあるショッピングセンターへ。向かいの本屋さんで本を一冊買う。歩いて白浜方面をめざす。途中、公園になった石川のウタキ。このあたりの空気も何気によい。沖縄の神様に祝福されている土地かもしれない。このあたりは沖縄島の中でもっとも幅が狭い地域で地質的にも北へ行くと赤土、南はジャーガルや琉球石灰岩台地という境目にあたる場所。たぶん昔は浅い海だったのかもしれない。

沖縄のり白浜で海を眺めてしばし休息。宮城島が航空母艦みたいに沖合いに浮かんでいる。左手に埋立地にでっかい火力発電所のえんとつ。右手のがけの下は琉球墓地域。いつきてもアンバラスな風景だなあと思う。もっとも右手の墓の上はアメリカーの居住地域になっている。もう太陽がかなり傾いてきた。なんだか、今日はほとんど石川でぷらぷらしていただけだ。

そろそろ時間的にいい頃かなと約束していたので友達の牛小屋へ向かう。途中、昆布から天願のあたりを通ったら例のP3C輸送反対の人たちの座り込みに出くわす。そういえば天願桟橋だもの、こことおればあたりまえだ。キャンプコートニー(地元のとくにお年よりは米軍キャンプのことは「部隊(ぶたい)」といっているが)前のいつも気になるが食べたことがないカーサタコスを通り過ぎ、途中で降りて知人の牛小屋へ。

期待の黒牛くん。なんと風邪をひいたそうだ。まったく食欲がない。大丈夫だろうか。昼に獣医さんに注射を打ってもらったとのこと。なんとお値段13,000円。そりゃあ牛に保険は効かないなのでしょうがないけれど、この出費。うるま市の偉い方。うるま市にとっては闘牛は地域文化であるわけですし、うまく持っていければ、観光客がほとんど素通りしてしまううるま市にとって観光名物になる可能性もないわけではありません。このあたり助成などお願いできないものでしょうか。闘牛を飼うというのは毎日の餌やりなどたいへんなんですから。いや、ほんと。知人は毎朝朝5時に起きて読谷まで車飛ばして牛の餌の草刈りにいったりしているわけですし。などと、頭の中で呟く。

闘牛練習パンダ牛の方の足の膿は快方に向かっているそうで一安心。食欲もある。「まだ、足をちょっとひきずっている」は知人の弁。そんなことを話したあと、パンダ牛を外に出すことになった。少しタイヤで遊ばせる。楽しそうだ。もちろん安易に近寄ってはいけません。まだ若いとはいえもう一トンを超えている巨体。ダンプカーのタイヤが軋みながらグイングインと持ち上がる。どんな牛になるのか。目じりが下がる。

十分に遊ばせたあとここのところの日課どおり牛を外につなぎながら知人がいう「あっち(黒い牛)はぜんぜん食べないし面白くないので上いこう」。上とはすぐ近くにあるもうひとつの牛小屋だ。

そっちには牛が三頭。その小屋の前では知人の兄や、ぼくも久しぶりにあった人たち牛好き、酒好き、博打好きの人たちがいつものようにたむろしていた。ほとんどぼくも顔見知り。久しぶりにあった人も多い。

当然のことだがみんな牛に詳しいので、いろいろな話しを聞く。面白い。気がつくと人が増えている。近くの別の牛主の人やら、知人の同級生やら、わさわさと集まってきたのだった。おまけにビールやらシマー(泡盛)やら、タコスやらチキンやらが登場して屋外宴会へとなだれこむ。ブルファイトパーティーか?。タコスはさきほど横を通ったカーサタコスのもの。はじめて食べる。うわっ。こりゃうまいぞ。タコスの皮がほどよく柔らかくトルティージャのよう。ひき肉もサルサソースも満足できる味。レタスも水切りがしっかりしていて文句ない。いま、書いていても、また食べたいと思うほど。金武やコザで有名どころのタコスはいろいろと食べてきたけれど、ぜんぜん負けていない、というかここのタコスかなり凄い。おまけに別の店の店のチキンだがそっちも、皮はパリパリ。肉はジューシー。おまけにガーリックが利いていてビールがすすむ。気分がいいなあ。

牛の様子をみながらいろんな話で盛り上がる。闘牛界の裏話やら、闘牛場でのふるまい、牛主の気持ち。徳之島闘牛の凄さ。こちらとしては願ったりかなったり。気がつくとあたりは真っ暗。月が浮かんでいた。

夜10時すぎまで続いた緊急大宴会のあとコザへ戻る。ちょっとこばらがすいたので、いつもの小町でおでん。ここのてびちは本当に絶品。地元でしっかり支持されている味を出しているからこそだろう。見た目はグロテスクで内地の人は一見して顔をそむけることが多い。ぼくの知人もそんな人が多かった。でも、たいてい常連になったりするようだ。

こうして誕生日の一日は過ぎていった。あ、そうなのだ、いまさらこの年になって誕生日を喜ぶのも恥ずかしいが、個人的にとっても気持ちのいい誕生日になった。そんな気がする。

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牛に夕焼け

沖縄のりいま、足に怪我をしているらしくて、夜は外に出しているのだそうだ。

ということで、夕方になって外に出された知人のパンダ牛。

いつもは牛小屋の中で見ているわけだが、外で見るとその大きさが改めて確認できる。まだ若いのにもう体重は一トンを超えてている模様。まだ肉がつききっていないとのことなので、はてさてどのくらいまで大きくなるだろうか?

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沖縄市産味付け海苔

沖縄のり関西方面で育った方は味付け海苔をおやつ代わりにムシャムシャ喰い散らかした覚えがないでしょうか?。

わたしは関東育ちではありますが、春と夏の休みはご先祖様の田舎である和歌山ですごしていたもので、おやつに味付けのり。ご飯の時もおかずが足りなきゃ「味付けノリ!」という生活を送っておりました。

しかし最近は関西における定番である佐賀有明産の味付けノリの味が落ちている、そんな気がするのはわたしだけでしょうか。とくに例の有明海の埋め立て以降とくに顕著になっているような。杞憂ならいいのですが、実際、個人的に佐賀有明産の味付け海苔をうけつけなくなってきていたりするのが困りもの。

そんな中、救世主のように登場したのが(いいすぎ)、このやっちゃんのり。昨日紹介した沖縄市にある仲松通商で売られています。製造はNM商事。たぶんオリジナルの海苔でしょう。

実はこのほかに、NM商事の味付け海苔は2種類あるのですが、わたしの好みは、やはり、このやっちゃんのり。やっちゃん最高!(笑)。泡盛や焼酎のあて。卵かけご飯を巻いて。口さびしい時のお供。大活躍しております。

沖縄市周辺でしか見たことないので、もしも沖縄へ行って、近くに行ったなら、買って帰って、ホテルで就寝前の泡盛のあてにしたりするのも一興かと。

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沖縄市産はちみつ

沖縄はちみつなくなると買っているのがこのハチミツ。

一年中どこかしらで花が咲く沖縄なので季節によって味も違ったりするのだろうが、あまり詳しいことはわからない。

ただし、このハチミツ、かなり使いやすくおいしいということだけは個人的にホショーしておく。そんなに高くもない。

いつも沖縄市の農連市場向かいの仲松通商で購入している。沖縄で下手なお土産買うよりよいかもしれませんね。

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石川イベント広場ドーム化進行中

IshikawaDome

石川イベント広場のドーム化が進行中。写真は今月頭のもの。

今年の春先に観客席の改修を行ってから、続けてのドーム化。沖縄らしい生コン注入のおかげという声もちらほら。関連事業者についてのそれなりの噂も聞きますが、まあ、とりあえず、見る側としては、喜ばしいことですんで、そのあたりは穏便に(笑)。

なんといっても20℃を切るニシカジ(北風)吹きすさぶ沖縄の曇りがちの冬の寒さといったらそれはもう命がけ(北国の方々は沖縄在住者の皮膚感覚と沖縄独特のニシカジを想像してお読みください)。死ぬかもしれないという辛い観戦になるわけで、その時に屋根があったら喜ばしいことです。

はたまた5分でメラニン色素に届く強烈な紫外線の春から秋にかけての観戦時にもドームの屋根は紫外線に仏。ありがたやありがたや、です。

完成は来年2月末となっていたので、3月あたりに完成記念の準全島が行われるのかもしれません。沖縄的に2月末という完成が伸びる可能性もかなーり否定しませんけれど、来年5月の全島大会はここで行われるのが決まっているそうですので、そこまでには完成するのは確実でしょう、たぶん。

また暇を見て進捗状況をお伝えいたします。はい。

そういえば、むら咲きむらもドーム化するという話を聞きました。ドーム流行ですか?。生コン使いますもんね。ドーム化ですと(笑)。まあ、ビーチに生コン注入するよりはいいのかなあと思ったり。さて、同じうるま市の安慶名や与那城、中部の中心を自負する沖縄市の沖縄市営あたりもドーム化なんてことになるのでしょうか?と、一応、ぼけておきます(苦笑)。

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久しぶりに牛小屋へ

うるま市役所前のバス停から歩いて牛小屋へ。まだまだ暑くて気持ちがいい。

10分後に到着。知人は椅子にこしかけ牛の様子をうかがっていた。

パンダ牛の方は確実に大きくなりつつあるように感じる。顔が太りはじめた。まだ「熟していない」ので身体の方は骨が浮いている。もっともホルスタインとかけた牛は肩が広がる傾向にあるのだそうだ。背は高いのだけれど、はたしてどうなるか。おそらく体力と身体の大きさで押す牛になるのだろうが。といったあたり。

黒い方はかなり熟してきたのか、身体のはりや艶が美しい。また首が長くなってきていて非常に良い傾向だとのこと。横柄な態度も相変わらず。先日練習の時、右前足のひざあたりを怪我したらしいのだが、大事に至らず、順調に回復しているとのこと。デビューは来年か、再来年か。

といったことを夕方6時過ぎから9時半ぐらいまで、牛主である知人と話をして時間を過ごす。

牛

気がつくと、食べ疲れたのか二頭ともひざを落とし寝る態勢に入った。久しぶりに2頭の寝る姿をみたけれど、パンダ牛の寝姿はなんというか笑ってしまう。

話によると、夏前の黒い牛の方の寝姿もかなりのものだったらしい。横になって両足を突っ張って伸ばしたまま寝ていたとか。どっちにせよ、牛はかわいい。電気を消す前に両方の牛の背中をぺたぺた叩いて小屋を後にした。

コザに戻って、いきつけのおでん屋で食事をしてから今日中にねぐらに戻って寝る。

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フツウの沖縄

▼ウチナンチューの40歳台以上の方々の共通した特徴は、「ヤマトンチュウはうちなーのことをしらない」という前提でヤマトンチュウに話をするということではないだろうか。

▼わたくしもヤマトンチュウですから、わたくしのことを知らないウチナンチューの方々は、たとえば「ヒージャーを食べたことあるか?。食べるなら塩としょうがで好みの味にしなさい」と教えてくれる。
▼個人的にはうちなーのヒージャーは食えるけれどあまり好きではない。
▼やはり喜界島のヒージャーが最高かと思っている。
▼なので、沖縄でヒージャーを食べるときは、少なめでと話をする。
▼すると話の主のウチナンチューはヤマトンチューはヒージャーを食べれないと一種の安堵をする。そういうことなのかもしれない。
▼でも、そういうことは、面と向かって初めてあったウチナンチューにはいわない。

▼はたまた、こっちがグスクを巡っていると知ると「沖縄にグスクはたくさんあるから」といってくれるのだが、名護出身の方でも、親川グスクなどになるとわからない人が多い。
▼伊波あたりの出身の方には、なぜ伊波グスクの麓には神アシャギがあるのでしょうか?伊波から南のグスクやグスク相当遺跡のソバや近くには神アシャギはないように思える。
▼と聞くのだけれど明快な答えはいただけない。残念でならない。

▼ホーミーというモンゴルの倍音唱法があるけれど、沖縄でホーミーというのは女性の性器や九州でいうボボのことだというのは四半世紀前から知っている。そして、それは日本の古語の「ほと」(火陰)から来ているということが学問的常識であることも知っている。

▼本島南部の人に沖縄の闘牛の話をしてもほとんどの人がお話にならない。まず、知らないという南部ウチナンチューが一番多い。次は知っているが、関わらないで来た人。
▼具体的な数字はだせないが、それはかなりの数にのぼるはず。
▼ウチナンチューで闘牛を見たことがない人の数が50パーセントを越えることは間違いない。

▼中部、北部のウチナンチューにとって那覇は光かもしれないが、憧れではないのではないか。
▼中、北部で那覇や浦添の話を聞くなんてことはほとんどない。
▼あるとすれば、中部なら北谷、宜野湾あたりまで。
▼北部なら金武や恩納ぐらいまで。
▼このあたりがアイデンティティのテリトリーなのだろう。


▼沖縄は、日本からみて、そんなに<特別>なのでしょうか?

▼調べれば調べるほど、沖縄は<日本というカテゴリーの中>において、文化、歴史的に特別な場所であるとは思えない。
▼沖縄に残る、グスクや大和でいう神社の性質を残した聖地(現在は公民館やグスク遺構だったり、拝所だったり)。

▼本州や九州、四国の田舎には沖縄よりも日本ばなれしていて、その独自文化を保っているところがたくさんある。
▼ウチナーはわたくしから見ると、非常に日本的な文化の中にある地域だと思えます。

▼ウチナンチューが沖縄の食や、コトバや音楽や文化、歴史について説明してくれても、そのほとんどが、はたして、現代において特異性を意図した言質となりえるのか?、歴史的事実なのだろうか?そう思えることも度々ある。
▼それが異人への優越感や優しさから来ている発言であることが理解できるので、こちらは笑顔を用意するしかできない。

▼すでに沖縄に関する情報の多くは、日本においては消費のステージに入っており、メディアで喧伝される沖縄はすでに特別なものではない。

▼とにかく、沖縄は多様性の中にある社会だと実感する。沖縄はひとつではない。これは間違いない。

▼ウツナンチューというコトバがあり、実際わたくしも使うけれど、現状、正確な表現を考えると、北うちなんちゅー、南うちなんちゅー。那覇うちなんちゅー、北島うちなんちゅー、宮古うちなんちゅー、やいまうちなんちゅー、よなぐにうちなんちゅー、といた民族、宗教、カテゴリーに分かれるといっていいかと思う。

▼それぞれは文化が異なり、わたくしの感覚では、那覇と中部では東京と福岡ぐらいの違いが確実にある。コトバは東京と福島あたりの違いはあるだろう。那覇と北部の山原(ヤンバル)では、鹿児島と津軽くらいの文化の違いがあるかと思う。

▼うちなー、うちなんちゅー、という概念は、うちなーからみると、本土、やまと、内地といったコトバで語られる海の向こうの島で起こっていることやものへのカウンターパートとしての存在なのだと思う。
▼大和のカウンターでしかないうちなーというのはさびしい。
▼もしかしたら、現在、うちなーは特別である必要があるのかもしれない。いや、特別でなければならないのだろう。たぶんそうだ。
▼しかしこの特別はもう最終ステージに入っていて、特別ではないフツウの沖縄になっていく。

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エイサーDEスリサーサー

▼よなは徹プレゼンツシリーズ第2弾?
▼北谷町は栄口エイサーと謝苅エイサーをそれぞれ1枚のCDに収めた2枚組。税込み2940円。
▼発売は、いつもの、エイベックス系リスペクトレコード。

▼これまで沖縄発のエイサー関連CDは何枚か市場に登場している。
▼しかし、栄口と謝苅のエイサーが収められたものはなかった。

▼よなは徹は栄口エイサー(旧謝苅一区)の地方(じかた。地謡(じうてぇ)ともいう)でもあり、彼の活動によって、栄口エイサーが園田や胡屋に肉薄する近代エイサーのトップクラスの地位を占めるまでになってきた。
▼現在の栄口エイサーはよなは徹地域密着の成果を表した、ユニットともいえるのではないか。

▼一方、謝苅エイサーの地方にはよなは徹の友人、松田一利。ふたりは一緒にライブ活動を行ったりしている。
▼そして栄口と謝苅は北谷町内のお隣同士。
▼そういうつながりで、栄口と謝苅のエイサーCD2枚組になったということなのであろう。

▼基本的に両エイサーの持ち歌が展開されるが、ビセカツ氏による新曲、21世紀のかぎやで風といった趣の新曲<御元祖(うぐゎんす)>。
▼はたまたよなは徹作詞作曲、彼の2枚目三昧連りてぃに収録された七月(しちがち)などいったオリジナル曲も。
▼当然だが、すべて、聴いていて楽しい。

▼しかしなのだ。内容として文句はとくにないのだけれど、ちょっとした違和感がないわけでもない。

▼よなは徹にとって地域のエイサーとは、ある意味、非常にパーソナルな存在かと思う。
▼それをこの時期に、しかも、同じ町内で友人が地方をしている謝苅エイサーとともに、CD化し、消費の場に提出するということ。
▼どうなのだろうか?

▼エイサー、とくに大太鼓を使う近代エイサーは、非常に派手で魅せる要素が強くなっている。
▼実は、見せる(魅せる)要素を大切にするという方向性は、独特の間と空気感を感じさせるパーランクーによる平敷屋および屋慶名エイサーも例外ではない。
▼エイサーそのものが沖縄の夏の興行といった性格を持ちつつあるようにも感じる。
▼もちろん、ご先祖供養という本質にぶれはないと思うが、エンタテイメント化している側面は否めまい。
▼このエンタテイメント化の延長と考えれば、今回のCDは間違いなくあたりまえの流れの商品だといえる。

▼だけれど、今、書いたようなエイサーの本質から考えると、商品として消費のステージに、地域に密着したパーソナルなエイサーをその当事者がCD化してしまうというのは、最終兵器を登場させた、といったように感強く感じる。
▼そこまで、はやまらなくても、と。思ったりしたわたくしがいるのも事実である。

▼かといって、内容は非常にレベルが高く楽しんでいるわたくしなので、言っていることと行動が一貫していないのも間違いなのだけれど。
▼ともかくも確実に明治以降にはじまったエイサーという近代の「創られた伝統」を21世紀のいまに伝えるだけでなく広く多くの人にその存在をしってもらうという意味で、意義のあるCDであることだけは確実ななのだが。

▼よなは徹が、与那覇徹名義で発売した1stアルバム『よざれ節』を越えるのは、もう少し先のことかもしれない。

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父の日準全島闘牛大会@沖縄市営

▼「SPF256(当社比)なんて日焼けどめないのかよぉ」
▼愚痴をいってもはじまらない。
▼SPF50の日焼けどめが役にたたない紫外線が降り注ぐ沖縄市営闘牛場で行われた<父の日準全島闘牛大会>全10番。
▼一応断っておくと、沖縄の闘牛大会の<格>は、1に「春」、「秋」の全島。3に「旧正月」、4に「新正月」、5に「父の日」。といったことになっているらしい。
▼なので準全島大会の中では格はかなり上の大会ということが分るかと思う。

▼そのうえ、一部において
▼「今年の春の全島より好取り組みが多いさ」
▼という声も聞かれていた、今大会。

▼知人の小屋の牛が登場することもあって、サンダルをぺたぺたいわしてグラウンド通りを下り、全島エイサー大会が行われる陸上競技場横をかすめて闘牛場へ。

▼知人の小屋の牛が勝ったこともあるかもしれないけれど、全10番、惑うことなくはずれなし。
▼沖縄市営は、あまり良い思い出がなく、ただ単に幸運に恵まれたのもかもしれないけれど、かけねなし、本当に、良い大会でしたよ。

▼しかしながら観客は2000人弱といったあたり、かと。
▼ウチナンチューらしくほとんどの人が、紫外線の強さを避け、木陰で観戦しているので、ちょっと遅れて到着したわたくしでさえ、ベストポイントの7列目や近接撮影のための1列目も、画角を考えて移動可能。
▼単焦点レンズ1本で臨んだわたくしにとっては幸運だったのかもしれませんが、客の寂しさはいかんともしがたく…。

▼と、いった不安はおいといて、りあえずC1、C2の赤牛二頭は今後に期待。
▼また、個人的には久しぶりに見た、軽量級の<スナックルミ>。たぶん、名護のあの店なんだろうなあと思ったり。

▼日本国内で闘牛を行っている地域以外に在住のみなさん。
▼ほんと、闘牛は一度見ても、損はないと思います。
▼もちろん、大会によって、良し悪しはありますけれど。
▼それはそれ、かと。
▼なにかのついででも、もちろん、闘牛だけを目的にしての旅もオツなものかもしれません。

▼大会終了後、途中で残波の白をお祝いに購入して、用を済ませバスとタクシーに乗って牛小屋へ。
▼ヒージャー汁(山羊汁)をご馳走になったりしたあと、知人の牛2頭の様子を観察。
▼パンダ牛の方はどうみても身体が大きくなってきた。
▼レンズ越しに見てはたと気がついたのだが、顔に肉がついてきている。

▼などと思った、2006年、おそらく、沖縄の梅雨最後の日。

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中村瑞希嬢がグランプリだった

▼4月23日、渋谷のNHKホールで行われた、日本民謡フェスティバル。

▼今年は、奄美大島笠利唄の唄者として将来を嘱望されている、中村瑞希嬢がグランプリを手にした。彼女は2003年民謡民舞全国大会・浦本杯争奪戦で準優勝しているので、全国規模のこういった大会で賞を得るのは珍しいことではないのかもしれません。

▼かくいうわたくしも、中村瑞希個人名義のアルバムを2枚。吉原まりか嬢とのコラボレーションユニット、マリカミズキ名義の2枚を持ち、日々仕事をしながら聞いていてるといった塩梅。
▼彼女の実力のほどはわかっているため、驚くことではないというのが正直な感想ではありました。

▼とにかく、おめでたい、かと。

▼しかしながら、奄美大島のシマウタが日本の民謡の世界でどういった評価をされているのかをわたくしは不勉強でしりません。
▼また、その逆。つまり、奄美の唄者たちが日本の民謡界での自分たちの評価をどう考えているのか?そのあたりもよくわかっていません。

▼もちろん奄美の唄者は日本民謡協会主催の大会で賞をとっているので、日本民謡協会においては、奄美の民謡は「日本の民謡」という位置付けにあるのでしょう。
▼日本民謡協会主催の大会に奄美の唄者が参加しているということは、奄美側も日本民謡協会内でのポジションは重要に思っているということなのでしょう。

▼そういうことなので、今回の中村瑞希嬢の快挙は素直に喜ぶべきなのかなと思う今日この頃ではあります。


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闘牛の角を研ぐ

▼時間ができたので知人の牛小屋へ。いろいろな話をしながら牛の世話を手伝う。

牛▼あいかわらず、黒い「彼」は偉そうな態度でエサを所望する。まさに人間様をアゴでこきつかうクソ生意気な牛かと思う。
▼それでもいろいろな人の話を総合するに、首が長いしコンパクトに見えるにも関わらず体重はすでに1tを超えている。しかも、若いのに落ち着きもあり、すでに熟した牛かと思われるような。これは大物。
▼というのが大方の闘牛好きの評価のようである。

▼一方、パンダ牛の方はまだ若いということもあるが、いまだ、ただただ食欲の固まり。ひたすら食い続ける。
▼すでに肩の高さは黒い「彼」より高いのだけれど、肉はまだついていない。

▼あかりパンダもそうだったがやはりホルスタインと交けたパンダ牛は巨大化する=大食漢という傾向にあるようだ。
▼その食欲をじっと見ていると、なんだか、数ポンドのステーキにかぶりつくアメリカ南部のでかい白いデブを一瞬思い出したり。
▼もちろん、あいつらと違うのはこっちは完全な草食ということだが(笑)。肉骨粉など、ここは無縁の世界でもあるし。牛を共食いさせてどうすんだよ?、アメリカーさんよ。などと思ったり。

▼そんなこんな話をしながら、ひととおり二頭の世話を終え、上の小屋にいる別の牛の世話に向かう。知人の友達などの牛だ。この小屋には三頭いる。

▼すでに大会にも何度か出て人気牛になっている徳之島からやってきた牛の年齢は六歳という話。しかしながら、知人が言うに「どう考えても八歳から九歳」。

牛▼期待の星の若手牛が一番奥に。飯くれー、飯くれーと吼えている。また、一番手前には昨年、一度大会に出たけれどその後怪我が直りきらずに出場を見合わせている牛。飼い主が外に出していたので、エサをやるために牛小屋へ連れて行く。

▼ところがその牛を牛小屋へ入れ、エサをやろうとしたのだが、なんと、この牛、どこでやってしまったのか、右の角が先端から割れ、角が裂けはじめているではないか。
▼知人がいうに「すぐに直さないとどんどん裂けて角がつかえなくなる」。つまり、闘牛としては使いものにならなくなる。そういうことだ。

▼闘牛にとって角は攻めるための道具であるとともに、相手の攻撃を避けるための防御にも使用される大切な道具。闘牛が、最も、大切にしなければならない「道具」なのだ。
▼その角が裂けかかっている。これは、危機的な状態ということになる。

牛▼知人は、もう一度、この牛を外に出し、牛を器具で固定。「角を研いで直す」という。
▼牛は嫌がって、顔をあっちこっちへふる。せっかく夕飯が食べられると思ったのに、また外に出され固定され、なんだかしらないが、角をいじられる。いつ終わるかもわからない。ストレスいっぱいといったところ。
▼しかもこの牛、しろうとのわたくしが見ている限りではっきりとはわからないのだけれど右の後ろ足の裏をどうも痛めているように感じるのだった。
▼きっとかなりのストレスをためているのではないだろうか。

▼知人が、いう。
▼「それもって、牛の背中をかいて」。
▼知人はわたくしに丸い鉄でできたぎざぎのある道具を渡して、牛の背中をかけという。とりあえず言われたとおり掻いてみる。
▼「それをやってれば、牛がおとなしくなる」と。
▼そういわれ、とりあえず、その道具で牛の背中を骨に沿って掻いてみるわたくし。しかし、牛はなかなかおとなしくならない。
▼「もっと強く掻いていいから」。
▼そういわれ、親の仇にもここまではというくらい思いっきりガリガリこすると、なんとまあ、本当に牛がおとなしくなった。
▼牛の皮は厚い。

牛▼ゴリゴリこすっているとホコリのようなものがこそげ落ちてくる。
▼「それ、垢。それで牛の体調をみたりするんだ」。
▼知人が角を研ぎながら解説してくれる。こっちは、右手でガリガリ牛の背中を掻きながら、左手でシャッターを切るという離れ業を何度か。なんとか状況が把握できるような写真はとれたかもしれない。
▼10分もしないうちに、牛の角はきれいになった。良かった良かった。

▼知人にコザまで送ってもらったのだが、帰りぎわ知人にいわれた。
▼「いっておくけど、ほんと闘牛飼わない?」。
▼誘われてしまった。真剣に考えている自分が少しだけ怖い。

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牛小屋へ牛を見に行ったんだけど

牛▼沖縄はうるま市にある友達の牛小屋へやってきたのだけれど友達だけではなく、誰もいなかった。
▼とりあえず、腕に吸い付くヤブ蚊をはたきながら2頭の牛がむしゃむしゃ食事をしている姿を眺めていた。
▼30分ほどそんなことをしていたけれど、誰も戻ってこない。
▼その時、あっ、ときがついた。
▼今日は14日。
▼来月の全島大会の一ヶ月前。つまり、対戦相手を決める会議がある日だ。

▼そのことに気がついたので、なくなってきた餌を2頭の牛に与えてから、あるいて数分のおばあの家に向かった。
▼そしてさっきまで、ソーメンチャンプルーなどをご馳走になっていたのだった。

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てんてんのインパクト

▼午後3時半の名瀬(瀬戸内町の人は「なせ」という人が多いような)行きバスまで時間があるので、瀬戸内町立図書館と併設されている郷土館へやってきた。
▼古仁屋の中心部から南へ歩いて20分ほど。一階に図書館。郷土館は二階。とりあえず郷土館をみてみる。
▼うん。よいなぁ、ここ。本当に、とてもよい。
▼優秀な学芸員さんの存在を感じる。こういうところに税金は注入してもらいたいものだ。
▼民具やかつての祭祀に使われた道具、瀬戸内町の民謡がボタンひとつで流れたり(元ちとせもありました)といった展示物の間に、瀬戸内町の祭りを見せるビデオがあった。
▼4つほどの祭りの映像を見られるようだが、そのうちのひとつに「西阿室のてんてん踊り」と書いてあった。
▼西阿室。昨日いった部落である。
▼その踊りは奄美大島の常識どおり豊年祭で行われるものだった。
▼西阿室部落が、ふたつにわかれ、お互いの花輪の派手さを競う。
▼その唄と踊り。両者とも前にふんどしを巻いた男性3人がその花輪飾りを持ち、そのあとに浴衣を来た、見た感じで40代以上の女性たちが左肩に盆を持ち、踊りながら土俵の周囲を回っていく。
▼そのメロディーと、花飾り。女性たちの踊り。
▼わたくしのツボだった。
▼時間があまりなかったため、2回見ただけで一階へ行き、蔵書チェック。あるある。郷土史関係充実。
▼ビデオといい、蔵書といい、このためだけにもう一度、この図書館、郷土館には来てもいいと思う。
▼そして、それ以上に、西阿室の豊年祭で、てんてんをみるためにやってくるというのも。

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加計呂麻島の西阿室

▼加計呂麻島の実久という部落へ行ったあと、いちど瀬相に戻り、再び西阿室行きの加計呂麻バスに乗る。
▼そのバスの中で老夫婦と話をする。
▼ご夫婦は大阪からUターンしたという。
▼西阿室の部落は美しい夕日で知られる。
▼実は今回、西阿室へ行く予定はなかったのだけれど、昨日、新村から乗った古仁屋行きのバスの中でいろいろ話をしてくれた男性が西阿室在住だというので、気になってきてみたという単純な理由。
▼実は、その昨日の男性は今、同じバスに乗っている。
▼二日続けて挨拶をしてしまった。
▼山を越え部落の入口に着くと、大きなガジュマルの木が目についた。あとできいたところ、かつてノロたちが集まって話しあった場所なのだそうだ。
▼その先には大きな小学校がある。
▼かつてはかなりの生徒数を数えたが、今は片手以内。存続が危ぶまれている。
▼部落には、秋葉神社と厳島神社があった。中心の広場には奄美大島のお約束である土俵がたたずむ。
▼夕方5時すぎ。まだ日が沈むにはちょっと早いけれど、瀬相行きの最終バスで、部落をあとにする。
▼とくに理由はないのだけれど、なんだか、またここへやってきそうな、そんな気がした。
西阿室

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諸鈍のビワ

▼古仁屋からフェリーに乗って到着した生間(いけんま。)そこからバスで5分。ここは諸鈍(しょどん)。
▼平家伝説が残る加計呂麻の外海側の部落。昔から日本や沖縄と交流があったとか。
▼弓なりの海岸線に植えられたデイゴ並木でも知られているが、今日はまだ花が咲くには早すぎた。
▼大屯神社(おおちょんじんじゃ)での諸鈍シバヤで全国的に有名な部落。
▼はたまた奄美の島唄好きの方の中には、中孝介のミニアルバム「諸鈍」を思い出す人もいるかもしれない。
▼その部落にある郵便局のはす向かい。近隣の畑などで取れた野菜を並べた、無人販売所があった。

▼小さなシマ(奄美でいう集落のこと)の中。買い手の善意を前提とした商売。
▼もう時計は午後になっていたので商品は少なかった。というかほとんどなくなっていたのだった
▼残りものの中にビワがあった。

▼ビワはここ数年ほとんど食べたことがない。
▼子供の頃は親戚筋の田舎である和歌山、京都、岩手などで、庭先のビワを取ってむしゃむしゃ食べていた記憶がある。世田谷の親戚のうちの庭にもビワの木があって玉電の芋虫電車に乗っていってやはりむしゃむしゃ食べていた。
▼子供の頃から、「ビワなんてものは、庭先になっているのを食べるもの」という意識が刷り込まれたと考えられるわけですよ。
▼そのため、現在の東京のスーパーなどでビワ数個で数百円といった、お値段がついていたりすると唖然としてしまう。

▼そんなわたくしの眼前に、小さいながらも十数個のビワが入った袋が、存在していたのです。
▼値段は100円。

▼子供の頃、ビワは「庭先になっているのを食べるもの」と思って、親戚の家のものを食いおわると親戚のご近所さんの家のものを勝手に取って食っていたわたくし。たぶん親戚はご近所さんに謝っていたんじゃなかろうか。ご苦労かけました。
▼一方で大人になった昨今、スーパーなどでのビワの値段を見ると「あ?、意味わからねーなー」と困惑。

▼この流れからすれば、賢明な読者の方はすでにお分りになるかと思うが、わたくし、ほとんど脳幹のみで判断し100円をいれ、頃合のよさそうなビワを手に取ったのでした。

▼諸鈍湾の三日月のような砂浜を見ながら、ビワの皮を剥き歯をたてる。心地よい歯ごたえのあとに程よい甘味とかすかな酸味が感じられる素朴な味。
▼昔、昔、食べた、祖母の家のビワに近い味でした。

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奄美大島のラーメン

▼名瀬からバスを乗りついでやってきた、宇検村の湯湾でのこと。
▼食事をしようと思ったものの、予想はしていたが、やはり、とにかく、そういったお店が視野に入ってこない。
▼辛うじて、「ラーメン」ののぼりをかかげている食堂らしきもの一軒と、確実に夜しかあいていないであろうスナックがやはり一軒。つまり二軒。
▼あとは三軒ほどの雑貨を扱うお店。
▼こちらは、まあ、こういった状況にはなれているので、何も文句はない。
▼ただおなかがすいたので、その食堂らしきお店が開くのを待つだけである。
▼そう、いまは朝10時。もちろん、まだ店は開いていなかったのだ。

▼店が開くまで、湯湾の部落をぶらぶらと歩く。
▼とりあえず村役場までいってバスの時刻表などをもらう。非常に丁寧な対応に好感を持った。役場の前庭には、かつて奄美大島の農村ならどこにでもあった、高倉があった。
▼湯湾の部落は30分ほどで歩けたので、となりの芦検の集落へも足を伸ばした。
▼芦検には小学校と中学校があるだけでなく、保育園もあるようで、ちょうど、園児たちがお散歩をする時間にかちあったのだった。
▼この芦検。落ち着いた部落だと感じた、

▼11時半を回ったので湯湾に戻り、件の食堂と思しき店に入る。メニューは、味噌ラーメン、醤油ラーメン、野菜炒め。味噌ラーメンと野菜炒めを頼む。
▼奄美大島でラーメン?。
▼みなさんがそう思うように、わたくしも連れもそう思った。
▼だが、頼むものがない。この時点では苦渋の選択であったと白状しておこう。
▼待つこと10分。料理がやってきた。野菜炒めはまずくはないが、うまいというほどでもない。とりあえずよしである。というか野菜そのものは、東京では考えられないほどおいしい。野菜に力があったことは記しておくが、とりあえず、野菜炒めという料理としてはフツウの部類かと思う。
▼しかしである。同じ野菜を使ったと見受けられる味噌ラーメン。
▼これが、なんというか、非常においしかったのだ。

▼炒めた野菜の甘味と味噌。そして隠し味的に使われているニンニク。そこにちょっと太目の麺がからみ、スープを飲むと、身体いっぱいにうまみが染み渡る。

▼<何も食べるものがなく、おなかもすいていた>という状況によるのかもしれない、と一瞬思ったが、いやどう考えてもこの味噌ラーメンはおいしいのだとしか考えられない。
▼とにかくおいしかったのだった。

▼そういえば、以前、何かの本で、「奄美大島は隠れたラーメン天国」といったような文面を見たことをおぼろげながら思い出した。
▼ここ10年ほど流行っているご当地ラーメン的に「奄美ラーメン」といった名を冠するような動きも特徴もないけれど、醤油も味噌もトンコツもラーメンがおいしいという話だった。

▼奄美大島で食べたラーメンはこの宇検村湯湾が初めてだったが、もしかしたら、その本の記述は正しいのかもしれない。
▼確かに、奄美大島のどこそこのラーメンがおいしいといった記事をネット上で見ることも珍しくない。
▼水がいいのか、ラーメンに対するつくり手の感がいいのか。なんといっても、ご当地ラーメン的な存在がないのに、<ラーメンがおいしい>と云えるあたりが、なんとも、非常に興味深い。

▼沖縄は正直、おいしいラーメンは存在しないが、奄美大島はもしかしたらラーメン天国なのかもしれないと、思ったりも。
▼というか、おそらく、そうなのではないでしょうか。

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那覇でSOUTHと握手

▼数日前沖縄テレビかなんかを見ていた。
▼ラガマフィン系のレゲエボーカルコンビが紹介されていた。
▼SOUTHという。
▼プロデューサーが北谷に移ったMOD'Sの喜屋武さんで、よなは徹も三線で参加しているとか。
▼そのときはふーんという感想でしかなかったわけです。
▼ジャメーカものだとロックステディやスカ、アーリーレゲエ、ダブが好きなわたくしとししては、買うがどうか微妙なジャンルではあるので。

SOUTH

▼しかし、ちょーぬ、東京からの知人と那覇でCD屋に入ったら思い出したようにそのデビュー作が出ていたので手を延ばしたのでした。
▼1500円という値段付けも知ってほしいという熱意が感じられて悪くは無いし。
▼他の2枚のCDとともにカウンターへ持っていく。
▼そして精算の途中。
▼そのSOUTHの二人組がマネージャーらしき女性とともに現れたのでした。
▼まあ、こういう状況は中部以北の沖縄なら珍しくもないけれど、小東京化した地方都市である那覇では珍しいかもしれない。
▼カウンターの店員は「話してきましょうか?」と言うのだが、こっちは、「とくにいいんじゃない?」と。
▼それでも店員が話をしたかったのか、わたくしが新譜を買ったことを話しに行く。
▼するとSOUTHのふたりが「ありがとうございます」と握手を求めてくる。
▼「喜屋武さんによろしく。がんばってね」と声をかける。
▼というようなことをしているうちにポイントサービスのポイントをつけるのを忘れてしまった(笑)

▼で、肝心の内容は、悪くない。
▼日本において普通の音楽となったレゲエやラップ。そこに沖縄のアイデンティティ(ちょっと恥ずかしいコトバだね(笑))を組み込むという試み。
▼素直であるというところがとにかくいまは一番かもしれない。

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牛小屋で名護良一氏にあう

▼昨日に続いて、夕方、知人の牛小屋へ足を伸ばした。
▼いろいろと話をしていると、50歳ぐらいの兄さんがやってきた。
▼牛主の知人とデビュー前の2頭の闘牛をみて話をしている。
▼ふたりは具志川のコトバなのでこっちはだいたい分かるといった程度。
▼その兄さんの顔、どっかでてみたことあるなあと思っていた。

▼ちょとして気がついた。ああ、そうか名護良一さんだ。
▼照屋寛徳の弟子で玄人筋からは非常に評価が高い唄者。
▼CDも数枚でている。
▼テープならわたくしももっている。

▼いろいろ話したあと、良一氏がわたしくしにむかって、2頭いるうちの1頭を指さして「この牛は3番以内にははいるよ」と断言する。
▼三番以内というのは大きな闘牛大会で三役戦(C3番戦以上)に出る器だということ。
▼知人もほしくてしょうがなくて購入した牛らしくて満足気な顔をしている。

▼良一氏が帰ってから、知人に聞く。
▼「名護良一さんだよねえ?」
▼「そう、おれの従兄弟さ」
▼「え??」
▼眼が点になるというのは文字通りこういう状態なのかもしれない。
▼というか、宇堅出身で名護姓で「良」の名乗頭(なのりがしら)がある点で気づいてないわたくしがマヌケではあった。
▼いとことまではいかなくても親戚だろうと想像はついたはず。
▼うかつだった、数年間。

▼沖縄というより、中北部の人間関係は、こんなかんじだと思う。

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耳切坊主(みみちりぼうず)のサラバンジ

ムーンライダーズはいつもそばにいた。70年代以前の各国のポピュラーミュージックはいまでも追いかけてしまう。ウチナーや奄美の民謡はあたりまえに好き。パブロックは青春。その前は、アメリカのシンガーソングライターにどっぷりはまっていた。パンク&ニューウェイブの波は80年前後数年できちんと被った。といったことをいっているわたくし。

とりあえずウチナー発若い方むけの選択肢のひとつとしてのモンゴル800はよいなあと思う。いやモンゴル800がすでに日本列島の若い方の支持を受けているのかというと疑問がないわけではないが、そういうことにしておいてほしい。

ということで、オレンジレンジに興味のかけらもなく(モッズの喜屋武さんごめんね)、D51も遠い世界の音だと思っていたわたくしの耳に常に届いていたのだけれどアルバムを買うまでにいたらなかったのが、「耳切坊主」(みみちりぼうず)。

若い音には「いなたさ」がなければならないと思っているわたくしからすると当然合格なのだけれど、その先の音楽に対する観想がわたくしが是とする音の右斜め65度くらいをいったりきたりしていた。

なもので、常にアルバムは手にとるのだけれど、買うまでにいたらずということを繰り返してきたここ数年。みなさまいかがお過ごしですか?

sarabanji

そんなわたくしが、ついにこのアルバムは買ってしまった。<サラバンジ>。

まずジャケットがかな~り好みだった。その日買うアルバムが見当たらなかった。というわけで、久茂地リウボウ7階の普久原楽器の新婦もとい新譜コーナーーのヘッドフォンを1時間に渡って占拠して聞いてしまったのはわたくしです。

その結果、後日、コザの普久原楽器で購入したのでありました。めでたしめでたし。

このアルバム、わたくしには、本当に、ちょっと賢いいまのウチナーの子のすなおな心情が歌詞や音から感じられて非常によい。

今の沖縄の若い子はたぶん現在日本一の演奏力があるのでこのあたりの音は安心して聴けるということもあるのだけれど、それ以外に、やはり、こういった音は、2006年の沖縄なのだ、と感じられるところが、わたくし的に二重丸なのだ。

泡瀬でゴルフしたあとにハンバーガー食べながら聴くといいのかもしれないと思った。それも沖縄だ。そしてそれ以降はそのアメリカ的風景への憧憬と疑問と沖縄という島への心がゆっくりともたげてくる。

アメリカ的な消費文化の沖縄も真実の沖縄だ。だけど、その板一枚壁の向こうには、芸能の島であり続けてきた沖縄が顔をのぞかせてくる。そんな中に耳切坊主はいるんじゃないかと、思ったりしているのです。

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奄美のグスク遺構

▼これは「奄美諸島史の憂鬱 琉球弧の歴史情報blog」へのトラックバックです。
▼「奄美 グスク」で検索を行ったところ、なんとも素晴らしいBlogにぶつかってしまい一挙に熟読させていただきました。
▼わたくしは沖縄本島と八重山のグスク遺構を訪ねているのですが、与論から奄美大島にかけてのこのような遺構群も、一度、みてみたいと思い、今年4月に奄美大島と徳之島のグスク詣でを行おうといろいろと調べはじめたところでした。
▼しかし、以前名嘉正八郎氏の書籍などで見られる程度でその数があまりに少なく「見るのは一日で終わってしまう」とがっかりしていたのです。
▼しかし、高梨さんの一連の論文やお話を読んで巷間語られている以外のグスク遺構と呼べるものがあるのかもしれないと思うと、非常に楽しみになってきました。
▼わたくしは沖縄本島を中心に、世界遺産クラスから地元でもほぼ忘れ去られた単なる森といった風情のグスクまで、大小200近くを巡ってきて、やはり仲松氏の見解は非常に示唆に富んでいると感じるものがありました。
▼著名な今帰仁グスクにしても、南部の糸数グスクにしてもグスク門前町or城下町としての中世部落跡と思われる周辺地域が遡上にあまりのぼらない不思議。「集落空間におけるグスクの在り方」ということでしょうか。
▼マキョ、マキヨといった古代部落や沖縄の部落における古島(かつての集落跡)の存在。部落聖地。古代墓地跡。本州などでいう鎮守の杜的?。
▼現在沖縄のグスクと呼ばれる遺構は按司の居城といった巷間語られるものだけではなく、歴史的に、それぞれさまざまな機能を備えた、かつそれらがあるときは重層的に重なっている遺構であった可能性が高いのではないかと愚考したりしております。
▼そういった側面から奄美のグスクを見るとどうなるのだろうか?そんなことをとりあえず今はぼんやりと思っている次第です。
▼また、北部に多い石垣遺構が見られないグスクというのも、北部の方が奄美に近いので、そういうものかもしれないとおもったりも(これはおそらく沖縄本島中南部と北部の地勢の違いから来ているのかもしれないと思ったりしてはおりますが)。
▼本島北部と奄美大島の雰囲気は少なくとも本島中南部と本島北部よりも似ていると感じています。
▼そういえば、加計呂麻島の「徳浜スフィンクス」と呼ばれている岬も、わたくし的にいうとグスク遺構(聖地、集団記憶地)?。初めて写真を見たとき、伊是名グスクや、飛鳥の香具山に思いをはせたりも。ただいいかげんな感想ですけれど。
▼本土では多くの寺や神社が貝塚跡や古墳跡、古代の岬突端に構築されていることも多いようですが、これはグスク的というか、グスク的遺構が社寺仏閣的?どちらも、どこか霊的な、またはHollyな観念を集団い想起させるという点が共通しているようにも・・・。と、ぼんやりとしたものを感じたり。
▼おっしゃるようにこれからひとつひとつ実証していくべきことかと思いますが。

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単なる覚書

▼沖縄の聖地、グスクは縄文冬至線、夏至線にのっているのか。
▼はたまた三輪線にのっているか。
▼30里交差点はあるか?
▼ミルク信仰はミトラと関連はあるか。その伝播は?

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名護郊外を散歩

屋部の福木並木を散歩していたら、下校時間、屋部小の女の子三人に挨拶をされた。
▼「こんにちわ~」
▼東京、いや那覇、はたまた名護市街でそんな挨拶をする子はほとんどいないけれど、小さな部落ではまだまだ挨拶が日常の風景に残る。
▼よい習慣かと思う。
▼もちろん、本土の都会で、知らない人に会ったら手を伸ばした二倍の距離を常にとるようにと教えていることもしっている。
▼それはすでに本土では必要なことなのだ。そういう国になった。
▼それでも沖縄北部の部落ではまだ異人を異人として迎える島国の習慣が残っているように思う。

屋部川沿いに出ると宇茂佐側のこんもりした杜の下に公園が。
▼その向こうは古島原(通称プルジマ)。屋部、宇茂佐部落の発祥地。単なる荒地だった。
▼今は区画整備がされて住宅地になっている。
▼ご先祖様が住んでいた土地にまた人が住むことになるわけだ。
▼そんなことを考えると、そのこんもりした杜が、いわゆる古代貝塚跡や中世のグスク跡や聖地のように見えてくる。
▼というか、たぶんそうだったのではないか?
▼川沿いに歩いていって、いかにもな場所がいくつもあったのだが。

▼屋部(やぶ)といえばプーミチャー。

屋部の部落に戻ると飼い犬たちに吼えられる。
▼一匹は「遊ぼう、遊ぼう、遊ぼう。退屈だったんだよ。遊ぼう。遊ぼう」
▼興奮している。
▼一匹は屋根の上に上って「おろしてくれよ、おろしてくれよ」
▼喚いている。たぶん脱走するので倉庫の屋根にあげられてしまったのだろう。
▼国道を渡って海側へ歩いていく。
▼すると一軒の家の中で「散歩?。散歩?。散歩行こう、散歩行こう、散歩行こう」
▼とはしゃいでいる犬が一匹。
▼もちろん人のうちの犬なので散歩に連れては行けない。
▼海岸に出てしばらくぼんやりしていると、「散歩につれてけ」と言っていた犬が飼い主に連れられてやってきた。
▼わたくしに近づいてきて犬いわく
▼「けち」
▼そう言って、飼い主と歩いていってしまった。

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<うるくそば>を食べてみる

▼昼から予定が入っていたのでちょっと早いが軽く食事を済ませようと思っていた。
▼近くを通りかかったこともあったのだが、いままで入ったことがなかった、「うるくそば」に入る。
▼ここは、かなり独特の沖縄そばを出す店として知られているのだけれど、これまで一度も入ったことがなかった。良い機会かと。
▼店の前には20台弱の車が止められる駐車スペースが。店内もかなり広い。
▼開店したばかりのようで、客は誰もいない。
▼店名にもなっている「うるくそば」を注文。なんでもこの「うるくそば」は、しいたけと豚肉の細切りが入っている沖縄そば。確かに独特である。ちなみに「うるく」はこのあたりの字名である「小禄」のうちなー読みだ。
▼ちょうどランチタイムなので、サービスでじゅうしいか白ご飯どちらかを選べるというので、じゅうしいを所望。
▼数分でじゅうしいとうるくそばがやってくる。
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▼見た目スープの色がかなり濃い。しいたけと細切り豚肉、そして、脂が浮かんでいる。
▼香りはいい。
▼一口すすってみる。ん?。これは…、いわゆる沖縄そばの範疇に入るのか?確かに麺は沖縄そばだが、スープと具は沖縄そばの王道違反ではないか?
▼いや、間違いなく王道違反なのだが…、しかしながら、うまい。かなりこってりとした舌触り。豚の背脂などを散らしたこってりしたラーメンなどそっぽを向くわたしくしが納得するこってり加減だ。
▼この汁がまたじゅうしいにあう。おそらく白いご飯にもあうはずだ。いいかんじである。
▼しかしながら、食べ進めるうち、ちょっとしつこいと感じ始めたわたくしである。あきっぽいというのもある。
▼そこで様子をみながらコーレーグース、紅しょうが、一味などを、そばにあわせていく。
▼結論。コーレーグースと紅しょうがが非常によくあう。さっぱりしておいしくいだけるのだ。
▼食べ進めるうちに全身に汗が噴き出てくる。おいしい証拠。
▼汗だくになって完食。
▼噂に聞いていた「うるくそば」。
▼はっきりいえば沖縄そばとしては邪道だと思う。しかし、これはこれで悪くはない。
▼沖縄そばの超王道をいく「あじゃず」とは、対極に位置する沖縄そば屋といっていいのかもしれない。


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沖縄とはなんだろうか

▼薩摩時代、沖縄は薩摩に搾取されていたわけではあるが、同時に、その時代の首里から搾取されたていた宮古や八重山を忘れるのも、その時代、その時代でのご都合というものかとも思う。
▼薩摩を支配していた島津氏がもともとは大陸からやってきた人々であるという話はここでは置いておく。しかし、中国との朝貢貿易を行うために清に対しては沖縄を日本的に見せ、幕府には沖縄の小中華的部分を強調させるという巧妙な手段をとっていた。このあたり、薩摩には大陸および列島文化に精通していた人間がいたという事実は指摘できるのではないか。
▼さて、話を沖縄に戻すと、薩摩以前の沖縄本島の政権は奄美を属国化していたわけである。南走平家論的立場にたてば、かつての故地(奄美、喜界、徳之島など)を今一度奪還したのだという考え方もできるようではある。
▼宮古、八重山には考古学的にみて縄文的、弥生的本土文化は届かなかったようだ。実際、南方系文化の影響が強いように感じられる。とくに祭りなど。これは本当にポリネシアな流れを感じるものだ
▼本島でも北部やんばる(以後、山原)にはこの手の南方的なものが見受けられることも知っておいていいが、それをいったら日本で行われる大相撲というものにも南方的要素が見受けられるではないだろうか?。閑話休題
▼そんな中で、石垣に残る、フルストバル遺跡などをどうとらえるのか。
▼有史以前ということになれば、与那国や北谷沖の海底遺跡などという話も出てくるけれど、今のところ、このあたりの話については個人的に知識を得るだけにしておきたい。
▼現代のポピュラーミュージックはセンスと引用。そして経済でできあがっている。この視点にたつとオレンジレンジは完璧なポピュラーミュージックのカテゴリーに入るかと思う。しかし、これは、歴史的にみて沖縄において特異なことではない。意外だろうか?
▼いわゆる沖縄民謡。その中に、メロディラインや歌詞の多くを奄美、宮古、八重山、山原の民謡や古謡からの引用で形成された歌が少なくないという事実。登川誠仁御大は若かりしころ八重山へ民謡修行の旅に行っていたという話もある。八重山の歌を覚えるためである。
▼沖縄本島での民謡のいくつかは確実にポピュラーミュージックのカテゴリーに入れてかまわないはずだ。
▼よなは徹が昨年『うちなーわらべうた』というアルバムをプロデュースした。沖縄で歌い継がれてきた「古謡」や「わらべ歌」を集め、キャンパスがらみの歌姫三人が歌ったアルバム。これはよい。おすすめ。
▼それはよいとして、こういった、「うた」がいわゆる沖縄民謡のルーツのひとつであるという点も見逃せない。
▼沖縄民謡と呼ばれるカテゴリーには、八重山、宮古、奄美、山原地域からの引用。わらべうた、古謡、古典をもとにしたもの。そして、みーうた(新歌)。このみっつが現在の沖縄民謡の主な形成要素なのだ。
▼いま、メディア語られている、ウチナンチューが語る沖縄は本当の沖縄なのだろうか?

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沖縄はひとつ?

▼ここ数年恒例になってきた沖縄での新成人の大騒ぎのニュースを見ていて思うのだ。僕の知っている沖縄っぽくない行為だなあ、と。
▼もっとも、この手の子達は、那覇、浦添、南部地域では目にすることが珍しくないので、不思議ではないのだけれど、残念ながら(?)中北部でこういった暴れまわる子供たちをみることは稀なのだ。
▼これは「北谷までは行くけれど、那覇なんてここ10年行ったことがない」という人が中部地区に実際いるという現実を思い出せば不思議ではないかと思う。沖縄、沖縄とひとっからげにしても何も分からない。
▼おおまかに「南部」「那覇、浦添」「中部」「名護」「北部」と本島だけでも、5つぐらいの生活文化圏があり、それぞれに特徴があるといっていいのではないか。これに離島を入れれば、沖縄県には10前後の生活文化圏が存在するということになる。
▼考えてみれば、本土の首都圏であっても、足立区と目黒区の生活文化や価値観はまったく異なるし、大阪でも千里と長居では大きな生活文化の差異が見受けられる。それがあたりまえのことなのだ。
▼これは経済力だったり歴史であったり民族だったり宗教だったりさまざまな理由によるものだ。もしかしたら土地の記憶、積み重ねられてきた集合的無意識が醸し出す差異も原因のひとつなのかもしれない。
▼なので、那覇、浦添、南部あたりの出身中学同窓生が成人式後に集まって騒ぐというのは、独自の生活文化を維持している地域の独自の文化と考えていいのではないだろうか。。
▼ひとついえば、この騒ぎ方は21世紀になってからはじまったもので、それ以前は皆無であったという点は心にとどめておきたい。そして、この21世紀からというのは沖縄移住ブームが顕在かしてからであったりするのもなにやらポイントのような気がしないでもない。
▼昨年だったかちょうど成人式の時に那覇、コザあたりをふらふらしていたのだが、国道を爆走するトラックの上で新成人が拡声器を使って大声をだしていた。いわく「みーやうち、みーやうち」。おそらく新成人の一人を祝っていたのだろうが、この苗字、沖縄のものではない。あったとしてもかなり珍しい苗字である。
▼沖縄戦で30万人近くが亡くなっている。その多くの方が南部で犠牲になった方たちだ。では、なぜ南部が激戦地になったかといえば日本軍が大々的に展開していたからである。
▼そして日本軍が展開しているところには、軍役についていた旧日本人としての大陸出身者が大量に存在していた。とくに航空基地や港の周辺。これは戦前の日本いおいてはごくごくあたりまえの事実。おそらく、戦前、戦中の沖縄の航空基地なら、小禄、読谷、桃原、伊江島。港なら中城湾と那覇港。このあたりには多くの軍役の一般人がいたのは間違いがないところである。
▼彼らの中には職を求め、軍役のために海峡を渡ってきた人たちがかなりいた。そんな彼らが戦後GHQの政策で沖縄から大陸に帰ったかというと、これがなんとも、まったく資料が見つからない不思議。彼らはどこへ消えたんだろうか?。もちろん、戦前は日本人であるので、日本人として、つまり沖縄県民として生きることも可能だったのではあるが。
▼そういえば、今にも続く社大党などの沖縄独自の政党というのも、なかなか興味深い。
▼歴史書や伝説、神話、考古学、グスクなどから鑑みるに、沖縄には日本本土から武力を持った集団がやってきていたと考えるのが自然である。舜天は源氏系という伝説がある。あるところでは、南走平家の一門がやってきたという意見もある。
▼事実はわからないが、本土からなんらかの生活文化様式と武力をもった集団が11世紀から12世紀にかけて大量に沖縄にやってきたことを否定する事実もない。
▼未だに、沖縄南部を中心とした島尻郡に、伊是名と伊平屋が属しているのは、第一、第二尚氏の両系統の出身だからだろうが、なぜ北の島が…。確かに本土には近いが。
▼それをいったら、南部に島尻がある。頭は北。国頭(くにがみ)。
▼I氏の一族は沖縄の石油王一族で本部半島の出身らしいが、氏は、子供ころヤマトゥーと呼ばれていたという話もある。
▼門中関係の本を見ていても、本土に出自を遡れる家がいくつも散見するのが沖縄である。たとえば、著名政治家一族のO氏の出自は鹿児島らしい。不思議と沖縄の政財界でそれなりの地位を得ている人間は明治維新前に沖縄に土着していた本土出身が少なくないのも面白い。
▼いろいろな過去の事実を積み上げていくと、常に本土から人を受け入れつづけてきたことで、沖縄は地域ごとに、独自の文化を創造していくことになったように考えるのが自然ではないか。もちろん中国などの影響もないわけではないが、それは表層的なもののように思える。
▼「沖縄」はひとつではない。地域文化でもイデオロギーでも人類学的にも、さまざまな出自とさまざまな考え方の人間がこの小さな島の中に生きてきた。そして独自の地域文化を作り続けてきた。そしてそれは今も続いている。
▼海はつながっているのだから、いろいろな人が集まってきた歴史があったしても、なんの不思議もない。一方で、海は世界を遮断することもできる。つまり「シマ」は固有の独自文化を育てる揺籃となりえる。

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出してはいない津嘉山酒造への手紙

「たまたま9月に買った時からスコブる気になっている、名護の合資会社「津嘉山酒造」様。

昔から貴社の泡盛ブランドである【國華】を愛飲させていただいてきたのですが、今年の9月に購入したときのことです。

今までの、ラベルとは異なった、オレンジと青が目立つラベルに変更されたような?。しかも、どうみても、このラベル、インクジェエットプリンターで印刷されていませんでしょうか?

巷間、貴社における現在の仕込みは週に二日ほど、と小生の耳に入っております。

もしかしたら、経費削減といった意図からインクジェットプリンターのラベルに変更なされたのでしょうか?。個人的には、以前の白地に黒い文字で【國華】という文字が印刷されたラベルが好みではあるのですが。」

というようなお便りでもしたためたいような状況が、2ヶ月前の9月に起こっていたのですが、雑事にかまかけ、すっかり失念。なもので、今、ご報告。

それでも、このインクジェットプリンター印刷のラベル(もう決つけてしまいました)。以前の方が好みとは書きましたが、嫌いではございません。それもこれも【國華】という泡盛が、非常に好ましい泡盛以外の何物でもない事実が寄与しています。

ちなみに【國華】を作る津嘉山酒造さんは、名護の市街地のど真ん中(東京でいったら、そう、四谷みたいなとこでしょうか。大阪だと四天王寺あたりみたいな)に居を構え、先に記しましたように「週に二回(たぶん)」泡盛を作りつづけておられるようです。そのお屋敷も、文化財指定されているようで、なんというか、はるかけき名護市街の歴史を担っておられるような、そんな愚考を。

名護に銘酒は多いのですが(といっても、名護の酒といえばあとは、丘を越えた北側の旧羽地村。つまりかつては名護ではなかったが現在は名護市内ではある場所で作られる【羽地内海】ぐらいですけど(笑)。ちなみにビールのオリオンも名護市街のはずれ、です)、市街地であっても、これだけの酒が作られているという事実。その事実を体現している津嘉山酒造所の泡盛のラベルがインクジェットプリンターとなっている事実。

事実は小説より奇なり、などと、ステレオタイプの発言をしてしまいそうな。そんな秋の終わり、冬のはじまり。悲しい季節ですね。君、寒さに死にたもふことなかれ。

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泡盛の炭酸割り

最近はまってたのが、泡盛の炭酸割り。

普通10月の声を聞くと、いくらなんでも沖縄でも、そろそろビールのがぶ飲みも終わりにしたくなってくる。夏場に飲みすぎるし。しかし、今年はとくに10月に入っても、なんじゃそりゃ?といった暑さが続いていたわけで、まだ炭酸なお酒がほしい昨今。

ということでビールを続けて飲むという選択肢もあるわけだが、オレはもともとビールをがぶがぶのむが好きではない。好きではないけれど、沖縄だから飲むということになっているわけです。しかし、それでもいささかもう飽きたというか。そういうことだったりしています。

なもので、そういう時には、泡盛の炭酸割り。高い古酒はあいません。泡盛臭い「白百合」などは好みですが独特の香りが余計に立つのでどうだろうか。とにかく万人受けする「美しき古里」、「やいま」、「残波」の白といったあたりのスムーズな泡盛がいいのではないか。そういうことでいえば首里周辺の酒や「菊の露」もありか。

とにかく、現在、女の子も好んで飲むような泡盛がいいんじゃないだろうか、ということです。

こういった泡盛を氷の入ったグラスに適宜いれ、炭酸水で割る。できればシークゥワーサを絞ると満点。かき混ぜてガバガバっと飲む、と。

ミラノあたり、夕方になるとあっちこっちのバールで作られるカンパリソーダとか、夏の南仏の定番、安い地元産赤ワインの炭酸割と同じようなノリでオレはいただいています。

これ、チーズが結構あいます。マジで。

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泡盛『五枝の松』

久しぶりに入った酒屋で15分ほど見学。

あいかわらず結構珍しいものも置いていた。奥まった一角には数十年前の泡波や今は亡き銘柄のボトルなどが鍵つきの棚に並ぶ。なかなか壮観な図。

車じゃなかったこともあって4合ビンあたりをひとつ。選んだのは、『五枝の松』。

久米島にふたつある酒造所のうち、小さい方の酒造所である米島酒造産。ここのメインブランドは『久米島』といい、ほとんど久米島内で消費されていて本島ではあまりお目にかからない。以前聞いた話だと最初は『米島』という名前の泡盛を作っていたらしい。それが『久米島』になったということのようだ。

この『久米島』のラベルにも沖縄好きならあたりまえに知っているだろう久米島の観光地である「五枝の松」が描かれるが、その名所を名称にした泡盛『五枝の松』。久しぶりに買ったような気がする。

ちなみに久米島の大きいほうの酒造所はもちろん「久米島の久米仙」。もっとも、那覇市仲間のモンゴル泡盛なんぞも作っている「久米仙」も、もともとは久米島なので、ちょっとややこしい。

とにかく、現存する久米島の酒造所のうちで一般に知られていない方の酒造所の泡盛を購入したということ。

さて、実のところ、まだこの泡盛。飲んでいない。

というのも、よくよく思い出したら、この米島酒造で作られている泡盛は現在、『久米島』と『美ら蛍』。オレも記憶していた『五枝の松』は過去の代物か?。

そうなると素性と現在の状況を考えてから封をあけるという、なんというか、もったいぶった、希少価値かもしれないからどうしよう?といったケチくさい考えが脳裏に浮かんでしまうのは、やはりオレも十分に大人になってしまったのだなあ、と苦笑い。

というわけで、泡盛『五枝の松』はグリーンの角型ボトルの肢体で、いま、オレのキーボードの左斜め奥20cmぐらいのところに鎮座しているのでありました。

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沖縄本島南部一部縦断

2週間ぶりに那覇で一泊したので、午前中に用事を済ませ、昼前にバスで百名方面へ向かう。途中、糸数入口で下車。オレはどこへいくのだろうか。とりあえず、いけるところまでいく。今日はそう決めていたので。

まずは坂道を登って糸数城跡へ。近隣の小高い尾根の突端に作られたグスクで、その敷地はかなり広い。石積みの城壁も以前に比べるとかなり復元され、じっくり見ると30分以上はかかるのではないかと。残っている城壁跡はなんとなくだが、石垣のフルスト原遺跡のようだし、雰囲気は浦添城跡のそれか。

驚いたことに、ここ糸数グスクは本島南部でもかなり東側にあるのだけれど、ここからは那覇、首里方面だけでなく、その西方に浮かぶ慶良間の島影が確認できたのだ。晴れた日ならもっとはっきりと見えるのではないだろうか。

しかしこんなところにバスと徒歩で来るやつはそんなに多くはない。実際、ウガミにきていた家族と昼時にお弁当を食べにきたニイニイも、あたりまえだが車でやってきている。さて、どうするか。思ったより今日は体調が良い。そこで、今朝、考えていたことを実行に移すことにした。

それは、ここから、普通は車で走るグスクロードとかいう舗装道を歩いて、玉城城跡、ミントングスク、垣花城跡をたどっていくグスクめぐりの徒歩旅行。直線距離でほぼ5kmほどか。そうと決まったら、夜の6時には那覇にいなくてはならなかったので、とっとと行動に移す。

糸数城から東に出ると丘陵地帯の荒地にでる。オレのこのブログをきちんと読んでくれている人ならピンとくるかと思うけど、そう、この荒地、どう見ても、古の集落跡に違いない。遠目に石垣跡が見て取れるのだ。本土的にいえば、「糸数城の城下町」といったあたりになるのだろうか?もしかしたら、「門前町」かもしれないが。

歩くこと20分。グスクロード公園という名前がついた地方交付金を拝領して作ったのであるなら地方活性化に寄与したであろう公園にたどり着く。正直、地方交付金による活性化など、個人的に興味がないので、この公園そのものに興味をもてなかったわけだけれど、ただひとつ玉城村中学校発祥地という看板には興味が引かれた。おお、そういうことか。確かに、一周200m強ぐらいのトラック跡も残っている。学校かあ。

この公園から10分。玉城城跡につく。中腹の井戸のあたりで数人の人がお参りをしている。邪魔しないように山頂を目指す。山頂部の自然石をくりぬいたと思われる入り口がポイントのひとつ。アメ公が記念撮影している写真などを書籍などで目にすることがある。なんでも下方の郭の石はアメ公が土木作業用に持ち去ったとのこと。

文化と歴史がないアメリカのことなのでどこまで本気がわからないが、正直いえばやつらのほとんどは脳が足りない。アメリカ人がくだらないことを、しでかしたという点についてはご先祖さまから代々の日本人であるなら納得してもらえるだろう。

玉城城跡から坂を下っていき邸宅が立ち並ぶあたりを越えるとバス通りに到着。左に曲がって坂をあがり、右手の丘を時計回りに回りこむと垣花城跡の登り口。

判っている方なら、バス通りを右折してすぐのミントングスクを先に見た方が効率がいいのでは?と思うかもしれない。もちろん先に見ようと一度坂を下った。しかしミントングスクはご存知のように個人の屋敷の敷地内。そのため、ウガミさせてもらうために家の方に声をかけたのだが留守のようで返事がない。ぱっと入ってしまうことも可能だが、それでは不法侵入になってしまう。そのため、ミントングスクは後でもう一度来ることにして、垣花城跡を先にしたという按配。

垣花城跡の頂上付近の広場はかなり大きなものだった。以前行った具志川(うるま市)の兼箇段グスクのような雰囲気もある。しかしこちらは石垣も若干残っている。草木の間からエメラルドグリーンの海と青い空が顔をのぞかせている。木漏れ陽が葉っぱに揺れながら地面に降り注ぐ。静かな午後。

同じ道を下ってきて車道に出ると、垣花樋川(かきはなうふがー)が近いという看板が目に付いた。なんでも日本の名水百選に選ばれたらしい。とりあえず水場は好きなので行ってみる。車道から急な石畳の坂道を下り数分。そこには、絵に描いたような風景が待っていた。流れる水、小さな池、木陰を作る木、下界に広がる街と翠海。視界の半分は白雲をところどころに塗りつけた紺碧の空。池のほとりの木陰のベンチにはカップルがはだしになって休息中。

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幸せの図を眺めてから再び降りてきた坂を登る。すぐにミントングスクへ向かうつもりだったが、ちょっと思うところがあり右折して知念町方面へ。目的は達することはできなかったが、段丘の上に長年に渡って育まれてきた人の営みを感じることもできた。

しかしこの一帯は沖縄戦の激戦地でもあったのだという事実も一方にはある。確かにグスクロードの道すがらあちこちに死の匂いを感じた。のしかかってくるような匂い。

来た道を再び戻ってミントングスクへ。沖縄発祥の地と伝えられるグスク遺構だ。しかしやはり家人はお留守。また近いうちに再訪することを決める。

なんといっても太平洋に向かう急な斜面に作られたこの仲村渠(なかんだかり)地区の集落には旧家が多く、琉球各地に子孫が繁栄したといういい伝えもある。またミントングスクは東御廻いのウガミの地。また、この仲村渠には仲村渠樋川があり、津堅島の石工が作ったという立派な建造物があったり。

つまりこの仲村渠集落は沖縄の歴史、精神、呪術、祭礼において重要な土地のひとつといっていいと思われる。

といったところで時間をみたら4時近い。6時には那覇にいるということは、この時間の那覇での渋滞を考えるとそろそろ出てもいいころである。混んでいなければ車で30~40分の距離なのだけれど。

ということで10分ほど待ってやってきたバスに乗って那覇へ向かう。バスの中には学校帰りの小学生の嬌声であふれていた。

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那覇郊外

今日は那覇泊。午前中に用事を済ませてから、午後は天久へ。

天久といっても、返還されて現在沖縄一の不動産バブル地帯となっている場所ではなくそれ以前から天久として名がとおっているあたりへ。琉球新報社の社屋があるあたり、旧東急ホテルあたりといえばわかるだろうか?。そのあたりを散策。

基本的は、天久グスクの探訪だったのだが、結局場所がわからず失敗。夜、ねぐらに戻って考えるに、やはり、旧東急ホテルの南側だったのかなあ、と反省。それなら首里ではない守礼門をくぐって左に折れて坂を登っておけば、と。ということで、近日中にリベンヂする。

それでも、坂を下ったところにあった天久のウタキや、いわゆる家紋と苗字の家があったりして、いろいろと妄想を膨らませることができた一日であった。

夕食は「那覇に残された最後の巨食系食堂」といわれる『三笠』でなぜかレバニラ(苦笑)。

レバニラを食いながら、「なんだか最近は沖縄ではほとんど、ウガミ(拝み)ばかりしているような気がする」などと疑問を感じたのだけれど、これは当分の間、続くような。そんな気がしている。オレたち日本人はどこからきたのか?。そしてこれかどこへ行くのか?。

人類学的、歴史学的、民族学、民俗学的専門性はもとより、興味のあることを自由に楽しめるそんな生徒を生産するべきなのか、と。とにかく、教育の基礎は詰め込みである。そんな詰め込みにあぶれたとしても、徹底的といったレベルまで自らを消費できれば世界が変わってくる。これは間違いないのです。

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伊江島一周

10年ぶりに伊江島へ向かう。伊江島といえば、海軍の島で(叔父や祖父からいろいろ話を聞いた)、沖縄戦時は激戦地のひとつだった。現在でもアメリカ海兵隊の訓練地が残っていて、その訓練地にあるものを含めると滑走路が三つもある、そんな島。

有名な観光地はなんといっても、島の真中に、興奮時の乳首のようにそそり立つタッチュー。久しぶりに上ってみるか。そんなことを考えながら、大西のバス停から、渡久地周りのバスに乗って、本部港まで向かう。乗ってみると、ずっと運転手さんが何を思ったのかしらないが、俺に話し掛けてくる。いやはや。まあ、別にこういった状態は嫌いではないので、お付き合い。

船は9時発で、バスは本部港に8時45分着。即座に下りて往復券を買いフェリーに乗り込む。休日とあって車は満車。小学生の団体を含め船内の椅子は満席。船は瀬底島大橋の下を通り、イノーの間をぬけ、伊江島へと向かう。今日は天気もよいし、絵に描いたような「観光びより」ということになるのは間違いない。

そういうことで、16時の本部行き最終便まで、伊江島を一周。東西南北、すべての端っこまで自転車を借りて走りぬく。

島の西側では牛の匂いにつられ北海道のような風景に出会い、北側では、名所の断崖そばの食堂でそばを食い、東側では金を払うのがバカらしくてビーチを訪れずその代わり近くの浜で地元のガキに「おじさん、しまんちゅうでしょ」とダメだしを喰らい、きっちりとタッチューにも久々に上り360度のパノラマを楽しんだというか、なんというかそんな一日でありました。

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コザから名護そして羽地

名護へ。

お昼は時間があったので、久しぶりに八重食堂でソーキそばをいただく。八重おばあが怪我して入院したということで、会えなかった。どうやら息子のお嫁さんが店を仕切っている模様。

しかし、ん?。いや、まずいわけではないのだが、麺がちょっとやわらかすぎまいか?。なんというか先に茹でておいておいたような麺。歯ごたえがイヤだ。そして肝心のやかんに入った汁。ん?。まずくはないのだが、脂がちょっと、いや、はっきりいえば、かなりういていまいか?。すすってみると、ん?あのかつてのあっさりした濃くがなくなったわけではないのだが、脂がその微妙な味わいを消しているように感じる。

うーん。入院しているおばあには悪いけど、正直言わせてもらうと、味が落ちたよ。この味なら新山か宮里を選ぶ俺である。

そんな八重食堂を後にして、羽地方面へ。羽地グスク、仲尾次グスクなどを回る。

何度も走り抜けることだけはした地域を改めて歩いたわけだが、目からうろこの発見がたくさん。羽地グスクから仲尾次グスクと田井等の集落あたりにかけては、間違いなく古島(古代部落跡)だ。

おそらくこの一体にはかなり有力な豪族が治めていた部落が点在していたことは間違いない。実際、史書によればこの羽地の領主が今帰仁グスクを攻略し第一次北山王国を壊滅させ、第一次北山王国の一族をおいやったという話がある。逃走した一族は伊波グスクや山田グスクを作り、伊波グスクの後継は安慶名グスクを治めたり、山田グスクの領主の子孫からは護佐丸が排出している。

後の、琉球の歴史に大きな影響を与えた一派が、羽地内海に臨むこの地にいたということが実感できる。そんな地域だ。おそらく羽地の海に北からやってくる大和の船と交易を行ったり、白旗(もしかしたらこの羽地の一派は南走平家の一族だったのかもしれない)を見て戦闘体制を整えたりしていたのかもしれない。

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とりあえず泡瀬でさかな

本当はチキン(津堅島)へいくはずだったのですが、なぜかコザ的に寝坊。午後お腹がすいて外へ出ようと思ったら土砂降り。うむ。チキンへ行くなという天の配剤。

しかしやることがないがお腹はすいたということで、泡瀬漁港まで行って魚を食すことに。31番のバスにのり、泡瀬三区下車。そこから海方面に歩いて行き、大きな道を何本か超えてたどり着いた漁港。ここに漁協が経営する海産物売り場とお食事処がある。

昼食時間をはずしたので、テーブル席があいていた。ラッキーである。魚汁定食を注文。数分でできあがり、がっつく。うま~い。沖縄の食い物の中で俺のフェイバリットトップ3に入るのが魚汁である。マグロの刺身もついていて非常によろしい。

食ってから同じルートをたどり、胡屋まで出て、CDを見繕ったりなどしたのでありました。やはりコザではなんもしない日が続くのであった。

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カッチンの先。金武湾の上。

沖縄中部、コザあたりにいると、いつものことなのだけれど、「朝かぁ、ま、いいや、まだ寝よう」「んー、だるいからやめない?」といった気分になって、ねぐらでウダウダしていることが日常なのだけれど、今日は違うのです。

朝からカッチン(勝連半島)の先にある海中道路と橋でつながれた4っつの離島、平安座(へんざ)、宮城(みやぎ)、伊計(いけい)、浜比嘉(はまひが)へ向かうという。

ふつうこのあたりへ行く場合は車を使うのが一般的。なんといっても沖縄でも一二を争うドライブポイントなので、景色も抜群。車で行かない輩は、どこかおかしいといわれてもしょうがない。しかも、この離島にはいわゆる一般の路線バスは走っていない。そういうこともあって、車が「当然」(沖縄はどこでも基本的に車が当然なのだけれど)なのであるわけです。

しかし、この4離島、車か徒歩しか訪れる術がないかといえばさにあらず。うるま市立有償バスというものが一日数便だけれど、勝連庁舎前~与那城JA前~平安座~浜比嘉~平安座~宮城~伊計という路線を走っているのですな。

基本的には地元の人の足の確保、とくに車を持っていない、運転できないお年よりなどのためなのだけれど、地元民以外が乗っても別にかまわない。というか、うるま市の広報ページでは、よそ者(観光客含む)も、どうぞといった記述が見える。

このバスが与那城のJA前を出るのが9時半過ぎ。そのバスに乗るために8時台などというコザ的にいえば早朝といってもいい時間のカッチン方面行きのバスに乗る。

そして10月とは思えない灼熱の一日。伊計グスク、比嘉グスク、浜グスクを回ったのでありました。

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“通堂”ラーメンとその周辺

小禄駅周辺をふらふらしていたら、“通堂”(とんどう)というラーメン屋が。日ごろほとんどラーメンを食べないものの、有名らしいということは知っていたので話のネタに入店。男味と女味というのがあったが男の子なので男味。

内装などは今どきの風情。若者なんぞには受けるのかもしれない。店員も若い子が多い。カウンターにはもやしやら醤油漬けにんにくやらが置いてある。水の代わりに紅茶。

件のラーメンはとんこつ塩味らしい。食べきれない場合失礼なのでミニというものにしたのだけど、結果これが正解。まず、正直にいってスープにあまり旨みが感じられない。八重食堂に代表される名護周辺のそば屋のスープに感じられるあの強烈なダシを好むおれだからしょうがないのかもしれないのだけれど、ちょっと物足りない。そして最初口をつけたとき立ち上る豚くささ。これも気になった。チャーシューは悪くないのだけど…。またまわりにおいてあるもやしは辛すぎ。しょうゆ漬けにんにくもつかりが足りない。一番おいしかったのは…、紅茶だった(笑)。

こういうのが最近の流行というか話題になるというか、そういうものなのだなあという感想。このラーメンを好きという人がいる可能性があるだろうことは否定しないけれど、「もう一度行くか?」といわれたら、「現状それはない」といわせてもらう。昼飯に、港町の「えんがん」でアバサー汁の濃厚な旨みを味わっていたということもあるのかもしれないので、もうちょっと頑張ってもらって風の噂が再び届いたらトライしてみたい。

それはそうとこの小禄駅周辺は改めて歩いてみると、こんもりした公園が実は昔からの拝所であることを知った。よくよく考えたらこのあたりの字名は金城(かなぐすく)なのだから、この公園が“かなぐすく”なのだろう。山頂付近には拝所が7つ。中腹にひとつ。風葬場所にしては、それらしい窪みなどもない。しかしあたりの様子を考えると、古代集落跡と考えてもいいのかもしれないと妄想が巡る。

ぐるりを巡って戻ってくると一台のワンボックスバンが“カナグスク”の南側の道に止まっていた。サイドにはXXX福祉事務所の文字が。その車の中から、白髪頭のオバァがカナグスクへ向かって祈りをあげている。ふと見ると歩道には供え物が並ぶ。老人ホームに入っているオバァが職員に連れられて拝願に来たのだろうか。拝所で祈りを上げる姿は何千回と見ているけれど、今回はちょっと珍しい光景だったので立ち止まって数分食い入るように見てしまった。

幼稚園から高校までがすぐそばにそろい、今時のファッショに身を包んだ子が行き交う道端で、祖先崇拝が行われる。これも沖縄のいまの光景といえるのかもしれない。

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酋長秒殺さる

第8回全国闘牛サミット記念全島一・中量級優勝旗争奪戦伊仙大会。大福環境開発1号(八重山酋長)は福田喜和道1号による、19秒という秒殺劇で敗北。話を聞いて耳を疑った。あの八重山酋長が秒殺とは…。噂には聞いていたけれど、この結果から鑑みるに福田喜和道1号というのは恐ろしく強い。今後対戦する牛が出てくるのだろうか。

なんでも、酋長は強烈な腹どりを決められてかなりの傷を負ったとのこと。大丈夫だろうか。

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あかりパンダ、徳之島で勝つ

徳之島へ移籍した“あかりパンダ”が、今日、徳之島の伊藤観光ドームで行われた“スラッガーズ結成記念闘牛大会”に出場し、1分32秒 猪鹿蝶を撃破。自他共に認める日本一の闘牛の島、徳之島で幸先の良いスタートを切ったわけです。

徳之島は正月とGW中に大会が集中する傾向があるため、なかなかいけないのだが、早いうちに徳之島詣でを計画しないといけないなあ、と。“あかりパンダ”が戦っているうちに。

それはそうと5月3日にはやはり徳之島の伊仙闘牛場で、徳之島全島一横綱“福田喜和道1号”と “大福環境開発1号”の戦いがあるそうだ。これはここ数年で最大の見ものかもしれません。なんといっても“大福環境開発1号”とは、あの沖縄の前横綱“八重山酋長”のことなんですから。

ああ、みたい。

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FC琉球を観る

昼前にコザから62番のバスで北谷(ちゃたん)の美浜(みはま)へ向かう。Kyuリーグ、FC琉球の沖縄開幕戦というふれこみの対V・ファーレン長崎。会場は北谷陸上競技場。

謝苅を抜け58号線を渡ったところでバスを降り美浜食堂で昼食。トンカツを頼んでみた。まずくはないけれど、やはり、中部病院前の“かおる”の方が上等。ただし量では美浜食堂の勝ち。世間的には一長一短かと思う。ただ50歳に近いぼくとしては、やはり旧具志川、現うるま市の“かおる”に軍配をあげる。量はそこそこでもおいしいものがいい。

食事後、スタジアムに向かう。途中、右手にジャスコ、左手には毎年2月に中日ドラゴンズがキャンプを張る北谷球場がある。

目的の北谷競技場はバックとサイドが芝生席となっているので、フットボール者としてメインスタンドでの観戦を選択した。しかしチケット売り場が不明。ネットでの情報によると入場料1000円のはずなのだが、チケットを買える場所が見つからない。探しているうちになんとなく階段をあがったりしているとメインスタンドの長崎側の場所に入ってしまった。同行した人間はFC東京ファンなので、これでFC東京ファンのスタジアムの無料入場突破は沖縄でも行われたということになる。わからなかっただけだが、ユユシキ問題ではないだろうか(大笑)。

メインスタンドのうしろは北谷の海。北谷は沖縄の人間にとってここ数年の天久(あめく)神話以前からトレンディスポットとしての地位を維持しつづけている土地柄。FC琉球の試合を行うロケーションとしては成功なのかもしれないと思ったりもする。

試合がはじまる。FC琉球は個人技を中心とした80年代のブラジウみたいなチームだった。監督がジョージなので(与那城ジョージ)なのでさもありなん。対する長崎は昨年まで有明FCという名前だったチーム。国見OBを中心とした、しっかりとした守備と中盤の構成力。組織だったプレーが目を見張る。正直FC琉球の先制点が決まるまでは長崎の方がいい試合をぶりだったように感じる。

応援団についていうと長崎は3人。メインのアウェイ側に陣取るというJFL以下のカテゴリーではよくあるパターン。対してFC琉球はバックのピッチ上にメガホン応援を中心とした団体が陣取る。この姿、Jリーグファンなら柵のない臨海を想像してみるといいだろう。

ところで応援についていっておくと、長崎はかなりクルバ的な雰囲気が漂うものだった(三人だが)。その中でも、長崎ご当地食い物羅列応援、たとえば「カステラ長崎、カステラ長崎」「ちゃんぽん長崎、ちゃんぽん長崎」などといったあたりはわけわからんが好感が持てた(笑)。へんな外国被れをするよりも如何に土地柄を前面に出すか。それがフットボールの応援には大切かと思う。JリーグからJFLまでは勘違いした、かっこつけたチームが多い現状を考えれば個人的に、わけわからんが、OKだ(笑)。とくにJFLの英国意識したようなマヌケな応援に比べればご当地意識を前面に出すことはまったくもって正しい。

一方の、琉球。基本的にはよくあるJリーグ的応援なのだが、唯一、はまったのだが「ちゅら、ちゅらぁ~、ちゅら、ちゅらちゅららら、ちゅらちゅらぁ~、ちゅらゴール」というコール。「ちゅら=美ら」と現代うちなー口では書くのだけれど、日本語学的にいうと「ちゅら=清ら」。意味は「美しい」とか「きよらからですがすがしい」といった意味になる「ちゅら」だが、「ちゅらゴール」というと、まっこと英語でいう「ビューティフル・ゴール」といったあたりのニュアンスが漂う。

そんなコールが登場した数分後、FC琉球の得点は日本フットサル代表でもあるリカルド比嘉のフリーキック一閃。ゴール左隅に決まり、1-0。押されまくっていたのだけれど先制だ。メインもバックも大騒ぎ。チームカラーであるベンガラ色の旗がふられている。

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そうこうしてハーフタイムである。これがまた凄かった。

まず、子供エイサー隊の演舞。次に、スポンサーであるらしい沖縄ペプシのキャラクターであるペプシマンが登場。このペプシマンがバックスタンドあたりにいくと子供たちがおっかけるおっかける。控え選手が練習しているのだが、なんと子供たちはペプシマンをおっかけてピッチの中にも進入。主宰者側の誰も止めず。ほとんどウチナー結婚式の余興みたいなノリになっていた。

後半、長崎が一点を返そうと反撃に出る。4バックの両サイドが果敢に上がる。3バックの琉球の右サイド、元ヴェルディの某選手が正直穴だったことを察知したかのように左サイドから重点的に攻める。この某選手、足元がまずダメで、守備意識なく、でかいのに対人も弱い。見ていて良く使ってるなあ、と思っていたのだった。

ところが、この某選手から逆サイドへクロスがあがり、これをダイレクトで受けたFWがトラップしてシュート。なんと2点目をとってしまう。それまでダメダメだった選手が一転ヒーローになること。こういう試合は勝ち試合になる。

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試合はそのまま2対0で終了。バックスタンドに陣取った応援団に挨拶に行く琉球の選手たち。するとバックスタンドから子供たちがピッチに大量侵入。芝生の上を走り回り、選手を捕まえてサインをねだり、ゴールを使ってシュート練習をはじめる始末。ヒーローインタビュー(インタビュー用のバックボードがあった)の時にも、取り囲むのは報道陣数名。あとはガキの大群。本土では即刻大問題だろう。

柏でピッチに入ったとか飛田給で落ちたなどといったことは、「だから、なに?」、だ。日本のフットボール界ではあるまじきことなのだろうが、うちなー的に「だっからよー」で終りのはず。これでいいのではないだろうか。そんな気がする。

終了後、スタジアムを出て、謝苅一区の若手エイサー隊の演奏を見たり、ビーチを歩いたり、北谷グスクの拝所へいったりしたあと、コザへと戻った。

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きっと20年後も 内里美香ライブ

コザ、モッズでの内里美香のライブ。内里は一皮向けた。

ここ3年ほど彼女のライブを機会あるたびに見ているのだけれど、久しぶりに見た彼女は、これまでのどこかおどおどしたパフォーマンスが影をひそめ、唄者として、エンタテイナーとして独り立ちしたような。ライブの一曲目を聴き、彼女がしゃべりはじめたときそう感じたぼくなのでありました。

友達や内輪の人間も来ていたという場の良さもあったかもしれない。しかし、そんな状況であったことを割り引いても、彼女のパフォーマンスはちゃんと観客に届いていた。

いま、思えばその兆候は昨年末、青山CAYで行われたよなは徹プレゼンツによる「カチャーシー・ア・ゴーゴー」のライブの時に現れていたのかも…。曲順を間違えて演奏後ひっこもうとした自分のボケにつっこんだ余裕。楽しませることは自分の地を出してしまえばいい。かっこつけていい娘ぶる必要もないということを知ったのだろうか。

もちろん素の自分自身に魅力がなければ客はついてこない。しかしながら彼女には表現者としての唄と三線の才能と人を魅了する育ちがあるわけで、それを素直に出して精進を続ければもっとよくなるとおせっかいながら思っていた。そして、今日の彼女はその次の段階に入ったと確信できたと感じたり。

伸びやかな歌声に磨きがかかり、その唄の持つ意味と情感をきちんと表現。MCも今まで以上に素直な等身大の彼女が現れていて好感が持てるものになっていた。

サポートの伊集タツヤのギターも彼女の唄と三線を殺さず、かつその隙間を紡ぐように心地よいもの。伊集の力量もあるだろうが、世代的に近いという気安さもあるのか、内里は、伊集の音を素直に信じていた。

マネージャーのビセマキ嬢もここのところの内里のライブの良さを確認しているようで、キャンパスのWebページの掲示板ではイベントや他の唄者とともに行われるライブだけでなく今夜のような単独でのライブを是非みてほしい。それだけの力量はついてきたと太鼓判をおしている。同感。

ステージであがってしまうことをステージフライトというが、ぼくのまわりの昔からの沖縄民謡好きの間では、ライブにおいて存在感が出てきたことを、「ステージタッチューした」などと勝手に言っているんですが、今夜のようにまさにステージタッチューした彼女は、これまで沖縄の音楽シーンに登場し、一時代を築いてきた女性唄者を超える資格を得たのではないか?。20年後、彼女はどんな評価を受けているのだろうか。それを見届けていきたいと思える今夜の出来だった、と。

内里美香(うちざとみか)の単独ライブ。沖縄民謡ファンだけでなく多くの音楽ファンにおすすめできる。オーラが立ったかな。

話は違うが5月半ばから今日のライブが行われたコザのモッズが北谷・美浜へ移るとのこと。話によるといろいろなことがあったらしいけれど、今の時代、美浜の方が商売としては良いのかもしれない。たいていコザにいるボクにとって美浜はちょっと行きづらくなる点が難ではあるけれど。

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PanaのPanali

panali.jpg4月20日に発売になった“クイヌパナ”改め“Pana”の『Panali』を聴いている。たまたまOTVでクリップを見て、新譜が出ることを知り購入したのだが、うん、かなり良いですね。

石垣島出身のクイヌパナは東京で活動したのち昨年石垣島に帰り“Pana”として再出発。2枚のシングルが好評でついにアルバムがリリースされたとのこと。

アルバムのつくりとしてカチャーシーを意識したというあたりテンポの速さと曲間のつなぎなど「連続カチャーシー」的といえなくもない。しかし、このアルバムで聴かれる音楽はどちらかといえば“沖縄アンダーグラウンド”的なアプローチに近い印象。

もっといえば、東南アジアの大都市の地下クラブで地元の子達を踊らせているローカル・ダンス・ミュージック。たとえば、ジョゲやダンドゥットからインスパイヤされたもの。そんな音楽の雰囲気を感じたり。

八重山民謡の“とぅまた節”以外、上原正吉の弟子川門正彦の作曲による作品で、彼の三線が全編にフューチャーされているあたり、2005年現在の石垣ロコミュージック、と呼べるかもしれない。件の“とぅまた節”にしてもしっかりとこのアルバムの色に染まっている。

八重山で育ち東京でデビューし八重山に帰って作り上げた2005年の音。それは彼女のひとつの方法論であって、その方法論は間違いではなかったと思う。次作が正念場となるんじゃなかろうか。

Panali=パナリ、というタイトルから新城島を連想するのが八重山好きだろうが、Panaの母親が新城島出身なのだそうだ。

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フルスト原にて

それはそうと、昨日歩きに歩いたフルスト原(バル)遺跡には感動した。以前はただただ森の中に崩れた石がごろごろしているという場所だったのだが、10年程前から復元が進んでいて本島にあれば「特異なグスク形態」とでも呼ばれるような、そんな遺跡群が現れていた。

はたしてここは土地の古老の方がいうようにオヤケアカハチの居城だったのだろうか?。グスクや沖縄の聖地を巡りつづけているぼくの感覚では、当時の有力者とその権力をささえる人々、もしくは同盟者たちの村、いや、町、いやいや、もしかしたら、都市、そう八重山中世都市と呼んでもいいものだったのではないだろうか。

現在でもこのフルストバル遺跡の領域は大きくその中に確認できるだけで15もの石積み遺構が残っている。当時の八重山の人々はどのような生活を送っていたのだろうか?。首里の大軍はこのフルストバル遺跡の一部から見える大浜や白保の海岸から攻め上ってきたのだろうか?

そんなことを思っていると石垣空港滑走路へ着陸寸前のJTAの737がぼくの真上を横切っていく。暫定ジェット旅客機空港として供用されている石垣空港が現在1500mというジェット旅客機の離発着にギリギリの長さの滑走路を伸ばせない理由のひとつに、このフルストバル遺跡が滑走路の北東延長線上にあるからと聞いた事もある。日本海軍がここに空港を造ったとき、滑走路を今の状態に延長したとき、いくつかの石積み遺構が破壊されたという話もある。

那覇からのジェット機は737という小さな機体ではあるものの、この島に“幸せ”をもたらしているはずだ。しかし、この島の幸せ、とは何なのだろうか?

首里からやってきた軍勢によって殲滅されたオヤケアカハチ伝説や八重山への厳しい税の取り立ての逸話など。階層化された琉球史。空港そばのフルストバル遺跡は今も首里のある那覇との関係を現代につきつけているようにも感じたり。

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白百合再発見

前夜3時間ぐらいしか寝られずに、ふらふらになりながら、石垣島に到着。空港から滑走路横の農道を汗だくだくになってフルスト原遺跡まで数キロ、その規模と沖縄本島のグスクとの類似点および相違点に感動しながら数キロ、再び汗だくだくになって八重山闘牛場まで数キロ。そのこじんまりとした小ささを沖縄本島や徳之島の闘牛場と比較したり。

すでに午後4時半だが東京なら午後3時前といったあたりの太陽がまだまだ容赦ない。すでに下着まで汗まみれ。靴擦れで足が痛い。タクシーを捕まえてホテルまで行こうかとも思ったが、こうなったら歩いてしまえと離島桟橋そばの美浜にあるホテルまで歩くことにする。途中、宮良殿内によるのも良かろうということで。

殿内は車がすれ違うことができない住宅街の中にたたずんでいる。きれいだったがそれだけだ。もうビールが飲みたい。頼む。暑いんだ。ビールをあまり飲まないぼくだが、ビールだ。そう思って酒屋を探して港への道を下っていく。

すると右手にカマボコ屋かさしみ屋みたいな風情の赤瓦の間口の狭い家の軒先に“池原酒造所”という字が書いてある。

池原酒造の泡盛を専門に売っている店なのかと思ったが、よくよく覗きこんでみると、どうやら本当に住宅街のこの場所で泡盛を作っている正真正銘の池原酒造所なのだった。

池原酒造といえば「白百合」だ。華麗な名前のイメージから爽やかな今風の泡盛を想像したあなたは甘い。これはぼくにとって25年ほど前の数年間、夏の間、沖縄のド田舎に調査で滞在していた学生時代に飲んだあの頃の泡盛を彷彿させる独特の味と香り(いや匂い)が強烈な泡盛なのだ。

正直、ぼくは苦手だった。味わいは違うのだけれどその当時の泡盛によってもたらされた暗い(今となっては懐かしくもあるけれど)思い出と重なるから。

そのため、長い間口にしていなかったのだけれど、たまたま酒造所の前を通ってしまった。今夜は「八重仙」でも「請福」でもなく「白百合」の三合瓶と決まった。

そして夜、近くの安売り店で「白百合」三合瓶を買い、スーパーでお惣菜と水を調達。部屋にもどりいよいよ風をあける。そしてひとくち。

「うわ!」

やはり白百合はツワモノだ。なんだろうこの独特の香りは。黴臭さといってもいい香り。一瞬、水かホテルのコップが黴ているのではないか?と思うほどだ。甕とあの土地、あの家屋の持つ香りなのだろうか。

世田谷あたりで焼け残った大正時代に建てられた家の五右衛門風呂の夏の夕方の匂いといったらわかるだろうか(わからん)。とにかくそんなかんじの匂いが鼻腔をかけぬける。やはり苦手かもしれない。

しかし、ぼくも十分にオトナになったのか、少々我慢しながら飲み進めるうちに、あ、おいしいと思える瞬間が増えてきたのだった。三合瓶380円と安かったのでもったいないと思ったわけではない。お年寄りのご夫婦ふたりだけでこの泡盛を作っているということに敬意を表したわけでもない。石垣のネトッとしたこの夜の空気にふさわしい。その黴臭さの後にやってくる芳醇な味わいがぼくが分かるようになっていたのだろうか。

子供のころ山羊のチーズは食べられなかったけれど、ドイツにいた26年前、二十歳のころ食べられるようになった。クサヤは30歳を過ぎて食べられるようになった。40歳を過ぎてフィリピンのバロット(途中まで育ったアヒルの卵)をおいしいと思えるようになった。歳をとるというのはそういうことなのかもしれない。

ということで、三合瓶は一晩であいてしまった。ちょっとおなかがすいたので、300円の八重山そばを食べてきた。

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大潮、浜下り、旧三月三日

備瀬のフクギ並木の集落を抜けて浜に出ると、沖に珊瑚礁の三日月型の半島が現れていた。

海の上をいけるところまで歩いてみた。

足元には“なまこ”や“貝”や“うみうし”や“うに”や“ひとで”が蠢き、目を沖にやると伊江島タッチューが備瀬の浜から見る数倍の大きさになっている。往復6kmは歩いただろう。海の上を。琉球では海は泳ぐものではなくて、歩くものだ。漁師である海人を「海を歩く人」というじゃないか。

海の上をいけるところまでいって、戻ってくると、日ごろ船がなければ訪れることはかなわない備瀬の灯台の御嶽とその下の洞窟へも入ることができた。そこでユタらしいおばあの話を聞けた。灯台下の洞窟に鎮座する赤い大きな石は龍神の母なのだそうだ。雨乞いの神事をするのだろうか。

帰り際、そのユタらしいおばあが洞窟の出口で滑って転んでしまった。連れのおばあが「まぶやーまぶやー」とマブイグミをしていた。

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[019]三重城

よなは徹セカンドアルバム21世紀の「花風(はなふう)」。

みーぐしくにぬぶてぃ てぃきじむちゃぎりば
はやふにぬなれや ちゅみどぅみゆる

日本語訳:三重城に登り、お別れにてぬぐいを振っていたけれど、船足が速く一瞬しか見えなかった

といった歌詞ではじまる花風(はなふう)とは琉球舞踊の中の雑踊り(ぞうおどり)の名作。明治38年、那覇の芝居小屋で創作されたとされる。

三重城(みーぐしく)は現在、那覇の西町ロワジールホテル裏にその石垣の痕跡を残している。近くにあるのは沖縄電力の変電所やマンション、市内線バスのターミナルなど。しかしそれらはかつて海の中。

三重城は対岸(現在の那覇空港側)に作られた屋良座森城(やらざもりぐしく)とともに、琉球王朝時代、海中に飛び出した敵国船に対する要塞として、また交易船に乗った夫や恋人を送る舞台として存在していた。

よなはの「三重城」の歌詞も、別れの歌。まさに花風の世界だ。しかし、そこは21世紀を生きる歌者であるよなは徹のこと。琉球音階を薬味に美しい現代の恋歌に仕上げている。つまり昨今のJ-POPのひとつといわれても、こんな曲があってもいいんじゃないか、と思えるのだ。

もちろん、彼に対して現在の日本における売れ筋の音楽に対して媚びすぎではないかといった意見があることも承知している。

しかし、考えて見ほしい。よなは徹という沖縄の若者は琉球古典芸能の継承者であり沖縄民謡の唄者であるだけでなく、20世紀末から21世紀の情報革命時代を生きてきたウチナンチューでもあるのだ。この「三重城」はそんな彼の等身大の姿を表しているのではないかとぼくはおもっている。

先日東京に戻る日、三重城を久しぶりに訪れた。漫湖の河口に面したそここに作られた拝所(うがん)の前には、おじい、おばあの姿が。人工の城(ぐすく)も年月を重ねることで聖地となる。いや、聖地とは人類の意思と情念が篭った場所なのだということを改めて確認できた。

彼のセカンドアルバムである“三味連りてぃ(チャミチリティ) ”に収められたこの曲も21世紀の三重城の物語となる可能性を秘めている。

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[018]恋語れー

名護良一『沖縄の民謡』嘉手苅林昌未CD化音源を集めた『ジルー』は、彼のデビューSP盤「恋語れ節/なすび節」が一曲目、二曲目である。当然この曲順は構成・解説などを行った小浜司氏や監修のビセカツ氏による嘉手苅林昌のレコーディング史を意識してのねらいだろう。

「恋語れー」はこの「恋語れ節」から派生。両曲(実際は同じ曲といっていい)とも、嘉手苅林昌の十八番であるだけでなく、さまざまな歌者による名演も残る。ポピュラーミュージックとしての琉球民謡史に輝く名曲であるといって、間違いない。

嘉手苅林昌のほか、大城美佐子、照屋寛徳など名演は数多いけれど、名護良一『沖縄の民謡』の一曲目に収録されたこの「恋語れー」は、その端整な歌い口と三線に、しのぶ恋の、つらさとちゅらさが重なる。三線によるリフレインする演奏とサビの収束形はことのほか美しい。

ところでこの「恋語れ節」と「恋語れー」。今多く耳にする歌詞の世界は、基本的に、しのぶ恋の世界である。「門の前」という歌詞からすれば遊女(ジュリ)が恋する男を待つ歌なのかもしれない。どちらにしてもテーマは時ならぬ秘めた恋。一方で嘉手苅林昌のジルーに収録された「恋語れ節」の歌詞は年老いた男の恋の思い出や若い嫁をもらったことでの気恥ずかしさや悩みが歌われている。

沖縄民謡は歌者によって歌詞はどんどん変えられていく。そのため珍しいことではないが、その時の歌者の感覚や時代背景などが如実に反映されていくことも少なくない。もちろん、「おもいつき」の一言で片付けられることも多々あるのだけれど。

とにかくも我々にとって幸せなことに、沖縄民謡を代表する著名な曲だけあって、CDで購入するのも容易である。

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グスクについてのメモ

琉球文化圏のグスクについて初めて日本語で言及したのは当然の事ながら沖縄学の父、伊波普猷氏であり、それ以降現在に至るまでグスクとは何かということについて多くの学者、研究者、識者が独自の見解を述べている。

その中で現在のところこれからのグスク研究の基底を提供しているのは浦添市教育委員会文化課主幹であった安里進氏だろう。安里氏は自身の考古学的実証主義を前提にした論考を集めた書籍「グスク・共同体・村」の中で氏自身の論点を展開する前提として、それまでのグスク研究をおおまかに以下のようにまとめている。

「仲松弥秀氏の聖域説と、嵩本政秀氏の防御集落説、当真嗣一氏の按司居館説そして高良倉吉氏の高地集落説なごがある。その中でも嵩本氏と仲松氏の議論がグスク論争の基礎にある」

上記四氏による主張のうち、高良氏のそれは、仲松氏と嵩本氏をあわせもったものである。また、仲松、嵩本、高良氏の説と当真氏の説は時系列な流れの中に収められるもので、相反する説ではない。

つまり、安里氏によれば「グスクの性格をめぐる論争の主要な争点は、嵩本氏のグスクB式(防御集落説(筆者注))と仲松氏の「村の拝所としてのグスク」の性格である」ということになる。

この論点の整理ののち、安里氏は嵩本、仲松両氏の説には空間的な差異があるという点。つまり、石垣で囲われた地域のみをみるかその周辺までを“グスク”に含めるか。また、そのグスクに居住していた人々の階級的差によってそれぞれのグスクの性格が異なるのではないかという点。そしてこれらのことから逆にグスクをめぐる考古学的調査によってそのグスクに居住していた人間を階級的支配者といっていいかどうかを検証すべきだと指摘している。沖縄本島のグスクを巡っての個人的なぼくの印象になるのだけれど、安里氏の考古学的観点からの指摘は納得できる点が多く、現状のグスク論における基点を形成しているように感じている。

ところで、ここに、連れが本土の古本屋で購入してきた稲村賢敷著「沖縄の古代部落マキヨの研究」1968という書籍がある。沖縄県文化財専門委員などを歴任した方らしいが、現在のグスク論争においては、ほとんど名前を見ることがなく、ぼく個人の感想としても、たとえば、本島北部地域に多く見られるカミアシアゲを古代部落の縄文的竪穴式住居を「足上げ」したものであるといった言語学的にみても首をひねざるを得ない記述が見られる点などからも、はたして今後のグスク論を展開していく上で意味がある書籍なのかどうかは定かではない。

しかし、“古代部落”が狩猟&漁労社会で、母系の集団であり、海岸から若干離れた台地や山頂付近に居住地域を求めていたとする点。また、その後の農業社会は鉄器の沖縄渡来とともに広がり、農地を求めた“古代部落”の人々が山や台地を降り、河川や海岸沿いの低地へ移り住んだとする説には感覚的に頷けるものがある。その彼等の先祖が住んでいた台地や山の旧居住地が後にそして現在、信仰の対象、つまり聖地として機能している。そして、これらの聖地の中には支配者集団の「居城」や「防衛地」として使用されたもの、つまり石積みの「グスク」として現存しているものもある、と考えることもできる。

ただ、外間守善氏などによる北方から沖縄へやってきて、アマミク神の信仰をもたらしたアマベ族(海人族)に関する研究によれば、彼等は漁労も行うが同時に稲作文化をもたらしたという。これをどう考えるか。そして、アマベ族は鉄および製鉄技術ももたらしたのだろうか。

多くのグスクや拝所を回ってはいるけれど、グスク論争に関する論文や書籍すべてに目を通したわけではないので、ただただいいかげんな感想でしかないのだが、ここまで記した人々の研究はそれぞれ正しいのではないだろうかと考える。

つまり、それぞれの説には時系列的な差異があるとともに、“古代部落”時代も、“グスク”時代も、沖縄には様様な文化を持つ民族集団、つまり言語、文化、顔、身体的特徴が異なる人々がいたのではないだろうか。つまり、各氏の言説はそれらの民族的時空的差異と各氏の基調とする学問からの論点によってなされているわけで、それぞれ正しいのではないかというこだ。

となると、それらの言説を時間軸と民族集団別に整理する必要が出てくるわけだが、今後どう行っていくかは、大きな課題。とりあえず、まだまだ読まなくてはいけない書籍や論文は多いし、同時にこれまでのグスクと拝所だけでなく、貝塚や考古学的な遺跡なども訪れていかなければならないのではないかと。

勘でしかないのだけれど、琉球文化圏のグスクとその周辺に見られる事象は、ぼくたち日本列島に住む人間がどこから来たかという謎の扉を開く上でのひとつの手段なのではないだろうかという気がしている。そしてそれはぼくたちがどこへ行くかということも語っている。