うるま市の天願グスク(ツチグスクとも呼ばれる)。石川から具志川方面を眺めれば、そして市内の小高いところから、はっきりとわかるその姿。
しかし米軍基地(実際は海兵隊司令官家族の居住地らしい)キャンプコートニーのフェンスの内側にあるため系統だった調査がほとんどなされていないだけでなく、当然グスク探訪者もフェンスの外から指を加えて眺めるだけ。21世紀になってもお預けをくらったワンちゃん状態が続いてる。
その天願グスクを今日訪れることができた。

とりあえず細かい点はのちのち検証するとして、備忘録代わりに以下に状況をここに記す。
この時期、天願の部落はウートートー時期(旧暦九月九日から九月二十日とのこと)。ドゥシ(友達)のトゥジ(刀自=妻)が天願出身で、基地内に入るので一緒にどう?という誘いがあったのだ。
午前11時過ぎコートニーの中に入り直進。二つ目の十字路を右折すると左手前方に天願グスクのこんもりとした森が見える。適当なところに車を停め、芝生が植えられた斜面を上り、森の中に入っていく。
軽自動車なら通れそうな上り坂が続いている。両側の森の中にはところどころ野面積みの後が見える。住居跡なのかもしれない。あがっていくと階段跡と思しき珊瑚で作られた段差がいくつか。ウートートーの時期にはこのあたりの草刈りをするという話だったので後年作られたものか、昔からあるものなのかは不明。というか、この道自体昔からあるものかどうかも不明だ。

最後の上りの手前に、門の跡らしき岩場があり、その右手奥にふたつのガマ(洞穴)。手前のガマは人が入りきらない程度の小さい穴で奥の穴の手前には「荒フチの男神 ビジル美人の女神 二人は夫婦グサイの神 こちらで拝んでください」と書かれた碑が建てられている。ガマの中を覗くと5人ほどは入れる大きさでクールー(香炉)が。お年寄りや子供の場合、中に入るのは難儀なので、ガマの手前でウガミしてくださいということのようだ。

ドゥシによると宇堅側にアラフチ(アラブチ)という名前の地域があるがそれと関係あるのかも、とのこと。となるとこのウガミ場所は天願側だけでなく宇堅側の人にとっても聖地なのだろうか。そしてなにより、この天願グスクを中心として分かれる天願と宇堅という両集落の成り立ち、とくに屋取(ヤードイ)期以前のことがとても気になった。
そこから上っていくと、右手に大きな窪地がある。浦添グスク山頂の窪地を小さくしたものを想像してみるといいかもしれない。降りてみると足元は奄美の積み石墓のような状態で壁面はどうやら石を積んでふさいでいるように見える。普通に考えれば古墓か。ただもしかすると井戸、窯跡という可能性も。調査が入ればはっきりするのではないだろうか。20分もあればひっくり返せそうだったが、当然見るだけ。早期の調査を望みたい。
そこからあがると山頂となり、ナー(庭)が広がる。左手はコザのインジングスクのような岩。右手は平坦な森。左手の岩場はところどころ削られた跡が見受けられ、クールーが置かれている。右手の森の部分は平坦でおそらくここを掘れば何か出てくるのではないだろうか。表面調査だけしてみて、あるものが目に付いたが、ここでは書かない。

まっすぐ向かうと、木と草の影に宇堅の知人の家が見える。そのはるか向こうに勝連グスクの姿。草刈りすれば非常に見晴らしがいい場所だ。子供の時はここから「わあすごい景色」と楽しんだとはドゥシのトゥジの弁。ふと右を見ると水準点が。
ナーにもどり右に。つまりあがってきた方向からすれば左手へ向かうと、両側が岩にはさまれた1画に出る。両側にクールーがある。その正面に目をやると現宇堅ビーチ左手の断崖が。先まで行くとどうやら降りる道があるようだ。ドゥシのトゥジの話によれば、きちんとしたウートートーはこのグスク内で行われたあと、断崖の先にあるウガンにいくとのこと。祖先のやってきた道を辿る儀式ということになるのではないだろうか。つまり、この一帯の祖先は宇堅の浜からあがった集団と想像をめぐらすことも可能だ。そして、この金武湾一帯は中世には一大交易地として栄えたという実績があるので、貿易のための重要港湾施設が正面に見える断崖か宇堅の浜のどこかにあったと考えることもやぶさかではない。
そしてその先には軍艦のような姿を見せる宮城島と伊計グスクを抱える伊計島が真正面に。見えるということはその場所を意識せざるを得ないということ。太古の人はどのような気持ちでこの風景を眺めていたのだろうか?

こうなると頭の中はぐるんぐるん。過去の歴史に思いをはせ、それだけではなく、さっきのガマや窪地は何か?。歩いてあがってきた道以外の場所に何かがあるのではないか。などなど、今後どう検証を進めるか思い描き妄想を繰り返す。
この天願グスクの南には天願貝塚跡があり、東に宇堅貝塚。その先には沖縄電力の発電所の一部となっているもののまだ若干残っているクーグスク。その先には具志川グスク。勝連グスク。それらの関係は、時代的な変遷は。金武湾一帯の集落の成り立ちは? 宮城、平安座、伊計の各島と関係は。
とりあえず、今日のところはこのあたりにしておこうと、グスクを降り、車でグスクのまわりを一周する。グスクの東側には「天願城」と看板を掲げた米軍の施設があった。一応、軍も意識しているようだ。このとき南の方見て気がついたのだが、天願貝塚方面に森が続いているようにも感じられる。グスクの周辺もブルトーザーが入っているのは確実なので、天願グスクの領域、もしくは天願グスクを中心とした集落の範囲は、先の断崖の岬のあたりから天願貝塚。つまり天願川のあたりまで広がっていたと考えることもできるだろう。
鎌倉の繁栄に例えられた勝連グスクは日本や大陸との中継貿易で栄えたらしい。奄美の喜界島にも勝連の人が渡っていた形跡もある。その勝連グスクを中心とした地域と同じくらいの規模がこの天願グスク周辺にあったという可能性も否定はできない。
なんといっても、現在知られた沖縄の歴史や伝承、文献は薩摩傀儡政権期にまとめられたものであり、その薩摩の影響を排除したとしても、首里を中心とした正史を前提としたものと考えられる。首里が大陸に朝貢し中華王朝的要素があったと考えれば正史は過去の歴史を抹殺し自らの正当性を語るために作られたと考えるのが普通だろう。
つまり首里だけではない、それ以前の沖縄の歴史に考察を加えていく意味でも、こういったグスクの存在と集落構造の研究は大切なのではないかと考える次第。ただ旧具志川市一帯は屋取集落が発展したところなので首里や那覇の影響は多分に受けているはず。その屋取とそれ以前から集落を形成していた人々とはどのような関係にあるのか、ないのか。
ひとつだけ確実にいえるのは天願、宇堅両部落の小中学生などにとっては格好の歴史教材が基地の中にあるということになるのではないだろうか。
結局のところウガミは早々に終わったのに2時間弱もドゥシたちをつきあわせてしまった。帰りがけに基地内にあるタコベルでタコスを食べてお土産にバーガーキングとピザを買って外に出る。出るときはアメリカらしく去るものは追わずのフリーパス。
午後はドゥシの牛の練習試合。天願グスクも、牛たちのオーラシーを眺めていた。