19/03/08

聖なる場所

いつの頃から聖地巡りをはじめていたのか記憶にない。

ものごころついてから、今思えば、そういう場所をうろついていた。

それは神社であったり、お寺であったり、単なる石や木だったり、水の底に沈んでいたり、ビルディングになっていたり。

今は意識して南西諸島のグスクや拝み場所を巡っている。

植島啓司氏の言を借りれば「聖地は動かない」。聖地は人の原初から聖地なのだと。

もちろん平成の時代になって聖地として人によって意識された場所も存在する。しかし、その場所はもしかしたら、いや、かなりの確率で、もともと聖地だったのだろう。

「まつりごと」には「政」と「聖」がある。「聖」は「政」がなければ機能せず、「政」は「聖」がなければ存在できない。

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08/03/08

沖縄でひじきを採りにいったんですよ

ドゥシの家族+αとともに、ひじき採りへ。

昔から、このあたりのお家で食事をいただくと、ひじきを使ったつけ合わせが多いなあと思っていたわけだが、実は沖縄本島で、ひじきが採れる場所として知られていて、この時期になると集落の人々がアメリカ軍基地の許可を取ってひじき採りに入る、ということに。

適宜落ち合って、軍のゲートへ向かう。そこでひと悶着。やはり例の事件が関係しているのか、全員の身分証明書持って来い、幼児はダメだとニーセーターがいう。なんだかなぁ。そんなのウチナーじゃないでしょ。以前入ったときは車のナンバーと人数確認だけだったのに。と、思ったけど、ま、いっか。一度戻って親戚の子たちを下ろして保険証を持ってくる。めんどくさ。

とりあえず無事中に基地内に入り、目的の場所に車をとめる。何台かの車がすでに来ている。しかし日本の宗主国であらせられるアメリカ様はいい場所を選ばれます。さすがですね(いやみ)。

R0011591ドゥシのトゥジは2月の頭にお母さんと入っているので、二袋もあればいいよね、と言っていたのだが、「+α」が物凄い勢いでひじきを採りはじめる。もともと基地の中からではなく、崖を降りて毎日のようにひじき採りをしている「+α」の彼。崖の登り降りがないという気安さからか、結局16袋。それらを男三人で何度か往復しながら砂浜の上をかつぎ、坂を登り車まで。重い。

なんとか運んで、軍内でふらふらして帰宅。夕方、ドゥシのトゥジが牛小屋に今日取れた、ひじきで作った煮物を持って来てくれた。インゲン、糸こんにゃく、豚肉などで煮付けたもの。これが、でーじまーさんどー。がつがつ食べてしまった。とても柔らかく、ひじきのイメージが一新。

このあたりでは乾燥して保存し一年中食卓に上るわけだが、そっちの方もおいしいことはすでに確認済み。

沖縄でひじきが採れるのは、このあたりと南部の与那原だけ。NHKというテレビ局の番組で与那原のひじきを使った石鹸が紹介されたことがあるそうだけれど、実は、ここのひじき、このあたりの人の話だけれど「与那原のひじきはここから持っていったという話がある」ということだが、詳細は不明。

夜、ねぐらで考える。

日本のひじきは基本的に天然もので、主な産地は、長崎(対馬)、千葉、三重。中国と韓国でも採れるがすべて養殖なので除外。日本列島の北海道日高以南の太平洋沿岸。広島から兵庫にかけての瀬戸内。大分、熊本、宮崎、鹿児島。愛知、神奈川、岩手など。

金武湾とひじき。このあたりと内地との関係。ここから北の沖縄、奄美地域に、ひじきが採れるところを聞かない。ひじきがここだけというのは不自然すぎる。自然に出来たとは考えにくい。与那原のひじきはここから持っていったという話があるということは、こここのひじきも誰かが持ってきたのだろうか。

私の知識の中で、アマミクという言葉がよぎる。

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01/03/08

轟木側のコブと谷と尾根

天城町大城山の轟木側のコブ(つまり徳之島町側になる)へ上った。水が流れた跡と思しきところを上ると、大きくU字型に削った形跡がある巨大な谷の空間。何段かの石垣や巨石が。そこからGPSを頼りに急斜面をあがっていく。

結論をいえば、期待した、天城側のコブ(いわゆるフーグスク)にあったような巨石の拝み場所は発見できず。残念。ただここのコブはかなりまるくなっていて植生も年代が浅い。そしてお約束の松があり、となると、人の手が入っていた可能性はあるのか、と。

Fugusukuone

その場所を大城山方面に降りると峠に出る。そして尾根伝いにいけば大城山の山頂。進んでいくと、実際、道は見えているのだけど、木が邪魔してアウト。たぶん10年以上踏まれていない。行くならノコギリとナタ必須。ただ、この尾根、とても見晴らしがよく、花徳側の海が見える。そして大城山山頂から続く轟木からみえる三角山も目の前。

で、その北側に田んぼと思しきあと。段差と水を流した小さな掘り込みが。知人の話では轟木にあった染物のための田んぼではないか?とか。

このあたりであきらめて下山。

Fugusukuzentai

もときたU字型の谷のところへ来たのだけれど、よーくみると、この空間、内地的にいえば神社の境内ような作りのように感じる。神社といってもいわゆる聖地であった頃の神社。


Fugusukuiashigaki

参拝道と思しき石や、土止めも兼ねているような石垣。水を流したような跡。

R0011450

なんだか女性に見える石への彫りこみ。

Fugusukumitate

そしてふとみると、なんだか大城山を模したような岩。見立てというやつですが、見れば見るほど大城山の姿と似ている。手前のコブもあるし。

なんとなくだが、この場所、いわゆる当時の方の公園や内地でいう鎮守の杜みたいなもんだったんじゃないだろうか。暑い時に涼みに来る場所。そして拝みの場所でもあって、ここから奥は神女しか行けないところとか。

松原側と違って、ふんわりしたやわらかい雰囲気が漂っている。


Fugusukuentrance1

車をとめた道路に下ると、入るときに水が流れていた跡と思しきところは、滝だったんじゃないか?という思いが。気持ちよい水がいっぱいの。そしてよく見れば入り口の両側にたっていたんじゃないかと思しき石がふたつ。

もしかしたら大城山への正式の登山道(参拝道)はこちら側(徳之島町轟木側)だったのだろうか?。とにかく尾根からの景色が素晴らしい。整備すれば気持ちいい登山道かもしれない。

しかしなぜ徳之島には三角形の山頂の山が多いのだろうか。いや多すぎるし。

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21/02/08

中国 0-1 日本 

重慶観客の「犬(日本のこと)を殺せ!」の大合唱にも、中国選手の少林サッカーの系譜を引くレイトタックルや飛び蹴りにもめげず勝ってしまった日本。この大会そのものが日本の金をスポンサー料名目で中国および半島に流すという目的であるため、勝とうが負けようがどうでもよいわけだが、負けより勝つほうがよいのは確かではある。

しかしこういった大会に出場しなくてはいけない日本の選手は赤紙召集と思ってあきらめるしかない。ポジティブにチャンスであると考えないとやってられないという辛い状況だ。しかし日本サッカー協会からすれば、金にならない選手なら、つぶれてもかまわないわけである。安田の怪我は予想外だったかもしれないが。まだ金になる選手かどうかわからないのでOKというのが川淵氏らの判断だろう。安田、かわいそうだったな。そうか駒野もか。

そういった意味でこの大会は勝負が問題ではなく予定されたようにけが人が出る演劇と考えるとよいわけだ。そう考えないとみている方もやりきれない。

なのでこちらもとくにサッカーやフットボールと思わず中国選手のわかりやすいラフプレーや目の泳ぎを将軍様への忠誠で隠している主審のたたずまいにニタニタしながら、それを適当にかわす日本選手のプレーを楽しみつつ、ご飯を食べていた。気分は古代ローマの市民。奴隷が猛獣に食われるのを楽しむということか。今は確か21世紀のはずだが。

途中、日本選手で怒りを爆発させたのは鈴木啓太。それでもイエロー両成敗で退場には至らず。このあたりも冷静だったといえるだろう。

試合の内容について語るべきところは何もない。サッカーでもフットボールでもないわけなので。それでも、とにかく、これで日本は勝点4で「優勝に望みをつないだ」?わけだ。別に優勝しなくてもよいので、怪我だけにはほんと気をつけてください。

そういえば中国はこれで2連敗。30年勝ってない韓国と10年勝ってない日本相手なので順当な結果ではある。レバノンのアジアカップ、ボラが率いていた頃が中国の強さのピークだった。劣化は止まっていない。選手同士、言葉が通じないので、どうしてもこういう結果になってしまうのだろう。

なぞと書いてたら、9人になった北朝鮮が韓国とひきわけた。経済的には日本の一部ともいえる北朝鮮なので日本の優勝に協力したと考えられる。次は「永遠のライバル」?、韓国。興味がないため強いのか弱いのかよくわからない。それでも、北朝鮮や中国よりは強いのだろう。

そういえばJリーグのオールスターという日程圧迫を目的とした大会があるが、去年までの東西対抗をやめ、今年からKリーグオールスターとの対抗戦になるとのこと。

おそらくJリーグのライバルチームの選手や強いチームの選手、もしくは外国人選手、もしくは半島に出自がある選手にファン投票が集まるだろう。ファンとしてはKリーグ相手と考えれば、選手が壊される可能性がある試合に、自分のチームの大事な選手を出したくないと考えるのが目に見える。

なかなか複雑な様相を呈することになるが、これはこれで観察対象としては面白くはなった。Jリーグありがとう。しかし出場する選手にとっては、東アジア選手権に続いてまたまた赤紙召集である。サッカー界からすれば、選手は日本から金を合法的に半島に流すための消耗品なのだが、まことによい選手であればあるほどつらい時代になったものだ。

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13/02/08

まさにこれぞ灯台下暗し

大城山に登ろうと思っていたのだけれど昨日からの雨+本日の時々雨の天気で断念。

友達と何度も何度も通っていたけれど、いつも「ほお」「怪しいねえ」などとつぶやきながら通り過ぎていた与名間と手々の間。与名間灯台やムシロ瀬のあたり。

徳富先生の地名考を参考にめぐることに。

加えて、先日も書いたけれど別の知人から「ムシロ瀬は神殿の跡で、 ふりかえったら、山の上に羽のついた竜が飛んでいた」という話を確認しようと。

とりあえず空港から出発するが雨が降っていたので島に三軒しかないコンビ二のひとつで昼食。お弁当を食べる。島のコンビニの場合工場からできあいを持ち込んで作ることはできないので、すべてがコンビニ内で製造。これがなかなかおいしい。いいのか悪いの。

雨も上がり北の空も明るめになってきたので出発。

徳富先生の文章に残る「大和城 天城町の最北部」という文言を頼りに携帯にインストールしたGoogle Satで怪しそうな森をチェックしながら進む。

どう考えても山手側にある三角形の山が怪しい。以前から目をつけていた山。旧道に入ると土地改良がなされているにも関わらず残されている小さな丘陵の上に巨石遺構を発見。ノロ系の拝みどころなのか。ちょっと進むともっと大きな遺構も。なんなのだろう。これは。

やはりあの山が怪しい。登る道を捜すことに。近くの牛舎に人がいたので聞いてみた。しかし山に上がる道はないとのこと。それならばとこのあたりの字名を聞いてみると、県道の山よりは「はげだけ」。海よりが「さぎばる」。手々側が「いしぐじん」。

「はげだけ」。今はこんもりとした森になっているにも関わらず「はげだけ」とは。人の手が入った山で、その後、荒れていた。山城跡で戦闘後に放棄されたと考えたらどうだろう。見晴らしも素晴らしい。

ちなみに井之川の大城(ふーぐすく)も「はげやま」と呼ばれていたらしい。

「さぎばる」。これは字名にある「崎原」。

そして「いしぐじん」。友達によると「ぐじん」とは島の言葉で「たくさん」ということらしい。つまり「石がいっぱいある場所」。

手々方面に行ってみる。するとある場所で怪しい場所を確認。車を降りて目を凝らすとヤブの奥、森の中に大量の巨石群を発見。なんなのだ?。以前いった手々山中の石場から切り出したような。そんな岩があちこちに。GPSにマークしてとりあえず今日はそこを離れる。

続いて右に折れて海岸方向へ。そここに巨石のあとがある。単に置いてあるもの(自然にできたとは思いにくい)。こんもりした丘の上に置かれた巨石。そういったものが散見する。うーむ。これは。

そして与名間港へ。ここもどう考えても不思議な石に囲まれている。すべて自然だろうか?

極めつけは与名間灯台。

知人もはじめてくるという。上がって、周りの斜面を見ると、人工的に割られた石が丘の斜面に散乱。ところどころ石を積んだ跡も確認。間違いなく見張り台か住居か拝み所に使われていたに違いない。降りたところに畑地になった平場もあった。グスクといってよい。

「灯台下暗し」とはまさにこのこと。灯台は海側から見えやすいよい場所に作る。当然それは昔の人も同じだ。話によると亀徳の灯台の場所もグスクだったとのこと。なるほど。

友達の仕事の時間になったので海沿いの小道を散策がてら亀津へ。途中、ちょっと変わったお墓群をみつける。

知っているけれど、知らない場所はまだまだありそうだ。

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30/01/08

天願グスクについて再び

天願の公民館を訪れた。

区長さんにいろいろなお話を聞く。

わかったことは、先日行った、拝所のある森は、地元では「霊化森」と言っているとのこと。なるほど。

その尾根伝い南東、現在破壊されて部隊内の図書館になっているところが、チュムイ(人森)。沖縄の古典踊の南島(フェーヌシマ)の舞台になった場所らしい。びっくり。難破したオランダ人をかくまった場所。破壊されてしまって残念とのこと。そりゃそうだ。

その南、天願交差点に面した山にウタキがあってその中腹に戦前までは天願小学校の校舎があった。写真も見せていただいた。

県道をはさんで天願貝塚。その南が現状天願グスクといわれている場所。地元ではツチグスク(土城)と呼んでいる。こういった状況から「天願グスクはツチグスクといわれている」とあちこちで書かれているのだろう。

ところが、区長さんいわく「霊化森だけは部落の共有地だったのです。ですから、天願グスクとは霊化森のことではないか?」と。

一部は宇堅側の人の土地になっているらしいが、現在も基本的に天願集落の共有地であるらしい。個人的にここに入ってみて、いろいろ見たわけだが、まったく、区長さんのおっしゃる意見に賛成である。

もっといえば、この霊化森からツチグスク、天願川を下って野鳥の森公園あたりまでの尾根づたいが天願按司の居城の領域だったのではないか?そう考えたらどうだろうか?琉球史ではほぼ消されている沖縄の歴史。

現在、集落史の編纂を考えておられるとのこと。いろいろな話が出てくることを期待したい。

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28/01/08

帰る日に滝登り

今日は島を離れる日。

飛行機は午後4時前の便なので時間がある。飛行機の時間まで知人たちと島の西側、秋利神という地区を探索。

どうやら絶壁が迫る港の脇に小川が流れてでいる。そこから上を目指す。いつものように鎌を手に藪をかき分け進んでいく。足元は水が流れる滝でツルツルとすべる。自然が作ったものか人工かどうかは定かではないが、ある程度藪をかき分けると、階段状になっていることにも気づく。

登り切るとだいたいの全容がわかった。左手に芋科の植物が群生していたところは、昔の棚田の後。登りきったところにイジュン(湧水)。近くにはどうやらお墓のようなものや石垣を積んだ跡もある。

あとで確認したが、このあたりに住んでいた人が使っていた浜に降りる道らしい。そしてこのイジュンから右手に上って行けば、上の道に出たことも、この地に住んでいた人とGPSのログデータからほぼ判明。惜しかった。

さてどうやって降りようかと思ったのだが、藪を刈りながら進むが断崖絶壁に出てしまい、やむなくもと来た階段状の滝を下る。足元が滑るので慎重に。しかし草を刈っていたので、思っていたより楽に降りられた。おかげさまで、靴やジーンズの裾は水びたしでびちょびちょである。

1時間後、そのまま飛行機に乗ったら、僕の泥だらけの姿を見て、キャビンアテンダントの女性に「島では何をされてたのですが?」と聞かれ「山登りです」と答える。間違いではない。隣の席はあいていたので他の人に汚れがつかなくてよかった。

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27/01/08

グスクをめぐって夜光貝を食べた日

昨日、ウンノーグスクの南北の全容がだいたい把握できたけれど、あまりに巨大なグスクではないかという結論になった。I町の史跡が増えることになるけれど、全体に調査を入れると3憶ぐらいかかるのではないかと。

今日はそのウンノーグスクに島の若い女性をひとり連れていった。こういった史跡に興味あるだけでなく、徳之島の唄者としても有名な子だ。実は昨年全国の若手を集めた民謡大会で優勝している。こちらとしては三日連続で飽きてきてはいるだが(笑)、どうしてもということで友達たちと昨日発見した道を行く。

その後、島東部の友達が新しく発見したグスク跡を確認しにいき、続いてB地区の線刻画を確認したあと、B集落へ。

ここには噂に聞いていた知人たちの知り合いの夜光貝でアート作品などを作っている方がいる。その工房へ。いろいろ話がはずんだ。どうやらこの方はもともとは漁師でもあるらしい。夜光貝の殻は朝鮮半島で作られていた螺鈿細工に使われていた。身は食べてもおいしい。

すると同行した女性が工房の主から夜光貝を三つほどもらった。その場で身を取り出してもらう。素早くナイフで縁をこそげないと身が縮んでとれなくなる。さすが鮮やかな手さばき。

そのまま、I町へ。昨日同行した女性陣が話をしたいというのでいろいろ話をする。そして夜は同じI町の知人の家で先ほどの夜光貝をいただく。身のやわらかいところは刺身。硬いところは圧力鍋で。うまいなあ。

この島は普通に幸せがまだあるように思う。

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26/01/08

アマミクの里とグスク群。地球の鼓動と人の営み

I町の女性陣と町の東方のイジュンをめぐる。

何度か来たことがあるミョーガングスクそばにあるイジュン(湧水)へ案内される。

おお。ここも凄いぞ。イジュンの出口には鍛冶屋跡。前方にウージ畑。つまり以前は田圃。右手に台地があり、案内してくれた地元の女性に「ウフヤーがあの辺にあったのでは?」というとやはり「フーヤがあった」とのこと。絵にかいたようなアマミクの里ではないだろうか。

その後も別のイジュンやグスク跡をめぐりこのあたりがグスク地帯であることを改めて確認。最後には何度も行っている穴川神社へ。ここもイジュンが著名。いつもきれいにしていて地元の人の信心が厚いことを物語る。

いろいろ話をしていたら、この場所の掃除をしているのが、本日案内してくれた女性であることが判明。若いのに立派だ。感服。その女性の話によるともともとの集落はこのイジュンのそばにあってかなり大きかったらしい。ここも絵にかいたようなアマミクの里。

帰り際に、塩田跡へ。江戸時代からのものらしいが、サンゴのごつごつした海岸を削り取って塩田として使っていたのこと。見事。先人の労力が偲ばれる。近世から近代にかけての立派な遺跡だ。

一緒に行った女性陣の中に地質に詳しい友達がいて、この塩田のとなりにある巨大な岩へ案内される。周辺とはあきらかに違う。地質学でいうメランジュ。いろいろ混じり合ったというフランス語から来た名前だが、これだけ大きく立派なメランジュの岩が顔を出しているところって日本にあったか?確か四国のどこかが有名だったように思うけれど。

やはりその友達いわく地質学の先生が来た時も驚いていたらしい。

この場所、地球レベルの年代から近代までの見どころが。ちょっと整備すれば立派な観光地というものではないか。

この島はスゴイものにあふれている。

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25/01/08

島には不思議なものがあってよいはず

夕方、島の探索から帰ってホテルでだらだらしていたら、昨年、松堂玖邇さん関係で知り合った島在住の女性が訪ねてきた。

この方はもともと沖縄、那覇生まれらしいのだが、親は具志川のそれなりというかかなりの家系。そういった方面のチムダカでもあるらしく、興味深い話が聞ける。

沖縄や徳之島だけでなく広島や東京の話にもなったのだが、その中でとくに気になったのは、島の北部のこと。

彼女が内地からやってきた女性とムシロ瀬を訪れた時(この場所も彼女がいうに古代の神殿跡らしい)、その後方、南の山系に、羽のついた龍が飛んでいるのを見たのだという。

その場所あたりは、昨年来知人たちと何度も訪れている巨石の拝み場所などがある不思議な地帯。江戸の頃までは集落もあったというが。

僕個人は努めて文献や研究成果を吟味し、現地に赴き、科学的、実証的に理論だって物事にあたるタイプだと思うのだが、こういった話は嫌いではない。というより、こういった人の感覚や幻視の風景も現実であり科学の対象だと考えている。

昼は昼で知人たちと楽しい発見ができたし、夜にも楽しい話が聞けた。良き一日であった。

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21/10/07

天願グスク近辺探訪雑記

うるま市の天願グスク(ツチグスクとも呼ばれる)。石川から具志川方面を眺めれば、そして市内の小高いところから、はっきりとわかるその姿。

しかし米軍基地(実際は海兵隊司令官家族の居住地らしい)キャンプコートニーのフェンスの内側にあるため系統だった調査がほとんどなされていないだけでなく、当然グスク探訪者もフェンスの外から指を加えて眺めるだけ。21世紀になってもお預けをくらったワンちゃん状態が続いてる。

その天願グスクを今日訪れることができた。

天願グスク海側から

とりあえず細かい点はのちのち検証するとして、備忘録代わりに以下に状況をここに記す。

この時期、天願の部落はウートートー時期(旧暦九月九日から九月二十日とのこと)。ドゥシ(友達)のトゥジ(刀自=妻)が天願出身で、基地内に入るので一緒にどう?という誘いがあったのだ。

午前11時過ぎコートニーの中に入り直進。二つ目の十字路を右折すると左手前方に天願グスクのこんもりとした森が見える。適当なところに車を停め、芝生が植えられた斜面を上り、森の中に入っていく。

軽自動車なら通れそうな上り坂が続いている。両側の森の中にはところどころ野面積みの後が見える。住居跡なのかもしれない。あがっていくと階段跡と思しき珊瑚で作られた段差がいくつか。ウートートーの時期にはこのあたりの草刈りをするという話だったので後年作られたものか、昔からあるものなのかは不明。というか、この道自体昔からあるものかどうかも不明だ。

天願グスク入り口から

最後の上りの手前に、門の跡らしき岩場があり、その右手奥にふたつのガマ(洞穴)。手前のガマは人が入りきらない程度の小さい穴で奥の穴の手前には「荒フチの男神 ビジル美人の女神 二人は夫婦グサイの神 こちらで拝んでください」と書かれた碑が建てられている。ガマの中を覗くと5人ほどは入れる大きさでクールー(香炉)が。お年寄りや子供の場合、中に入るのは難儀なので、ガマの手前でウガミしてくださいということのようだ。

天願グスクガマ

ドゥシによると宇堅側にアラフチ(アラブチ)という名前の地域があるがそれと関係あるのかも、とのこと。となるとこのウガミ場所は天願側だけでなく宇堅側の人にとっても聖地なのだろうか。そしてなにより、この天願グスクを中心として分かれる天願と宇堅という両集落の成り立ち、とくに屋取(ヤードイ)期以前のことがとても気になった。

そこから上っていくと、右手に大きな窪地がある。浦添グスク山頂の窪地を小さくしたものを想像してみるといいかもしれない。降りてみると足元は奄美の積み石墓のような状態で壁面はどうやら石を積んでふさいでいるように見える。普通に考えれば古墓か。ただもしかすると井戸、窯跡という可能性も。調査が入ればはっきりするのではないだろうか。20分もあればひっくり返せそうだったが、当然見るだけ。早期の調査を望みたい。

そこからあがると山頂となり、ナー(庭)が広がる。左手はコザのインジングスクのような岩。右手は平坦な森。左手の岩場はところどころ削られた跡が見受けられ、クールーが置かれている。右手の森の部分は平坦でおそらくここを掘れば何か出てくるのではないだろうか。表面調査だけしてみて、あるものが目に付いたが、ここでは書かない。

天願グスクナー

まっすぐ向かうと、木と草の影に宇堅の知人の家が見える。そのはるか向こうに勝連グスクの姿。草刈りすれば非常に見晴らしがいい場所だ。子供の時はここから「わあすごい景色」と楽しんだとはドゥシのトゥジの弁。ふと右を見ると水準点が。

ナーにもどり右に。つまりあがってきた方向からすれば左手へ向かうと、両側が岩にはさまれた1画に出る。両側にクールーがある。その正面に目をやると現宇堅ビーチ左手の断崖が。先まで行くとどうやら降りる道があるようだ。ドゥシのトゥジの話によれば、きちんとしたウートートーはこのグスク内で行われたあと、断崖の先にあるウガンにいくとのこと。祖先のやってきた道を辿る儀式ということになるのではないだろうか。つまり、この一帯の祖先は宇堅の浜からあがった集団と想像をめぐらすことも可能だ。そして、この金武湾一帯は中世には一大交易地として栄えたという実績があるので、貿易のための重要港湾施設が正面に見える断崖か宇堅の浜のどこかにあったと考えることもやぶさかではない。

そしてその先には軍艦のような姿を見せる宮城島と伊計グスクを抱える伊計島が真正面に。見えるということはその場所を意識せざるを得ないということ。太古の人はどのような気持ちでこの風景を眺めていたのだろうか?

天願グスクから宮城島

こうなると頭の中はぐるんぐるん。過去の歴史に思いをはせ、それだけではなく、さっきのガマや窪地は何か?。歩いてあがってきた道以外の場所に何かがあるのではないか。などなど、今後どう検証を進めるか思い描き妄想を繰り返す。

この天願グスクの南には天願貝塚跡があり、東に宇堅貝塚。その先には沖縄電力の発電所の一部となっているもののまだ若干残っているクーグスク。その先には具志川グスク。勝連グスク。それらの関係は、時代的な変遷は。金武湾一帯の集落の成り立ちは? 宮城、平安座、伊計の各島と関係は。

とりあえず、今日のところはこのあたりにしておこうと、グスクを降り、車でグスクのまわりを一周する。グスクの東側には「天願城」と看板を掲げた米軍の施設があった。一応、軍も意識しているようだ。このとき南の方見て気がついたのだが、天願貝塚方面に森が続いているようにも感じられる。グスクの周辺もブルトーザーが入っているのは確実なので、天願グスクの領域、もしくは天願グスクを中心とした集落の範囲は、先の断崖の岬のあたりから天願貝塚。つまり天願川のあたりまで広がっていたと考えることもできるだろう。


鎌倉の繁栄に例えられた勝連グスクは日本や大陸との中継貿易で栄えたらしい。奄美の喜界島にも勝連の人が渡っていた形跡もある。その勝連グスクを中心とした地域と同じくらいの規模がこの天願グスク周辺にあったという可能性も否定はできない。

なんといっても、現在知られた沖縄の歴史や伝承、文献は薩摩傀儡政権期にまとめられたものであり、その薩摩の影響を排除したとしても、首里を中心とした正史を前提としたものと考えられる。首里が大陸に朝貢し中華王朝的要素があったと考えれば正史は過去の歴史を抹殺し自らの正当性を語るために作られたと考えるのが普通だろう。

つまり首里だけではない、それ以前の沖縄の歴史に考察を加えていく意味でも、こういったグスクの存在と集落構造の研究は大切なのではないかと考える次第。ただ旧具志川市一帯は屋取集落が発展したところなので首里や那覇の影響は多分に受けているはず。その屋取とそれ以前から集落を形成していた人々とはどのような関係にあるのか、ないのか。

ひとつだけ確実にいえるのは天願、宇堅両部落の小中学生などにとっては格好の歴史教材が基地の中にあるということになるのではないだろうか。

結局のところウガミは早々に終わったのに2時間弱もドゥシたちをつきあわせてしまった。帰りがけに基地内にあるタコベルでタコスを食べてお土産にバーガーキングとピザを買って外に出る。出るときはアメリカらしく去るものは追わずのフリーパス。

午後はドゥシの牛の練習試合。天願グスクも、牛たちのオーラシーを眺めていた。


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24/09/07

怖い埋立地と怖くない埋立地はお相撲さん次第

夢の島が明るい未来への香りを放ってゴミを集めてた頃、おいちゃんにいわれた。

「江戸めぇ(前)の埋め立て地だ。あさかぁ(あそこは)、いかねぇのがかしけぇって(賢いって)」。
「なんで?」と聞くカワイイさかりのおれ。
「ん?。いいか?。海っつーのは海のえれぇ神の土地だ。いや土地じゃねー、海だ。勝手に人間の都合ってもんでつぶしていいと思ってるか?」
「なんで?」となんでも聞くおれ。
「だからだ。人さまの土地に勝手にへぇって(入って)、俺のもんだ、とぶんどっちまったら(占拠したら)、どうなる? とられた方は怒るだろうが?」
「海は土地じゃないんでしょ?」とへりくつをいうおれ。おいちゃんはおれのへりくつを無視していった。
「いいか、江戸っつーのは埋め立てでできた土地だ。銀座だって埋め立て地だ。だけどその頃は、えれぇ(偉い)ぼんさん(お坊さん)が、海の神様にお願ぇしたから問題なかった。だけど昨今の埋め立ては、そういうことをしてねえ。だからいっちゃだめなんだよ。いっちまったら海の神様が怒って足の裏から人間の身体の中に冷たい魔物をしのびこませるぞ」。

よくわからなかったし、今にして思えば神と仏といっしょくたになっているあたりがなんともはやだが、とぉってもスナオだったおれは、東京湾の埋立地はとにかく怖いという常識がうえつけられた

な、もので、この教えを今も守っていて、かつては海苔養殖場だったいまのお台場あたりにもなるべくいかないようにしている。行く時は海の神様に頭を垂れてから。みんなそうした方がいいよ。で、それはそれとして、おいちゃんは、話を続けた。

「しかしだ。晴海と豊洲。あさかぁ(あそこは)大丈夫だ。なんつってもお相撲さんが四股で踏み固めたからな」

紀元2600年記念で開かれることになっていた日本萬國博覧會の会場のために埋め立てられたのがこのあたりらしくて、近代国家日本の礎とすべく、もともと国造りと関係があったらしい相撲界から当時の横綱や名力士を呼んできて四股を踏んでもらった、と。

話はこれで終わってもいいんだけれど、昔から思っていることをひとつ。

お相撲の横綱の土俵入り。あのとき、いろいろなしぐさをする。雲竜型とか不知火型とかあるらしいけれど、あまり詳しいことは知らない。ただガキの頃、これをはじめて見たとき、おれが生まれる前にハワイにいっちまった親戚がやってたフラに似てるなあ、と思ったのだった。フラのしぐさにはいろいろな意味が込められているらしい。「花」とか「愛」とか「空」とか。きっと横綱の土俵入りのしぐさにも「意味」が付与されているんだろうと思う。

それをいったら、お相撲さんが褌の前に下げているノレンみたいなやつ。あれってポリネシア系の人の腰蓑を思い出す。ポリネシア系といったら、かつて高見山とか曙とか武蔵丸とかハワイの青年たちがお相撲をやりに日本にやってきた。国籍はアメリカンだったけど、ポリネシアンだから、その巨体とあいまって、なんとなく妙にはまっていたような。

ところが、お相撲では千秋楽の取組が終わった時に弓取り式というのをやる。ぐるんぐるん長い弓を回してやるあれだ。弓は騎馬系民族の特技である。

こうやってお相撲関連の仕業をいろいろとみていくと海の人と大陸の人の特徴がそこここに表れているように感じるのだった。

ここからはまた勝手な想像。

お相撲の起源は古墳時代の遺物などにも描かれているので、かなり古いらしい。日本書紀あたりには野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)という豪傑が試合して前者が勝ち、相撲の始祖かつ土師氏の始祖となっている。まあ、この時の試合は蹴り合いだったという話なのでこの戦いが相撲のルーツだったかどうかよくわからないが。

さて、このふたり、なんとなくなのだが、渡来系の人っぽいかんじもする。もしかしたら海洋系と大陸系かもしれない。現代でいうと、ハワイのポリネシア系相撲取りは海洋系、モンゴルだとかヨーロッパだとかは大陸系。地政学的にいえば、ポリネシア系はシーパワー、モンゴル系などはランドパワーということになるのでありますか。

ということで、昨今の大相撲というのは、ポリネシア海洋系シーパワーからモンゴル大陸系ランドパワーへの移行がなされてきたということになる。

お相撲というのは土地の地鎮や国家の鎮護と密接に関わってきたとされる。が、これは、おそらく明治以降のことだろう。しかし、明治以前であっても、お相撲が命脈を保ってきたと思われるのは、一般大衆の支持があり、その時期その時期の為政者の保護やお目こぼしがあってこそのこと。つまり、明治以前は緩やかに、明治以後はしっかりと国家体制の霊的な面を司ってきた儀式スポーツ(スポーツというには語弊があるけれど、今はたぶんそういう感じかということで)だということになるのかも。

このところの大相撲関連のいろいろな話題はそういった面からも見ておくと現代の成り立ちを考察する上で有効かもしれない。

晴海や豊洲はお相撲さんによって踏み固められたわけで、それによって、おいちゃんは「あそこは埋立地だけど大丈夫だ」といい、素直なお子様だったおれは、かつて晴海の見本市会場でアメリカ西海岸のアコースッティクなミュージシャンたちがやってきてライブを開いた時も何も心配せずにいけたし、今でも安心していけるのだが、その後に埋め立てられた有明とか台場とか新木場あたりの埋立地はいまひとつ居心地がよくないので、ほとんど行かない。でも、そういった新興埋立地も、お相撲さんが四股を踏んで踏み固めたとか、江戸の天海僧正みたいな人が呪術的になにやらやってくれているという事実があるなら安心するんだが、今のところそういった話を知らないので、怖い怖い。

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01/08/07

最近ほんのり思っていること 対立史観は苦しい

奄美群島の方たちと話をしていると同じ鹿児島県ではあるが九州鹿児島への恨みつらみ、妬み、嫉み、またそういった気持ちを持っている自分へのあきらめと気恥ずかしさなどがたびたび感じられる。

ひとつには、江戸時代の薩摩藩の過酷を極めた圧政が、人々の間で世代をこえ語り継がれ、記憶の中に残っているということ。そして現実として、多くの離島を抱える鹿児島県にあってひとつの島の振興だけを進めるわけにもいかず、かつ、九州鹿児島の整備も行っていかねばならない。つまり特定離島ばかりあいてにしていられないという事情もあろうが、そういった県の施策を離島に住む人々から評価すれば、やはり取り残されたという感があるようだ。

この2点のみが理由としてあげられるわけではないが、鹿児島県の離島に住む人々は九州鹿児島に羨望と恨みを抱えている場合が多い(とくに奄美群島)といってよいだろう。

しかしこの島の人々の感情というのは、もしかしたら作られたものではないだろうか?。百歩譲って歴史的なしこりに求められる感情を島の人々に持ち続けてもらうため、現在に至っても地域振興などを遅らせている。と、したら。

つまり、わざと人々を経済的、精神的枯渇状態に置くことで、これまでの生活ではダメだ、これまでのしきたりや習慣は時代遅れであるという気にさせ、改革、進歩、発展といった旗印に土地改良、産業振興などを行い、それまで信仰の対象であった聖地や土地、祭り、風習、習俗の記憶を薄めていくことで平均的日本人へと作り変えていく。

この遠大な計画のために、実施されているようにちょっとだけわたしゃそう思っている。なんというか、構造としてはまさに薩摩時代と何も変わってない。

また、このような枯渇から平準へという方策に、いろいろな出汁をあわせると、そう、沖縄である。沖縄というか(那覇を中心とした南部と琉球大学を中心とした高学歴者と言っておく)の場合は、この二分論がより顕著で、ウチナーとヤマトというふたつのテーゼを前提に沖縄を語る人がほとんどであるあたり、常日頃思っているのだけれど、心の底から非常に興味深い。

ウチナーとヤマトを対立軸にすることで利益を得る人々って誰だろうか?

まあ、個人的にはヤマトに対してどう思ってもそれはそれだけれど、沖縄の研究者が奄美群島を沖縄中心史観で語るのは的外れじゃなかろうかなあと思ったりもする。奄美群島は琉球と関係はあるけれど、琉球じゃないしぃ、と。二項対立だけでは語れないことの方が多いと思う。

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08/07/07

ある島のある場所で見たもの

とある島の北側に妙なところがいくつかあると、地元の友達に聞いて、一緒にいってみた。

数箇所巡ったのだが、そのうちのひとつの場所に巨石が鎮座する妙な場所があった。基本的には、良いヴァイブレーションを満ちているところなのだが、何か負のエナジーも漂う。それでも、基本的には選ばれた場所であろうと感じられるのだった。

とりあえずその日は、鎮座する3mX7mはある巨石や周辺の雰囲気を写真におさめただけで戻ったのだが、三日後の今日、再び友達たちと訪れてみた。

最初の感想にはかわりないけけれど、じっくり観察をしていくといろいろなことが目に付いてきた。

まずその巨石。非常に大きいのだが、同行者が上に上って掃除をしてみたところ、なにやら表面に溝を掘ったような跡がある。飛鳥の酒船石をふと思い出した。

そしてその巨石の後方、一番手前に石舞台的な平べったい石がある。もしかしたらここで祭祀を行ったのか?。また、そこから上に向かって石が参道のように積まれていたのではないかと。実際、崩れたように両側に石がごろごろしているのだ。その奥には、表面を磨いた痕跡のある石がふたつ。こういったことから間違いなく祭祀に関する場所だったのではないか、と。

そしてはたと気がついてコンパスで方角を確認すると、その巨石から後方のふたつ磨いたふたつの石の線が南北にまっすぐだった。そしてその巨石の軸が真北から西に20度ほど曲げておかれている。

これは、もしかしたらアレではないか?違うかもしれないけれど、その可能性はゼロではない。

その夜、一緒に行った人からの情報で、この場所はかつて山を降りたところにある集落の拝み場所だったことを知った。ただ、近年はこのあたりでは自殺者などが多く、誰もよりつかなくなっている、と。

最初の感覚は正しかったのかもしれない。もともと良い場所のはずなのに、何か違和感を感じたということ。

日本は本当に広くて深い。


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02/03/07

おそるべしジュウルクニチ

ジュウルクニチ。グソー正月である。今日ではない。来週の月曜日。今年は3月5日。いわゆる、亡くなった方のためのお正月。

では何が「おそるべし」なのか。

それは民族移動でその前後、飛行機が満席状態になるのだ。今日は宮古へ行ったのでその強力なパワーを実感。

ウチナーにおけるご先祖さまの供養といえば当然、シチガチ(旧盆)が知られているけれど、次にでかいのが、清明(しーみー)。だいたい4月中になることが多いけれど、この間の20日間ほどの週末あたりは中北部から南部へ。那覇から中北部へ、民族大移動。名護と許田の間の58号線が「シーミー渋滞」で車が数珠繋ぎなんてことも少なからず。

と、ここまでは、沖縄本島中南部を中心にした話。

一方で、今度の月曜日が当日のジュウルクニチにおけるご先祖様供養を清明以上にとても大事にする地域がウチナーにはある。それは、八重山や宮古の離島。山原。中部では屋慶名あたり。

今年は月曜日になったので、金曜日の午後から火曜日の午前中くらいまで、宮古、石垣方面の飛行機は満席便多数でなかなか希望の便がとれない状況。月曜日の午前中の東京那覇間もかなり混んでいるのは当日かけつける内地在住のウチナンチューが多いからなのだろうか。

とにかく、ジュウルクニチ前後にはご先祖様のお墓へ向かうウチナンチューたちの民族大移動が起こるわけであります。

で、今日の宮古行、当然満席。しかも車椅子が3台出動。本島に居住する宮古出身のおじい、おばあがご先祖供養のために自分のシマへと向かうわけ。

ということで、宮古、八重山方面を目指す内地の方。ジュウルクニチにかかる移動になるなら、早め、早めに動くのが吉かもしれません。

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11/01/07

In My Own Timeが発売されていたとは

KarenDaltonKaren DaltonのIN MY OWN TIMEがCDで復刻発売されていたなんて知らなかった。

いま20代半ばから30代の方で、ご両親のどちらかが相当なアメリカの音楽(とくにシンガーソングライラー系)好きだったりしたならば、「カレン・ダルトンのインマイオウンタイムって聴いたことある?」とたずねてみていただきたい。

カレンダルトンを知らなければそれまでだけれど、もしも知っていたなら…。そうもしも、知っていたなら、このアルバムについての経緯が原稿用紙100枚分くらいは出てくるかと思う。その他、購入できた、もしくはできなかったという語るも涙の物語なども付録としてついてくるかもしれない。

それだけ、あの頃、このアルバムはアメリカ音楽ファンの間では伝説化されていたということになる。

さて、わたしの場合。

もちろん当時はビニール盤(アナログ)だったわけだけれど、このアルバムの存在を知ったときにはすでに輸入盤専門店では売り切れ。あちらこちらでアルバムの素晴らしさを耳にするわたしはどうしてもどうしてもほしくてほしくてしょうがなくなっていた。

当時はインターネットはなく、FAXさえ夢のまた夢。郵便で海外からモノを買っていた時代。結局のところその思いは学生時代の忙しさに埋没して一年ほどが過ぎていった。

年末のある日、当時新宿にあった某輸入レコード屋さんが年末バーゲンを行うというので友達たちと勇んで駆けつけたわたし。それなりのアルバムを手にしてほくそえんでいたそのときだった。友達が近寄ってきて一枚のアルバムをぼくに見せた。友達は、茶色のあのジャケットを手にしていたのだった「あった…。カット盤だけど…」。ぼくたちは狂気した。あった。こんなところに。

その日わたしたちはもう2枚ほどカット盤で入手困難といわれているアルバムを手にした。そのアルバムはまたの機会に譲るけれど、この時の衝撃は、噂に聞いていたカット盤の存在だった。ジャケットの一部に切り込みが入れられていて安い値段がつけられているというのがカット盤なのだが、時としてその日のようにとんでもないアルバムがとんでもない値段で売られたりすることがあったのだ。閑話休題。

帰ってから友達の家でこのレコードに針を落とした。名盤といわれ、噂が噂を呼んでいた理由はよくわかった。よいアルバムだった。

去年発売されていたのを知らなくて今年になって注文し今日やっと届いたこのCD盤になっても、その印象は、ちょっとセピアがかっただけで基本的な色合いは残っている。名盤であることは間違いないとおもう。

ただ、AMAZONの紹介などではフォークの名盤という存在になっているようだが、これはあくまで、あの時代のザ・バンドやその周辺の一連のシンガーソングライター系のミュージシャンたちが築き上げたダウン・トゥー・アースなアメリカンロックの流れの中で語るべきものだと思う。

いや、ここまで、書いて、アメリカ嫌いのわたしだけれど、本当にアメリカにはお世話になってきているのだなあ(笑)と改めて思ったりもする。ただ、わたしのお世話になったアメリカは、こちらからかなりの時間とお金をかけてアプローチしなければ正体を現してくれなかったアメリカではあるのだけれど。

そんなアメリカのひとつがこのアルバムだと断言させてもらいたい。

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05/01/07

なぞるように南へ

6時に起き船に電話をかけたのだが留守電になっている。いま泊まっている町に船は着くのだろうか。10月に来たときは海が荒れ反対側の町へついてしまい、たいへんな思いをしたのだがその二の舞だけはごめんだ。

などといいつつ、もう、腹をくくってこの町に船は着くと決めてもうひと寝入りを決め込む。

8時すぎに目がさめ、港に電話。予定通りだと知り安堵。一時間後ホテルを出て港へ。10時10分出航。これから9時間あまり南へ下っていく。

空にところどころ浮かぶにわか雨を降らす雨雲を従え船は南へ南へ。沖永良部を出航しても、航跡のはるかかなたに徳之島の姿が。進行方向に目をやれば与論島の先に、沖縄本島の絶対聖地である安須森(アスムイ)のギザギザした山容の影が浮かんでいる。そのうえ右手には伊平屋島まで。こんなに周辺の島々が拝める日は珍しい。

太古の昔、南下していったわれわれの祖先はこんな風景をみながら船を操っていたのだろうか。そして、安須森の威容に神を見ていたのかもと想像が膨らむ。

本島の本部港で日没。角がタッチューぎみだったので間違いないかと思うが徳之島で載せられたのであろう闘牛が3頭コンテナごと降ろされていた。

これからは夜の航行。残波岬までは暗がりに名護の町、ライトアップされたブセナ、恩納のホテル群によるあかりだけが浮かぶ真っ暗な世界なのに、そこから先は「沖縄は都会だ」ということをあらためて知らされる思い。

観覧車が見える美浜、宜野湾、浦添の住宅街。その中で最も強烈な光を放っていたのが嘉手納と普天間、ふたつの基地と滑走路の誘導灯だった。これだけのあかりを維持する電力は相当なものではないだろうか。

それでも西の空にはオリオンがまたたき、東京では天上付近にある昴がかなり低いところにうっすらと。闇に浮かぶ街の灯りというコントラストが幻想的でさえある。

ぼーっと見ているうちにいよいよ那覇港の防波堤内に入る。三重グシクを左に見て、右手にかつて存在した屋良座森グシクを想像し、かつての交易船のように船は漫湖へと遡れる那覇港へ。あの狭い港湾内でUターンしてから接岸。疲れていたので近くのホテルへ。

そばでも食べようと以前から何度も横を通っていた屋台風の店へ。思いのほか良い味だったのは収穫。

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04/01/07

闘牛場をぬけて

午前中に丘の上で牛が宙に浮かぶ姿を見てから昨日行った集落へ。午後にはこの正月最後の大会がこの地で開催されるのだが、なぜか虫が知らせたのかパスしてしまい海の方向へと降りていく。ウージ畑を抜けごつごつした岩が剥き出しの海岸にたどり着く。

そのひとつの岩の上に小さな鳥居を発見。海神を奉っているのだろうか。しかしこの島(だけでなく基本的に日本)では、神社や寺など神域は古代の聖地につくられる。現代では鉄塔やテレビ塔、巨大建築物なども。そう考えると興味深い。

海沿いの舗装されていない農道を歩いていくと海岸段丘の木立の中に井戸を発見。昨日お会いした方のWebサイトにも掲載されていないのでここは近現代のものなのか?。それにしては、覗き込んでわかる壁面のつくりは時代が新しいとは思えない。

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12/04/06

てんてんのインパクト

▼午後3時半の名瀬(瀬戸内町の人は「なせ」という人が多いような)行きバスまで時間があるので、瀬戸内町立図書館と併設されている郷土館へやってきた。
▼古仁屋の中心部から南へ歩いて20分ほど。一階に図書館。郷土館は二階。とりあえず郷土館をみてみる。
▼うん。よいなぁ、ここ。本当に、とてもよい。
▼優秀な学芸員さんの存在を感じる。こういうところに税金は注入してもらいたいものだ。
▼民具やかつての祭祀に使われた道具、瀬戸内町の民謡がボタンひとつで流れたり(元ちとせもありました)といった展示物の間に、瀬戸内町の祭りを見せるビデオがあった。
▼4つほどの祭りの映像を見られるようだが、そのうちのひとつに「西阿室のてんてん踊り」と書いてあった。
▼西阿室。昨日いった部落である。
▼その踊りは奄美大島の常識どおり豊年祭で行われるものだった。
▼西阿室部落が、ふたつにわかれ、お互いの花輪の派手さを競う。
▼その唄と踊り。両者とも前にふんどしを巻いた男性3人がその花輪飾りを持ち、そのあとに浴衣を来た、見た感じで40代以上の女性たちが左肩に盆を持ち、踊りながら土俵の周囲を回っていく。
▼そのメロディーと、花飾り。女性たちの踊り。
▼わたくしのツボだった。
▼時間があまりなかったため、2回見ただけで一階へ行き、蔵書チェック。あるある。郷土史関係充実。
▼ビデオといい、蔵書といい、このためだけにもう一度、この図書館、郷土館には来てもいいと思う。
▼そして、それ以上に、西阿室の豊年祭で、てんてんをみるためにやってくるというのも。

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10/02/06

平成生まれの新アイドル<エホウマキ>

多くの人が疑問を持ちつつも、なんとなく納得して参加しているエホウマキ。どうやらその出所は船場らしい。船場の商人の一部がやってたのだと。

んー、ほんとでしょうか。船場でぇ?しらねー。

うちの本家は京都だし、和歌山(ここは関西じゃないが)にも親戚多いけど、こんな風習は、まったくしらなかった。

で、そんなやってたかどうかわかんねーことを海苔屋が目付けて風習化を画策。その後コンビニが売り上げ向上イベントのひとつとして、とりあげて、全国へ。って寸法なのだそうですね。確実に平成産新伝統のひとつ。

まあ、われわれ日本人はちょっと古いかんじだったりするとすぐ伝統!などと思ってしまうだけでなく、耳障りがよかったり、人とは違うという雰囲気が漂ったりすると、すぐに取り込んでいくというクセがあるんで、そのあたりを広告代理店さんに、つかれたってことでしょうか。

考えてみれば、初詣などという風習も新しい伝統のひとつであるし、江戸時代だとお伊勢参りも作られた伝統で、土用のうなぎも有名。ベネディクトさん、あなたは偉い。伝統は20年あれば作られてきたわけですが、このコウドジョウホウカシャカイにおいては5年もあれば伝統は作られるのでしょう。

それでも、このエホウマキなどを見ていると、自分の経験や感覚の方がメディアや伝統より、よっぽど確実ってことの証左ではないかと思う昨今です。

で、わたくしは、はしたないことはやるなと用賀育ちのザーマス言葉のおばたちからきつくいわれて育ったおじょーひんな子なので(?)、エホウマキを口にいれるなんてできません。だって見るからに品ないでしょ?。「あほー」と字面がにているだけでなく、売れないアイドルにいそうな名前じゃないですか?エホウ「マキ」。

まあ、面白がってやる分には罪はないだけでなく、けーきかいふくのいちじょともなるのでありましょうから、やりたいひとは、やればいいんじゃないでしょうか?というか、もうやったんですよね。はいはい。

でもまあ、新しい伝統としてそれはそれで残っていくのもよいかと思います。他人事です。

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07/02/06

奄美のグスク遺構

▼これは「奄美諸島史の憂鬱 琉球弧の歴史情報blog」へのトラックバックです。
▼「奄美 グスク」で検索を行ったところ、なんとも素晴らしいBlogにぶつかってしまい一挙に熟読させていただきました。
▼わたくしは沖縄本島と八重山のグスク遺構を訪ねているのですが、与論から奄美大島にかけてのこのような遺構群も、一度、みてみたいと思い、今年4月に奄美大島と徳之島のグスク詣でを行おうといろいろと調べはじめたところでした。
▼しかし、以前名嘉正八郎氏の書籍などで見られる程度でその数があまりに少なく「見るのは一日で終わってしまう」とがっかりしていたのです。
▼しかし、高梨さんの一連の論文やお話を読んで巷間語られている以外のグスク遺構と呼べるものがあるのかもしれないと思うと、非常に楽しみになってきました。
▼わたくしは沖縄本島を中心に、世界遺産クラスから地元でもほぼ忘れ去られた単なる森といった風情のグスクまで、大小200近くを巡ってきて、やはり仲松氏の見解は非常に示唆に富んでいると感じるものがありました。
▼著名な今帰仁グスクにしても、南部の糸数グスクにしてもグスク門前町or城下町としての中世部落跡と思われる周辺地域が遡上にあまりのぼらない不思議。「集落空間におけるグスクの在り方」ということでしょうか。
▼マキョ、マキヨといった古代部落や沖縄の部落における古島(かつての集落跡)の存在。部落聖地。古代墓地跡。本州などでいう鎮守の杜的?。
▼現在沖縄のグスクと呼ばれる遺構は按司の居城といった巷間語られるものだけではなく、歴史的に、それぞれさまざまな機能を備えた、かつそれらがあるときは重層的に重なっている遺構であった可能性が高いのではないかと愚考したりしております。
▼そういった側面から奄美のグスクを見るとどうなるのだろうか?そんなことをとりあえず今はぼんやりと思っている次第です。
▼また、北部に多い石垣遺構が見られないグスクというのも、北部の方が奄美に近いので、そういうものかもしれないとおもったりも(これはおそらく沖縄本島中南部と北部の地勢の違いから来ているのかもしれないと思ったりしてはおりますが)。
▼本島北部と奄美大島の雰囲気は少なくとも本島中南部と本島北部よりも似ていると感じています。
▼そういえば、加計呂麻島の「徳浜スフィンクス」と呼ばれている岬も、わたくし的にいうとグスク遺構(聖地、集団記憶地)?。初めて写真を見たとき、伊是名グスクや、飛鳥の香具山に思いをはせたりも。ただいいかげんな感想ですけれど。
▼本土では多くの寺や神社が貝塚跡や古墳跡、古代の岬突端に構築されていることも多いようですが、これはグスク的というか、グスク的遺構が社寺仏閣的?どちらも、どこか霊的な、またはHollyな観念を集団い想起させるという点が共通しているようにも・・・。と、ぼんやりとしたものを感じたり。
▼おっしゃるようにこれからひとつひとつ実証していくべきことかと思いますが。

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05/02/06

単なる覚書

▼沖縄の聖地、グスクは縄文冬至線、夏至線にのっているのか。
▼はたまた三輪線にのっているか。
▼30里交差点はあるか?
▼ミルク信仰はミトラと関連はあるか。その伝播は?

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11/01/06

沖縄とはなんだろうか

▼薩摩時代、沖縄は薩摩に搾取されていたわけではあるが、同時に、その時代の首里から搾取されたていた宮古や八重山を忘れるのも、その時代、その時代でのご都合というものかとも思う。
▼薩摩を支配していた島津氏がもともとは大陸からやってきた人々であるという話はここでは置いておく。しかし、中国との朝貢貿易を行うために清に対しては沖縄を日本的に見せ、幕府には沖縄の小中華的部分を強調させるという巧妙な手段をとっていた。このあたり、薩摩には大陸および列島文化に精通していた人間がいたという事実は指摘できるのではないか。
▼さて、話を沖縄に戻すと、薩摩以前の沖縄本島の政権は奄美を属国化していたわけである。南走平家論的立場にたてば、かつての故地(奄美、喜界、徳之島など)を今一度奪還したのだという考え方もできるようではある。
▼宮古、八重山には考古学的にみて縄文的、弥生的本土文化は届かなかったようだ。実際、南方系文化の影響が強いように感じられる。とくに祭りなど。これは本当にポリネシアな流れを感じるものだ
▼本島でも北部やんばる(以後、山原)にはこの手の南方的なものが見受けられることも知っておいていいが、それをいったら日本で行われる大相撲というものにも南方的要素が見受けられるではないだろうか?。閑話休題
▼そんな中で、石垣に残る、フルストバル遺跡などをどうとらえるのか。
▼有史以前ということになれば、与那国や北谷沖の海底遺跡などという話も出てくるけれど、今のところ、このあたりの話については個人的に知識を得るだけにしておきたい。
▼現代のポピュラーミュージックはセンスと引用。そして経済でできあがっている。この視点にたつとオレンジレンジは完璧なポピュラーミュージックのカテゴリーに入るかと思う。しかし、これは、歴史的にみて沖縄において特異なことではない。意外だろうか?
▼いわゆる沖縄民謡。その中に、メロディラインや歌詞の多くを奄美、宮古、八重山、山原の民謡や古謡からの引用で形成された歌が少なくないという事実。登川誠仁御大は若かりしころ八重山へ民謡修行の旅に行っていたという話もある。八重山の歌を覚えるためである。
▼沖縄本島での民謡のいくつかは確実にポピュラーミュージックのカテゴリーに入れてかまわないはずだ。
▼よなは徹が昨年『うちなーわらべうた』というアルバムをプロデュースした。沖縄で歌い継がれてきた「古謡」や「わらべ歌」を集め、キャンパスがらみの歌姫三人が歌ったアルバム。これはよい。おすすめ。
▼それはよいとして、こういった、「うた」がいわゆる沖縄民謡のルーツのひとつであるという点も見逃せない。
▼沖縄民謡と呼ばれるカテゴリーには、八重山、宮古、奄美、山原地域からの引用。わらべうた、古謡、古典をもとにしたもの。そして、みーうた(新歌)。このみっつが現在の沖縄民謡の主な形成要素なのだ。
▼いま、メディア語られている、ウチナンチューが語る沖縄は本当の沖縄なのだろうか?

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10/01/06

沖縄はひとつ?

▼ここ数年恒例になってきた沖縄での新成人の大騒ぎのニュースを見ていて思うのだ。僕の知っている沖縄っぽくない行為だなあ、と。
▼もっとも、この手の子達は、那覇、浦添、南部地域では目にすることが珍しくないので、不思議ではないのだけれど、残念ながら(?)中北部でこういった暴れまわる子供たちをみることは稀なのだ。
▼これは「北谷までは行くけれど、那覇なんてここ10年行ったことがない」という人が中部地区に実際いるという現実を思い出せば不思議ではないかと思う。沖縄、沖縄とひとっからげにしても何も分からない。
▼おおまかに「南部」「那覇、浦添」「中部」「名護」「北部」と本島だけでも、5つぐらいの生活文化圏があり、それぞれに特徴があるといっていいのではないか。これに離島を入れれば、沖縄県には10前後の生活文化圏が存在するということになる。
▼考えてみれば、本土の首都圏であっても、足立区と目黒区の生活文化や価値観はまったく異なるし、大阪でも千里と長居では大きな生活文化の差異が見受けられる。それがあたりまえのことなのだ。
▼これは経済力だったり歴史であったり民族だったり宗教だったりさまざまな理由によるものだ。もしかしたら土地の記憶、積み重ねられてきた集合的無意識が醸し出す差異も原因のひとつなのかもしれない。
▼なので、那覇、浦添、南部あたりの出身中学同窓生が成人式後に集まって騒ぐというのは、独自の生活文化を維持している地域の独自の文化と考えていいのではないだろうか。。
▼ひとついえば、この騒ぎ方は21世紀になってからはじまったもので、それ以前は皆無であったという点は心にとどめておきたい。そして、この21世紀からというのは沖縄移住ブームが顕在かしてからであったりするのもなにやらポイントのような気がしないでもない。
▼昨年だったかちょうど成人式の時に那覇、コザあたりをふらふらしていたのだが、国道を爆走するトラックの上で新成人が拡声器を使って大声をだしていた。いわく「みーやうち、みーやうち」。おそらく新成人の一人を祝っていたのだろうが、この苗字、沖縄のものではない。あったとしてもかなり珍しい苗字である。
▼沖縄戦で30万人近くが亡くなっている。その多くの方が南部で犠牲になった方たちだ。では、なぜ南部が激戦地になったかといえば日本軍が大々的に展開していたからである。
▼そして日本軍が展開しているところには、軍役についていた旧日本人としての大陸出身者が大量に存在していた。とくに航空基地や港の周辺。これは戦前の日本いおいてはごくごくあたりまえの事実。おそらく、戦前、戦中の沖縄の航空基地なら、小禄、読谷、桃原、伊江島。港なら中城湾と那覇港。このあたりには多くの軍役の一般人がいたのは間違いがないところである。
▼彼らの中には職を求め、軍役のために海峡を渡ってきた人たちがかなりいた。そんな彼らが戦後GHQの政策で沖縄から大陸に帰ったかというと、これがなんとも、まったく資料が見つからない不思議。彼らはどこへ消えたんだろうか?。もちろん、戦前は日本人であるので、日本人として、つまり沖縄県民として生きることも可能だったのではあるが。
▼そういえば、今にも続く社大党などの沖縄独自の政党というのも、なかなか興味深い。
▼歴史書や伝説、神話、考古学、グスクなどから鑑みるに、沖縄には日本本土から武力を持った集団がやってきていたと考えるのが自然である。舜天は源氏系という伝説がある。あるところでは、南走平家の一門がやってきたという意見もある。
▼事実はわからないが、本土からなんらかの生活文化様式と武力をもった集団が11世紀から12世紀にかけて大量に沖縄にやってきたことを否定する事実もない。
▼未だに、沖縄南部を中心とした島尻郡に、伊是名と伊平屋が属しているのは、第一、第二尚氏の両系統の出身だからだろうが、なぜ北の島が…。確かに本土には近いが。
▼それをいったら、南部に島尻がある。頭は北。国頭(くにがみ)。
▼I氏の一族は沖縄の石油王一族で本部半島の出身らしいが、氏は、子供ころヤマトゥーと呼ばれていたという話もある。
▼門中関係の本を見ていても、本土に出自を遡れる家がいくつも散見するのが沖縄である。たとえば、著名政治家一族のO氏の出自は鹿児島らしい。不思議と沖縄の政財界でそれなりの地位を得ている人間は明治維新前に沖縄に土着していた本土出身が少なくないのも面白い。
▼いろいろな過去の事実を積み上げていくと、常に本土から人を受け入れつづけてきたことで、沖縄は地域ごとに、独自の文化を創造していくことになったように考えるのが自然ではないか。もちろん中国などの影響もないわけではないが、それは表層的なもののように思える。
▼「沖縄」はひとつではない。地域文化でもイデオロギーでも人類学的にも、さまざまな出自とさまざまな考え方の人間がこの小さな島の中に生きてきた。そして独自の地域文化を作り続けてきた。そしてそれは今も続いている。