01/03/08

轟木側のコブと谷と尾根

天城町大城山の轟木側のコブ(つまり徳之島町側になる)へ上った。水が流れた跡と思しきところを上ると、大きくU字型に削った形跡がある巨大な谷の空間。何段かの石垣や巨石が。そこからGPSを頼りに急斜面をあがっていく。

結論をいえば、期待した、天城側のコブ(いわゆるフーグスク)にあったような巨石の拝み場所は発見できず。残念。ただここのコブはかなりまるくなっていて植生も年代が浅い。そしてお約束の松があり、となると、人の手が入っていた可能性はあるのか、と。

Fugusukuone

その場所を大城山方面に降りると峠に出る。そして尾根伝いにいけば大城山の山頂。進んでいくと、実際、道は見えているのだけど、木が邪魔してアウト。たぶん10年以上踏まれていない。行くならノコギリとナタ必須。ただ、この尾根、とても見晴らしがよく、花徳側の海が見える。そして大城山山頂から続く轟木からみえる三角山も目の前。

で、その北側に田んぼと思しきあと。段差と水を流した小さな掘り込みが。知人の話では轟木にあった染物のための田んぼではないか?とか。

このあたりであきらめて下山。

Fugusukuzentai

もときたU字型の谷のところへ来たのだけれど、よーくみると、この空間、内地的にいえば神社の境内ような作りのように感じる。神社といってもいわゆる聖地であった頃の神社。


Fugusukuiashigaki

参拝道と思しき石や、土止めも兼ねているような石垣。水を流したような跡。

R0011450

なんだか女性に見える石への彫りこみ。

Fugusukumitate

そしてふとみると、なんだか大城山を模したような岩。見立てというやつですが、見れば見るほど大城山の姿と似ている。手前のコブもあるし。

なんとなくだが、この場所、いわゆる当時の方の公園や内地でいう鎮守の杜みたいなもんだったんじゃないだろうか。暑い時に涼みに来る場所。そして拝みの場所でもあって、ここから奥は神女しか行けないところとか。

松原側と違って、ふんわりしたやわらかい雰囲気が漂っている。


Fugusukuentrance1

車をとめた道路に下ると、入るときに水が流れていた跡と思しきところは、滝だったんじゃないか?という思いが。気持ちよい水がいっぱいの。そしてよく見れば入り口の両側にたっていたんじゃないかと思しき石がふたつ。

もしかしたら大城山への正式の登山道(参拝道)はこちら側(徳之島町轟木側)だったのだろうか?。とにかく尾根からの景色が素晴らしい。整備すれば気持ちいい登山道かもしれない。

しかしなぜ徳之島には三角形の山頂の山が多いのだろうか。いや多すぎるし。

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13/02/08

まさにこれぞ灯台下暗し

大城山に登ろうと思っていたのだけれど昨日からの雨+本日の時々雨の天気で断念。

友達と何度も何度も通っていたけれど、いつも「ほお」「怪しいねえ」などとつぶやきながら通り過ぎていた与名間と手々の間。与名間灯台やムシロ瀬のあたり。

徳富先生の地名考を参考にめぐることに。

加えて、先日も書いたけれど別の知人から「ムシロ瀬は神殿の跡で、 ふりかえったら、山の上に羽のついた竜が飛んでいた」という話を確認しようと。

とりあえず空港から出発するが雨が降っていたので島に三軒しかないコンビ二のひとつで昼食。お弁当を食べる。島のコンビニの場合工場からできあいを持ち込んで作ることはできないので、すべてがコンビニ内で製造。これがなかなかおいしい。いいのか悪いの。

雨も上がり北の空も明るめになってきたので出発。

徳富先生の文章に残る「大和城 天城町の最北部」という文言を頼りに携帯にインストールしたGoogle Satで怪しそうな森をチェックしながら進む。

どう考えても山手側にある三角形の山が怪しい。以前から目をつけていた山。旧道に入ると土地改良がなされているにも関わらず残されている小さな丘陵の上に巨石遺構を発見。ノロ系の拝みどころなのか。ちょっと進むともっと大きな遺構も。なんなのだろう。これは。

やはりあの山が怪しい。登る道を捜すことに。近くの牛舎に人がいたので聞いてみた。しかし山に上がる道はないとのこと。それならばとこのあたりの字名を聞いてみると、県道の山よりは「はげだけ」。海よりが「さぎばる」。手々側が「いしぐじん」。

「はげだけ」。今はこんもりとした森になっているにも関わらず「はげだけ」とは。人の手が入った山で、その後、荒れていた。山城跡で戦闘後に放棄されたと考えたらどうだろう。見晴らしも素晴らしい。

ちなみに井之川の大城(ふーぐすく)も「はげやま」と呼ばれていたらしい。

「さぎばる」。これは字名にある「崎原」。

そして「いしぐじん」。友達によると「ぐじん」とは島の言葉で「たくさん」ということらしい。つまり「石がいっぱいある場所」。

手々方面に行ってみる。するとある場所で怪しい場所を確認。車を降りて目を凝らすとヤブの奥、森の中に大量の巨石群を発見。なんなのだ?。以前いった手々山中の石場から切り出したような。そんな岩があちこちに。GPSにマークしてとりあえず今日はそこを離れる。

続いて右に折れて海岸方向へ。そここに巨石のあとがある。単に置いてあるもの(自然にできたとは思いにくい)。こんもりした丘の上に置かれた巨石。そういったものが散見する。うーむ。これは。

そして与名間港へ。ここもどう考えても不思議な石に囲まれている。すべて自然だろうか?

極めつけは与名間灯台。

知人もはじめてくるという。上がって、周りの斜面を見ると、人工的に割られた石が丘の斜面に散乱。ところどころ石を積んだ跡も確認。間違いなく見張り台か住居か拝み所に使われていたに違いない。降りたところに畑地になった平場もあった。グスクといってよい。

「灯台下暗し」とはまさにこのこと。灯台は海側から見えやすいよい場所に作る。当然それは昔の人も同じだ。話によると亀徳の灯台の場所もグスクだったとのこと。なるほど。

友達の仕事の時間になったので海沿いの小道を散策がてら亀津へ。途中、ちょっと変わったお墓群をみつける。

知っているけれど、知らない場所はまだまだありそうだ。

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30/01/08

天願グスクについて再び

天願の公民館を訪れた。

区長さんにいろいろなお話を聞く。

わかったことは、先日行った、拝所のある森は、地元では「霊化森」と言っているとのこと。なるほど。

その尾根伝い南東、現在破壊されて部隊内の図書館になっているところが、チュムイ(人森)。沖縄の古典踊の南島(フェーヌシマ)の舞台になった場所らしい。びっくり。難破したオランダ人をかくまった場所。破壊されてしまって残念とのこと。そりゃそうだ。

その南、天願交差点に面した山にウタキがあってその中腹に戦前までは天願小学校の校舎があった。写真も見せていただいた。

県道をはさんで天願貝塚。その南が現状天願グスクといわれている場所。地元ではツチグスク(土城)と呼んでいる。こういった状況から「天願グスクはツチグスクといわれている」とあちこちで書かれているのだろう。

ところが、区長さんいわく「霊化森だけは部落の共有地だったのです。ですから、天願グスクとは霊化森のことではないか?」と。

一部は宇堅側の人の土地になっているらしいが、現在も基本的に天願集落の共有地であるらしい。個人的にここに入ってみて、いろいろ見たわけだが、まったく、区長さんのおっしゃる意見に賛成である。

もっといえば、この霊化森からツチグスク、天願川を下って野鳥の森公園あたりまでの尾根づたいが天願按司の居城の領域だったのではないか?そう考えたらどうだろうか?琉球史ではほぼ消されている沖縄の歴史。

現在、集落史の編纂を考えておられるとのこと。いろいろな話が出てくることを期待したい。

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28/01/08

帰る日に滝登り

今日は島を離れる日。

飛行機は午後4時前の便なので時間がある。飛行機の時間まで知人たちと島の西側、秋利神という地区を探索。

どうやら絶壁が迫る港の脇に小川が流れてでいる。そこから上を目指す。いつものように鎌を手に藪をかき分け進んでいく。足元は水が流れる滝でツルツルとすべる。自然が作ったものか人工かどうかは定かではないが、ある程度藪をかき分けると、階段状になっていることにも気づく。

登り切るとだいたいの全容がわかった。左手に芋科の植物が群生していたところは、昔の棚田の後。登りきったところにイジュン(湧水)。近くにはどうやらお墓のようなものや石垣を積んだ跡もある。

あとで確認したが、このあたりに住んでいた人が使っていた浜に降りる道らしい。そしてこのイジュンから右手に上って行けば、上の道に出たことも、この地に住んでいた人とGPSのログデータからほぼ判明。惜しかった。

さてどうやって降りようかと思ったのだが、藪を刈りながら進むが断崖絶壁に出てしまい、やむなくもと来た階段状の滝を下る。足元が滑るので慎重に。しかし草を刈っていたので、思っていたより楽に降りられた。おかげさまで、靴やジーンズの裾は水びたしでびちょびちょである。

1時間後、そのまま飛行機に乗ったら、僕の泥だらけの姿を見て、キャビンアテンダントの女性に「島では何をされてたのですが?」と聞かれ「山登りです」と答える。間違いではない。隣の席はあいていたので他の人に汚れがつかなくてよかった。

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27/01/08

グスクをめぐって夜光貝を食べた日

昨日、ウンノーグスクの南北の全容がだいたい把握できたけれど、あまりに巨大なグスクではないかという結論になった。I町の史跡が増えることになるけれど、全体に調査を入れると3憶ぐらいかかるのではないかと。

今日はそのウンノーグスクに島の若い女性をひとり連れていった。こういった史跡に興味あるだけでなく、徳之島の唄者としても有名な子だ。実は昨年全国の若手を集めた民謡大会で優勝している。こちらとしては三日連続で飽きてきてはいるだが(笑)、どうしてもということで友達たちと昨日発見した道を行く。

その後、島東部の友達が新しく発見したグスク跡を確認しにいき、続いてB地区の線刻画を確認したあと、B集落へ。

ここには噂に聞いていた知人たちの知り合いの夜光貝でアート作品などを作っている方がいる。その工房へ。いろいろ話がはずんだ。どうやらこの方はもともとは漁師でもあるらしい。夜光貝の殻は朝鮮半島で作られていた螺鈿細工に使われていた。身は食べてもおいしい。

すると同行した女性が工房の主から夜光貝を三つほどもらった。その場で身を取り出してもらう。素早くナイフで縁をこそげないと身が縮んでとれなくなる。さすが鮮やかな手さばき。

そのまま、I町へ。昨日同行した女性陣が話をしたいというのでいろいろ話をする。そして夜は同じI町の知人の家で先ほどの夜光貝をいただく。身のやわらかいところは刺身。硬いところは圧力鍋で。うまいなあ。

この島は普通に幸せがまだあるように思う。

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26/01/08

アマミクの里とグスク群。地球の鼓動と人の営み

I町の女性陣と町の東方のイジュンをめぐる。

何度か来たことがあるミョーガングスクそばにあるイジュン(湧水)へ案内される。

おお。ここも凄いぞ。イジュンの出口には鍛冶屋跡。前方にウージ畑。つまり以前は田圃。右手に台地があり、案内してくれた地元の女性に「ウフヤーがあの辺にあったのでは?」というとやはり「フーヤがあった」とのこと。絵にかいたようなアマミクの里ではないだろうか。

その後も別のイジュンやグスク跡をめぐりこのあたりがグスク地帯であることを改めて確認。最後には何度も行っている穴川神社へ。ここもイジュンが著名。いつもきれいにしていて地元の人の信心が厚いことを物語る。

いろいろ話をしていたら、この場所の掃除をしているのが、本日案内してくれた女性であることが判明。若いのに立派だ。感服。その女性の話によるともともとの集落はこのイジュンのそばにあってかなり大きかったらしい。ここも絵にかいたようなアマミクの里。

帰り際に、塩田跡へ。江戸時代からのものらしいが、サンゴのごつごつした海岸を削り取って塩田として使っていたのこと。見事。先人の労力が偲ばれる。近世から近代にかけての立派な遺跡だ。

一緒に行った女性陣の中に地質に詳しい友達がいて、この塩田のとなりにある巨大な岩へ案内される。周辺とはあきらかに違う。地質学でいうメランジュ。いろいろ混じり合ったというフランス語から来た名前だが、これだけ大きく立派なメランジュの岩が顔を出しているところって日本にあったか?確か四国のどこかが有名だったように思うけれど。

やはりその友達いわく地質学の先生が来た時も驚いていたらしい。

この場所、地球レベルの年代から近代までの見どころが。ちょっと整備すれば立派な観光地というものではないか。

この島はスゴイものにあふれている。

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24/01/08

ウンノーウガン

Unnouganjyo
昨年怪しいと睨んで探索を試みたけれど、
ハブが怖くて断念したウンノーウガンの奥のほう。
町の方々が草刈をしてくださっていて今日入ってみた。

結論。唖然。

もしかしたらとんでもないところかもしれない。
いろいろな要素が詰まっている。

ここの北側に広がる文化財の中世焼き物地帯とともに、
中世一大工業都市だった可能性も。

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21/10/07

天願グスク近辺探訪雑記

うるま市の天願グスク(ツチグスクとも呼ばれる)。石川から具志川方面を眺めれば、そして市内の小高いところから、はっきりとわかるその姿。

しかし米軍基地(実際は海兵隊司令官家族の居住地らしい)キャンプコートニーのフェンスの内側にあるため系統だった調査がほとんどなされていないだけでなく、当然グスク探訪者もフェンスの外から指を加えて眺めるだけ。21世紀になってもお預けをくらったワンちゃん状態が続いてる。

その天願グスクを今日訪れることができた。

天願グスク海側から

とりあえず細かい点はのちのち検証するとして、備忘録代わりに以下に状況をここに記す。

この時期、天願の部落はウートートー時期(旧暦九月九日から九月二十日とのこと)。ドゥシ(友達)のトゥジ(刀自=妻)が天願出身で、基地内に入るので一緒にどう?という誘いがあったのだ。

午前11時過ぎコートニーの中に入り直進。二つ目の十字路を右折すると左手前方に天願グスクのこんもりとした森が見える。適当なところに車を停め、芝生が植えられた斜面を上り、森の中に入っていく。

軽自動車なら通れそうな上り坂が続いている。両側の森の中にはところどころ野面積みの後が見える。住居跡なのかもしれない。あがっていくと階段跡と思しき珊瑚で作られた段差がいくつか。ウートートーの時期にはこのあたりの草刈りをするという話だったので後年作られたものか、昔からあるものなのかは不明。というか、この道自体昔からあるものかどうかも不明だ。

天願グスク入り口から

最後の上りの手前に、門の跡らしき岩場があり、その右手奥にふたつのガマ(洞穴)。手前のガマは人が入りきらない程度の小さい穴で奥の穴の手前には「荒フチの男神 ビジル美人の女神 二人は夫婦グサイの神 こちらで拝んでください」と書かれた碑が建てられている。ガマの中を覗くと5人ほどは入れる大きさでクールー(香炉)が。お年寄りや子供の場合、中に入るのは難儀なので、ガマの手前でウガミしてくださいということのようだ。

天願グスクガマ

ドゥシによると宇堅側にアラフチ(アラブチ)という名前の地域があるがそれと関係あるのかも、とのこと。となるとこのウガミ場所は天願側だけでなく宇堅側の人にとっても聖地なのだろうか。そしてなにより、この天願グスクを中心として分かれる天願と宇堅という両集落の成り立ち、とくに屋取(ヤードイ)期以前のことがとても気になった。

そこから上っていくと、右手に大きな窪地がある。浦添グスク山頂の窪地を小さくしたものを想像してみるといいかもしれない。降りてみると足元は奄美の積み石墓のような状態で壁面はどうやら石を積んでふさいでいるように見える。普通に考えれば古墓か。ただもしかすると井戸、窯跡という可能性も。調査が入ればはっきりするのではないだろうか。20分もあればひっくり返せそうだったが、当然見るだけ。早期の調査を望みたい。

そこからあがると山頂となり、ナー(庭)が広がる。左手はコザのインジングスクのような岩。右手は平坦な森。左手の岩場はところどころ削られた跡が見受けられ、クールーが置かれている。右手の森の部分は平坦でおそらくここを掘れば何か出てくるのではないだろうか。表面調査だけしてみて、あるものが目に付いたが、ここでは書かない。

天願グスクナー

まっすぐ向かうと、木と草の影に宇堅の知人の家が見える。そのはるか向こうに勝連グスクの姿。草刈りすれば非常に見晴らしがいい場所だ。子供の時はここから「わあすごい景色」と楽しんだとはドゥシのトゥジの弁。ふと右を見ると水準点が。

ナーにもどり右に。つまりあがってきた方向からすれば左手へ向かうと、両側が岩にはさまれた1画に出る。両側にクールーがある。その正面に目をやると現宇堅ビーチ左手の断崖が。先まで行くとどうやら降りる道があるようだ。ドゥシのトゥジの話によれば、きちんとしたウートートーはこのグスク内で行われたあと、断崖の先にあるウガンにいくとのこと。祖先のやってきた道を辿る儀式ということになるのではないだろうか。つまり、この一帯の祖先は宇堅の浜からあがった集団と想像をめぐらすことも可能だ。そして、この金武湾一帯は中世には一大交易地として栄えたという実績があるので、貿易のための重要港湾施設が正面に見える断崖か宇堅の浜のどこかにあったと考えることもやぶさかではない。

そしてその先には軍艦のような姿を見せる宮城島と伊計グスクを抱える伊計島が真正面に。見えるということはその場所を意識せざるを得ないということ。太古の人はどのような気持ちでこの風景を眺めていたのだろうか?

天願グスクから宮城島

こうなると頭の中はぐるんぐるん。過去の歴史に思いをはせ、それだけではなく、さっきのガマや窪地は何か?。歩いてあがってきた道以外の場所に何かがあるのではないか。などなど、今後どう検証を進めるか思い描き妄想を繰り返す。

この天願グスクの南には天願貝塚跡があり、東に宇堅貝塚。その先には沖縄電力の発電所の一部となっているもののまだ若干残っているクーグスク。その先には具志川グスク。勝連グスク。それらの関係は、時代的な変遷は。金武湾一帯の集落の成り立ちは? 宮城、平安座、伊計の各島と関係は。

とりあえず、今日のところはこのあたりにしておこうと、グスクを降り、車でグスクのまわりを一周する。グスクの東側には「天願城」と看板を掲げた米軍の施設があった。一応、軍も意識しているようだ。このとき南の方見て気がついたのだが、天願貝塚方面に森が続いているようにも感じられる。グスクの周辺もブルトーザーが入っているのは確実なので、天願グスクの領域、もしくは天願グスクを中心とした集落の範囲は、先の断崖の岬のあたりから天願貝塚。つまり天願川のあたりまで広がっていたと考えることもできるだろう。


鎌倉の繁栄に例えられた勝連グスクは日本や大陸との中継貿易で栄えたらしい。奄美の喜界島にも勝連の人が渡っていた形跡もある。その勝連グスクを中心とした地域と同じくらいの規模がこの天願グスク周辺にあったという可能性も否定はできない。

なんといっても、現在知られた沖縄の歴史や伝承、文献は薩摩傀儡政権期にまとめられたものであり、その薩摩の影響を排除したとしても、首里を中心とした正史を前提としたものと考えられる。首里が大陸に朝貢し中華王朝的要素があったと考えれば正史は過去の歴史を抹殺し自らの正当性を語るために作られたと考えるのが普通だろう。

つまり首里だけではない、それ以前の沖縄の歴史に考察を加えていく意味でも、こういったグスクの存在と集落構造の研究は大切なのではないかと考える次第。ただ旧具志川市一帯は屋取集落が発展したところなので首里や那覇の影響は多分に受けているはず。その屋取とそれ以前から集落を形成していた人々とはどのような関係にあるのか、ないのか。

ひとつだけ確実にいえるのは天願、宇堅両部落の小中学生などにとっては格好の歴史教材が基地の中にあるということになるのではないだろうか。

結局のところウガミは早々に終わったのに2時間弱もドゥシたちをつきあわせてしまった。帰りがけに基地内にあるタコベルでタコスを食べてお土産にバーガーキングとピザを買って外に出る。出るときはアメリカらしく去るものは追わずのフリーパス。

午後はドゥシの牛の練習試合。天願グスクも、牛たちのオーラシーを眺めていた。


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06/10/07

S氏所有のT先生書籍よりのグスク地名

◎徳之島町

 ○手々
  大和城   ヤットグシク
  城田     グシクダ

 ○金見
         グシクバル(俗称地名)
 
 ○
  山城    ヤァグシク

 ○轟木
  大城    フグシク
  城田    グシクダ

 ○花徳
  宮城    ニャギィグシク
  上城    ウィグシク
  城畠    グスクバテ
  城ノ又   グシクヌマタ
  中城    ナァグシク(殿地)

 ○母間
  城      グシク
  宮城    ニャギィグシク

 ○下久志
        グスコ(俗称地名)

 ○井之川
  大城    フゥグシク
  城      グシク
  東城?   アガリグシク
         ウィニグシク

 ○神之嶺
         グシコ(俗称地名)

 ○諸田
  山城赤畑  ヤァグシクアァバテ
 
 ○徳和瀬
  山城    ヤァグスク

 ○亀津
  大城跨   フゥグシクマタ

 ○尾母
        ウシクド
        マサグシクバテ(俗称地名)

◎伊仙町

 ○喜念
        タマグシク(俗称地名)

 ○佐弁
        グスクダ
        フゥドバルグシク

 ○面縄
        ウスクト
        恩納グシク(俗称)=面縄グシク?=

 ○阿権
  城俣    グスクマタ
         フゥドバルグシク
         タァミジグシク(俗称地名)

 ○木之香
         アマングシク

 ○阿三
  浅間按司城 アザマアジグシク(俗称地名)

 ○犬田布
  下内城    サァウチグシク
           ウスクブレ
  明眼按司城 ミョウガンアジグシク(俗称地名)
  
 ○糸木名
  上ウスク俣 ウィウスクマタ
          ウスク俣
          ウスク
          南ウスク
          下ウスク俣

◎天城町

 ○天城
  納城
  南山城
  西山城
  大和城山 ヤマトグシクヤマ(248m)
  玉城    タマグシク
         グシク(俗称地名)

 ○松原
  大城    フゥグシク
  城配田   グシクフェジャ
  城田    グシクダ
  松当城   マチントゥグシク
         グシクントゥ
 
 ○与名間
  城当    グシクントゥ
  城      グシク
  大和城   ヤマトグシク

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08/07/07

ある島のある場所で見たもの

とある島の北側に妙なところがいくつかあると、地元の友達に聞いて、一緒にいってみた。

数箇所巡ったのだが、そのうちのひとつの場所に巨石が鎮座する妙な場所があった。基本的には、良いヴァイブレーションを満ちているところなのだが、何か負のエナジーも漂う。それでも、基本的には選ばれた場所であろうと感じられるのだった。

とりあえずその日は、鎮座する3mX7mはある巨石や周辺の雰囲気を写真におさめただけで戻ったのだが、三日後の今日、再び友達たちと訪れてみた。

最初の感想にはかわりないけけれど、じっくり観察をしていくといろいろなことが目に付いてきた。

まずその巨石。非常に大きいのだが、同行者が上に上って掃除をしてみたところ、なにやら表面に溝を掘ったような跡がある。飛鳥の酒船石をふと思い出した。

そしてその巨石の後方、一番手前に石舞台的な平べったい石がある。もしかしたらここで祭祀を行ったのか?。また、そこから上に向かって石が参道のように積まれていたのではないかと。実際、崩れたように両側に石がごろごろしているのだ。その奥には、表面を磨いた痕跡のある石がふたつ。こういったことから間違いなく祭祀に関する場所だったのではないか、と。

そしてはたと気がついてコンパスで方角を確認すると、その巨石から後方のふたつ磨いたふたつの石の線が南北にまっすぐだった。そしてその巨石の軸が真北から西に20度ほど曲げておかれている。

これは、もしかしたらアレではないか?違うかもしれないけれど、その可能性はゼロではない。

その夜、一緒に行った人からの情報で、この場所はかつて山を降りたところにある集落の拝み場所だったことを知った。ただ、近年はこのあたりでは自殺者などが多く、誰もよりつかなくなっている、と。

最初の感覚は正しかったのかもしれない。もともと良い場所のはずなのに、何か違和感を感じたということ。

日本は本当に広くて深い。


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04/01/07

闘牛場をぬけて

午前中に丘の上で牛が宙に浮かぶ姿を見てから昨日行った集落へ。午後にはこの正月最後の大会がこの地で開催されるのだが、なぜか虫が知らせたのかパスしてしまい海の方向へと降りていく。ウージ畑を抜けごつごつした岩が剥き出しの海岸にたどり着く。

そのひとつの岩の上に小さな鳥居を発見。海神を奉っているのだろうか。しかしこの島(だけでなく基本的に日本)では、神社や寺など神域は古代の聖地につくられる。現代では鉄塔やテレビ塔、巨大建築物なども。そう考えると興味深い。

海沿いの舗装されていない農道を歩いていくと海岸段丘の木立の中に井戸を発見。昨日お会いした方のWebサイトにも掲載されていないのでここは近現代のものなのか?。それにしては、覗き込んでわかる壁面のつくりは時代が新しいとは思えない。

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03/01/07

牛やら遺跡やら

いよいよこの正月のメインイベントである全島一大会。場所はバスで20分ほどのところ。しかし正月の三日間バスは間引き運転。結果、到着がぎりぎり。

登場する25パーセントは沖縄で知っている牛。トレード(というか売り買い)が盛んなのだ。たとえば石垣の某超有名女性闘牛士のところにいた軽量級の牛(角をあわさず敗退)などなど。真打は誰もが認める沖縄チャンピオン八重山酋長(現大福環境開発一号)。10月に見た大会で全島一をとってから初の防衛戦。7分まで一進一退の攻防で場内がわいたものの、「酋長が勝つなら10分以内の決着」というテーゼどおり、8分すぎに軍配があがる。大福環境開発一号勝利。それでも対戦相手の徳之島台風は善戦だったといえるかと思う。

終了後すぐにネットで知り合った知人に電話をかけ役場前で待ち合わせ。8箇所ほどこの島のスポットを巡る。二箇所の線刻画は興味深く、グスクとよばれている三角形の山やすり鉢型の岬は、まさにそうだと確信できるつくり。はたまた古代から中世にかけて九州から台湾あたりまでの生活に欠かすことができなかったカムイヤキという焼き物を作っていた窯跡。古の京浜工業地帯みたいなものか。そうかと思えば、とある伝説のある洞窟やら、盛りだくさんの4時間。さまざまな話もする。研究者の間でも有名なとある集落は実は三つの集落の集合体であることを教わったり。再会を約しホテル前で別れる。

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07/02/06

奄美のグスク遺構

▼これは「奄美諸島史の憂鬱 琉球弧の歴史情報blog」へのトラックバックです。
▼「奄美 グスク」で検索を行ったところ、なんとも素晴らしいBlogにぶつかってしまい一挙に熟読させていただきました。
▼わたくしは沖縄本島と八重山のグスク遺構を訪ねているのですが、与論から奄美大島にかけてのこのような遺構群も、一度、みてみたいと思い、今年4月に奄美大島と徳之島のグスク詣でを行おうといろいろと調べはじめたところでした。
▼しかし、以前名嘉正八郎氏の書籍などで見られる程度でその数があまりに少なく「見るのは一日で終わってしまう」とがっかりしていたのです。
▼しかし、高梨さんの一連の論文やお話を読んで巷間語られている以外のグスク遺構と呼べるものがあるのかもしれないと思うと、非常に楽しみになってきました。
▼わたくしは沖縄本島を中心に、世界遺産クラスから地元でもほぼ忘れ去られた単なる森といった風情のグスクまで、大小200近くを巡ってきて、やはり仲松氏の見解は非常に示唆に富んでいると感じるものがありました。
▼著名な今帰仁グスクにしても、南部の糸数グスクにしてもグスク門前町or城下町としての中世部落跡と思われる周辺地域が遡上にあまりのぼらない不思議。「集落空間におけるグスクの在り方」ということでしょうか。
▼マキョ、マキヨといった古代部落や沖縄の部落における古島(かつての集落跡)の存在。部落聖地。古代墓地跡。本州などでいう鎮守の杜的?。
▼現在沖縄のグスクと呼ばれる遺構は按司の居城といった巷間語られるものだけではなく、歴史的に、それぞれさまざまな機能を備えた、かつそれらがあるときは重層的に重なっている遺構であった可能性が高いのではないかと愚考したりしております。
▼そういった側面から奄美のグスクを見るとどうなるのだろうか?そんなことをとりあえず今はぼんやりと思っている次第です。
▼また、北部に多い石垣遺構が見られないグスクというのも、北部の方が奄美に近いので、そういうものかもしれないとおもったりも(これはおそらく沖縄本島中南部と北部の地勢の違いから来ているのかもしれないと思ったりしてはおりますが)。
▼本島北部と奄美大島の雰囲気は少なくとも本島中南部と本島北部よりも似ていると感じています。
▼そういえば、加計呂麻島の「徳浜スフィンクス」と呼ばれている岬も、わたくし的にいうとグスク遺構(聖地、集団記憶地)?。初めて写真を見たとき、伊是名グスクや、飛鳥の香具山に思いをはせたりも。ただいいかげんな感想ですけれど。
▼本土では多くの寺や神社が貝塚跡や古墳跡、古代の岬突端に構築されていることも多いようですが、これはグスク的というか、グスク的遺構が社寺仏閣的?どちらも、どこか霊的な、またはHollyな観念を集団い想起させるという点が共通しているようにも・・・。と、ぼんやりとしたものを感じたり。
▼おっしゃるようにこれからひとつひとつ実証していくべきことかと思いますが。

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27/01/06

名護郊外を散歩

屋部の福木並木を散歩していたら、下校時間、屋部小の女の子三人に挨拶をされた。
▼「こんにちわ~」
▼東京、いや那覇、はたまた名護市街でそんな挨拶をする子はほとんどいないけれど、小さな部落ではまだまだ挨拶が日常の風景に残る。
▼よい習慣かと思う。
▼もちろん、本土の都会で、知らない人に会ったら手を伸ばした二倍の距離を常にとるようにと教えていることもしっている。
▼それはすでに本土では必要なことなのだ。そういう国になった。
▼それでも沖縄北部の部落ではまだ異人を異人として迎える島国の習慣が残っているように思う。

屋部川沿いに出ると宇茂佐側のこんもりした杜の下に公園が。
▼その向こうは古島原(通称プルジマ)。屋部、宇茂佐部落の発祥地。単なる荒地だった。
▼今は区画整備がされて住宅地になっている。
▼ご先祖様が住んでいた土地にまた人が住むことになるわけだ。
▼そんなことを考えると、そのこんもりした杜が、いわゆる古代貝塚跡や中世のグスク跡や聖地のように見えてくる。
▼というか、たぶんそうだったのではないか?
▼川沿いに歩いていって、いかにもな場所がいくつもあったのだが。

▼屋部(やぶ)といえばプーミチャー。

屋部の部落に戻ると飼い犬たちに吼えられる。
▼一匹は「遊ぼう、遊ぼう、遊ぼう。退屈だったんだよ。遊ぼう。遊ぼう」
▼興奮している。
▼一匹は屋根の上に上って「おろしてくれよ、おろしてくれよ」
▼喚いている。たぶん脱走するので倉庫の屋根にあげられてしまったのだろう。
▼国道を渡って海側へ歩いていく。
▼すると一軒の家の中で「散歩?。散歩?。散歩行こう、散歩行こう、散歩行こう」
▼とはしゃいでいる犬が一匹。
▼もちろん人のうちの犬なので散歩に連れては行けない。
▼海岸に出てしばらくぼんやりしていると、「散歩につれてけ」と言っていた犬が飼い主に連れられてやってきた。
▼わたくしに近づいてきて犬いわく
▼「けち」
▼そう言って、飼い主と歩いていってしまった。

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25/10/05

沖縄本島南部一部縦断

2週間ぶりに那覇で一泊したので、午前中に用事を済ませ、昼前にバスで百名方面へ向かう。途中、糸数入口で下車。オレはどこへいくのだろうか。とりあえず、いけるところまでいく。今日はそう決めていたので。

まずは坂道を登って糸数城跡へ。近隣の小高い尾根の突端に作られたグスクで、その敷地はかなり広い。石積みの城壁も以前に比べるとかなり復元され、じっくり見ると30分以上はかかるのではないかと。残っている城壁跡はなんとなくだが、石垣のフルスト原遺跡のようだし、雰囲気は浦添城跡のそれか。

驚いたことに、ここ糸数グスクは本島南部でもかなり東側にあるのだけれど、ここからは那覇、首里方面だけでなく、その西方に浮かぶ慶良間の島影が確認できたのだ。晴れた日ならもっとはっきりと見えるのではないだろうか。

しかしこんなところにバスと徒歩で来るやつはそんなに多くはない。実際、ウガミにきていた家族と昼時にお弁当を食べにきたニイニイも、あたりまえだが車でやってきている。さて、どうするか。思ったより今日は体調が良い。そこで、今朝、考えていたことを実行に移すことにした。

それは、ここから、普通は車で走るグスクロードとかいう舗装道を歩いて、玉城城跡、ミントングスク、垣花城跡をたどっていくグスクめぐりの徒歩旅行。直線距離でほぼ5kmほどか。そうと決まったら、夜の6時には那覇にいなくてはならなかったので、とっとと行動に移す。

糸数城から東に出ると丘陵地帯の荒地にでる。オレのこのブログをきちんと読んでくれている人ならピンとくるかと思うけど、そう、この荒地、どう見ても、古の集落跡に違いない。遠目に石垣跡が見て取れるのだ。本土的にいえば、「糸数城の城下町」といったあたりになるのだろうか?もしかしたら、「門前町」かもしれないが。

歩くこと20分。グスクロード公園という名前がついた地方交付金を拝領して作ったのであるなら地方活性化に寄与したであろう公園にたどり着く。正直、地方交付金による活性化など、個人的に興味がないので、この公園そのものに興味をもてなかったわけだけれど、ただひとつ玉城村中学校発祥地という看板には興味が引かれた。おお、そういうことか。確かに、一周200m強ぐらいのトラック跡も残っている。学校かあ。

この公園から10分。玉城城跡につく。中腹の井戸のあたりで数人の人がお参りをしている。邪魔しないように山頂を目指す。山頂部の自然石をくりぬいたと思われる入り口がポイントのひとつ。アメ公が記念撮影している写真などを書籍などで目にすることがある。なんでも下方の郭の石はアメ公が土木作業用に持ち去ったとのこと。

文化と歴史がないアメリカのことなのでどこまで本気がわからないが、正直いえばやつらのほとんどは脳が足りない。アメリカ人がくだらないことを、しでかしたという点についてはご先祖さまから代々の日本人であるなら納得してもらえるだろう。

玉城城跡から坂を下っていき邸宅が立ち並ぶあたりを越えるとバス通りに到着。左に曲がって坂をあがり、右手の丘を時計回りに回りこむと垣花城跡の登り口。

判っている方なら、バス通りを右折してすぐのミントングスクを先に見た方が効率がいいのでは?と思うかもしれない。もちろん先に見ようと一度坂を下った。しかしミントングスクはご存知のように個人の屋敷の敷地内。そのため、ウガミさせてもらうために家の方に声をかけたのだが留守のようで返事がない。ぱっと入ってしまうことも可能だが、それでは不法侵入になってしまう。そのため、ミントングスクは後でもう一度来ることにして、垣花城跡を先にしたという按配。

垣花城跡の頂上付近の広場はかなり大きなものだった。以前行った具志川(うるま市)の兼箇段グスクのような雰囲気もある。しかしこちらは石垣も若干残っている。草木の間からエメラルドグリーンの海と青い空が顔をのぞかせている。木漏れ陽が葉っぱに揺れながら地面に降り注ぐ。静かな午後。

同じ道を下ってきて車道に出ると、垣花樋川(かきはなうふがー)が近いという看板が目に付いた。なんでも日本の名水百選に選ばれたらしい。とりあえず水場は好きなので行ってみる。車道から急な石畳の坂道を下り数分。そこには、絵に描いたような風景が待っていた。流れる水、小さな池、木陰を作る木、下界に広がる街と翠海。視界の半分は白雲をところどころに塗りつけた紺碧の空。池のほとりの木陰のベンチにはカップルがはだしになって休息中。

KakihanaUfuga.jpg

幸せの図を眺めてから再び降りてきた坂を登る。すぐにミントングスクへ向かうつもりだったが、ちょっと思うところがあり右折して知念町方面へ。目的は達することはできなかったが、段丘の上に長年に渡って育まれてきた人の営みを感じることもできた。

しかしこの一帯は沖縄戦の激戦地でもあったのだという事実も一方にはある。確かにグスクロードの道すがらあちこちに死の匂いを感じた。のしかかってくるような匂い。

来た道を再び戻ってミントングスクへ。沖縄発祥の地と伝えられるグスク遺構だ。しかしやはり家人はお留守。また近いうちに再訪することを決める。

なんといっても太平洋に向かう急な斜面に作られたこの仲村渠(なかんだかり)地区の集落には旧家が多く、琉球各地に子孫が繁栄したといういい伝えもある。またミントングスクは東御廻いのウガミの地。また、この仲村渠には仲村渠樋川があり、津堅島の石工が作ったという立派な建造物があったり。

つまりこの仲村渠集落は沖縄の歴史、精神、呪術、祭礼において重要な土地のひとつといっていいと思われる。

といったところで時間をみたら4時近い。6時には那覇にいるということは、この時間の那覇での渋滞を考えるとそろそろ出てもいいころである。混んでいなければ車で30~40分の距離なのだけれど。

ということで10分ほど待ってやってきたバスに乗って那覇へ向かう。バスの中には学校帰りの小学生の嬌声であふれていた。

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24/10/05

那覇郊外

今日は那覇泊。午前中に用事を済ませてから、午後は天久へ。

天久といっても、返還されて現在沖縄一の不動産バブル地帯となっている場所ではなくそれ以前から天久として名がとおっているあたりへ。琉球新報社の社屋があるあたり、旧東急ホテルあたりといえばわかるだろうか?。そのあたりを散策。

基本的は、天久グスクの探訪だったのだが、結局場所がわからず失敗。夜、ねぐらに戻って考えるに、やはり、旧東急ホテルの南側だったのかなあ、と反省。それなら首里ではない守礼門をくぐって左に折れて坂を登っておけば、と。ということで、近日中にリベンヂする。

それでも、坂を下ったところにあった天久のウタキや、いわゆる家紋と苗字の家があったりして、いろいろと妄想を膨らませることができた一日であった。

夕食は「那覇に残された最後の巨食系食堂」といわれる『三笠』でなぜかレバニラ(苦笑)。

レバニラを食いながら、「なんだか最近は沖縄ではほとんど、ウガミ(拝み)ばかりしているような気がする」などと疑問を感じたのだけれど、これは当分の間、続くような。そんな気がしている。オレたち日本人はどこからきたのか?。そしてこれかどこへ行くのか?。

人類学的、歴史学的、民族学、民俗学的専門性はもとより、興味のあることを自由に楽しめるそんな生徒を生産するべきなのか、と。とにかく、教育の基礎は詰め込みである。そんな詰め込みにあぶれたとしても、徹底的といったレベルまで自らを消費できれば世界が変わってくる。これは間違いないのです。

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09/10/05

コザから名護そして羽地

名護へ。

お昼は時間があったので、久しぶりに八重食堂でソーキそばをいただく。八重おばあが怪我して入院したということで、会えなかった。どうやら息子のお嫁さんが店を仕切っている模様。

しかし、ん?。いや、まずいわけではないのだが、麺がちょっとやわらかすぎまいか?。なんというか先に茹でておいておいたような麺。歯ごたえがイヤだ。そして肝心のやかんに入った汁。ん?。まずくはないのだが、脂がちょっと、いや、はっきりいえば、かなりういていまいか?。すすってみると、ん?あのかつてのあっさりした濃くがなくなったわけではないのだが、脂がその微妙な味わいを消しているように感じる。

うーん。入院しているおばあには悪いけど、正直言わせてもらうと、味が落ちたよ。この味なら新山か宮里を選ぶ俺である。

そんな八重食堂を後にして、羽地方面へ。羽地グスク、仲尾次グスクなどを回る。

何度も走り抜けることだけはした地域を改めて歩いたわけだが、目からうろこの発見がたくさん。羽地グスクから仲尾次グスクと田井等の集落あたりにかけては、間違いなく古島(古代部落跡)だ。

おそらくこの一体にはかなり有力な豪族が治めていた部落が点在していたことは間違いない。実際、史書によればこの羽地の領主が今帰仁グスクを攻略し第一次北山王国を壊滅させ、第一次北山王国の一族をおいやったという話がある。逃走した一族は伊波グスクや山田グスクを作り、伊波グスクの後継は安慶名グスクを治めたり、山田グスクの領主の子孫からは護佐丸が排出している。

後の、琉球の歴史に大きな影響を与えた一派が、羽地内海に臨むこの地にいたということが実感できる。そんな地域だ。おそらく羽地の海に北からやってくる大和の船と交易を行ったり、白旗(もしかしたらこの羽地の一派は南走平家の一族だったのかもしれない)を見て戦闘体制を整えたりしていたのかもしれない。

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07/10/05

カッチンの先。金武湾の上。

沖縄中部、コザあたりにいると、いつものことなのだけれど、「朝かぁ、ま、いいや、まだ寝よう」「んー、だるいからやめない?」といった気分になって、ねぐらでウダウダしていることが日常なのだけれど、今日は違うのです。

朝からカッチン(勝連半島)の先にある海中道路と橋でつながれた4っつの離島、平安座(へんざ)、宮城(みやぎ)、伊計(いけい)、浜比嘉(はまひが)へ向かうという。

ふつうこのあたりへ行く場合は車を使うのが一般的。なんといっても沖縄でも一二を争うドライブポイントなので、景色も抜群。車で行かない輩は、どこかおかしいといわれてもしょうがない。しかも、この離島にはいわゆる一般の路線バスは走っていない。そういうこともあって、車が「当然」(沖縄はどこでも基本的に車が当然なのだけれど)なのであるわけです。

しかし、この4離島、車か徒歩しか訪れる術がないかといえばさにあらず。うるま市立有償バスというものが一日数便だけれど、勝連庁舎前~与那城JA前~平安座~浜比嘉~平安座~宮城~伊計という路線を走っているのですな。

基本的には地元の人の足の確保、とくに車を持っていない、運転できないお年よりなどのためなのだけれど、地元民以外が乗っても別にかまわない。というか、うるま市の広報ページでは、よそ者(観光客含む)も、どうぞといった記述が見える。

このバスが与那城のJA前を出るのが9時半過ぎ。そのバスに乗るために8時台などというコザ的にいえば早朝といってもいい時間のカッチン方面行きのバスに乗る。

そして10月とは思えない灼熱の一日。伊計グスク、比嘉グスク、浜グスクを回ったのでありました。

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20/04/05

フルスト原にて

それはそうと、昨日歩きに歩いたフルスト原(バル)遺跡には感動した。以前はただただ森の中に崩れた石がごろごろしているという場所だったのだが、10年程前から復元が進んでいて本島にあれば「特異なグスク形態」とでも呼ばれるような、そんな遺跡群が現れていた。

はたしてここは土地の古老の方がいうようにオヤケアカハチの居城だったのだろうか?。グスクや沖縄の聖地を巡りつづけているぼくの感覚では、当時の有力者とその権力をささえる人々、もしくは同盟者たちの村、いや、町、いやいや、もしかしたら、都市、そう八重山中世都市と呼んでもいいものだったのではないだろうか。

現在でもこのフルストバル遺跡の領域は大きくその中に確認できるだけで15もの石積み遺構が残っている。当時の八重山の人々はどのような生活を送っていたのだろうか?。首里の大軍はこのフルストバル遺跡の一部から見える大浜や白保の海岸から攻め上ってきたのだろうか?

そんなことを思っていると石垣空港滑走路へ着陸寸前のJTAの737がぼくの真上を横切っていく。暫定ジェット旅客機空港として供用されている石垣空港が現在1500mというジェット旅客機の離発着にギリギリの長さの滑走路を伸ばせない理由のひとつに、このフルストバル遺跡が滑走路の北東延長線上にあるからと聞いた事もある。日本海軍がここに空港を造ったとき、滑走路を今の状態に延長したとき、いくつかの石積み遺構が破壊されたという話もある。

那覇からのジェット機は737という小さな機体ではあるものの、この島に“幸せ”をもたらしているはずだ。しかし、この島の幸せ、とは何なのだろうか?

首里からやってきた軍勢によって殲滅されたオヤケアカハチ伝説や八重山への厳しい税の取り立ての逸話など。階層化された琉球史。空港そばのフルストバル遺跡は今も首里のある那覇との関係を現代につきつけているようにも感じたり。

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24/03/05

グスクについてのメモ

琉球文化圏のグスクについて初めて日本語で言及したのは当然の事ながら沖縄学の父、伊波普猷氏であり、それ以降現在に至るまでグスクとは何かということについて多くの学者、研究者、識者が独自の見解を述べている。

その中で現在のところこれからのグスク研究の基底を提供しているのは浦添市教育委員会文化課主幹であった安里進氏だろう。安里氏は自身の考古学的実証主義を前提にした論考を集めた書籍「グスク・共同体・村」の中で氏自身の論点を展開する前提として、それまでのグスク研究をおおまかに以下のようにまとめている。

「仲松弥秀氏の聖域説と、嵩本政秀氏の防御集落説、当真嗣一氏の按司居館説そして高良倉吉氏の高地集落説なごがある。その中でも嵩本氏と仲松氏の議論がグスク論争の基礎にある」

上記四氏による主張のうち、高良氏のそれは、仲松氏と嵩本氏をあわせもったものである。また、仲松、嵩本、高良氏の説と当真氏の説は時系列な流れの中に収められるもので、相反する説ではない。

つまり、安里氏によれば「グスクの性格をめぐる論争の主要な争点は、嵩本氏のグスクB式(防御集落説(筆者注))と仲松氏の「村の拝所としてのグスク」の性格である」ということになる。

この論点の整理ののち、安里氏は嵩本、仲松両氏の説には空間的な差異があるという点。つまり、石垣で囲われた地域のみをみるかその周辺までを“グスク”に含めるか。また、そのグスクに居住していた人々の階級的差によってそれぞれのグスクの性格が異なるのではないかという点。そしてこれらのことから逆にグスクをめぐる考古学的調査によってそのグスクに居住していた人間を階級的支配者といっていいかどうかを検証すべきだと指摘している。沖縄本島のグスクを巡っての個人的なぼくの印象になるのだけれど、安里氏の考古学的観点からの指摘は納得できる点が多く、現状のグスク論における基点を形成しているように感じている。

ところで、ここに、連れが本土の古本屋で購入してきた稲村賢敷著「沖縄の古代部落マキヨの研究」1968という書籍がある。沖縄県文化財専門委員などを歴任した方らしいが、現在のグスク論争においては、ほとんど名前を見ることがなく、ぼく個人の感想としても、たとえば、本島北部地域に多く見られるカミアシアゲを古代部落の縄文的竪穴式住居を「足上げ」したものであるといった言語学的にみても首をひねざるを得ない記述が見られる点などからも、はたして今後のグスク論を展開していく上で意味がある書籍なのかどうかは定かではない。

しかし、“古代部落”が狩猟&漁労社会で、母系の集団であり、海岸から若干離れた台地や山頂付近に居住地域を求めていたとする点。また、その後の農業社会は鉄器の沖縄渡来とともに広がり、農地を求めた“古代部落”の人々が山や台地を降り、河川や海岸沿いの低地へ移り住んだとする説には感覚的に頷けるものがある。その彼等の先祖が住んでいた台地や山の旧居住地が後にそして現在、信仰の対象、つまり聖地として機能している。そして、これらの聖地の中には支配者集団の「居城」や「防衛地」として使用されたもの、つまり石積みの「グスク」として現存しているものもある、と考えることもできる。

ただ、外間守善氏などによる北方から沖縄へやってきて、アマミク神の信仰をもたらしたアマベ族(海人族)に関する研究によれば、彼等は漁労も行うが同時に稲作文化をもたらしたという。これをどう考えるか。そして、アマベ族は鉄および製鉄技術ももたらしたのだろうか。

多くのグスクや拝所を回ってはいるけれど、グスク論争に関する論文や書籍すべてに目を通したわけではないので、ただただいいかげんな感想でしかないのだが、ここまで記した人々の研究はそれぞれ正しいのではないだろうかと考える。

つまり、それぞれの説には時系列的な差異があるとともに、“古代部落”時代も、“グスク”時代も、沖縄には様様な文化を持つ民族集団、つまり言語、文化、顔、身体的特徴が異なる人々がいたのではないだろうか。つまり、各氏の言説はそれらの民族的時空的差異と各氏の基調とする学問からの論点によってなされているわけで、それぞれ正しいのではないかというこだ。

となると、それらの言説を時間軸と民族集団別に整理する必要が出てくるわけだが、今後どう行っていくかは、大きな課題。とりあえず、まだまだ読まなくてはいけない書籍や論文は多いし、同時にこれまでのグスクと拝所だけでなく、貝塚や考古学的な遺跡なども訪れていかなければならないのではないかと。

勘でしかないのだけれど、琉球文化圏のグスクとその周辺に見られる事象は、ぼくたち日本列島に住む人間がどこから来たかという謎の扉を開く上でのひとつの手段なのではないだろうかという気がしている。そしてそれはぼくたちがどこへ行くかということも語っている。

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01/02/05

沖縄に関する常識?

武器をもたなかった国。

薩摩に蹂躙されるまで、権力者間での血で血を洗う戦いの歴史が存在している。現在の沖縄の歴史が薩摩以前と断絶しているという前提ならば百歩譲って同意できるが、そのうような事実はない。現在語られるこの言説は観光立県政策および米軍基地問題への対応策として出てきた都市神話の一種と考える。

もちろん薩摩世以前は戦いが常態であったことは当然であり、これをもって、逆に沖縄人が好戦的であったとする言説に首肯できるものではない。

グスク

城という漢字があてられているため、日本本土における城が持つイメージが想起される。これは一部において間違いではない。たとえば世界遺産として登録されたグスクは石積みが比較的良好に残っており、琉球史の表舞台として物語が比較的広く知られているグスクが選ばれている。

しかしながら、いわゆるグスクと名がつく遺跡は沖縄圏には200から300(もしくはそれ以上)存在する。そのほとんどは石積みのグスクではない。また城というイメージから城主がいてその地域を治める上での中心的象徴であったと日本人ならば考えやすいが、政治的戦略的中心地であるグスクは少数派であることはあきらかである。

グスクという名称がついている沖縄圏の遺跡、そのほとんどが原初的には、血族集団を中心とした古代部落の居住地、聖地、風葬跡などであり、後にその一部が政治的、戦略的、地政的に優位な場所として選択され、石積みのグスクが作られていったとするのが現在の定説だ。実際に多くのグスク内には拝願所や御嶽、香炉などが散見される。

桜で有名な名護の名護城(なんぐすく)は、石積みがないグスクとして語られることがある。しかし、ここはまごうことなき名護近辺の聖地であり、古代部落の痕跡を比較的良好に残している著名なグスクと考えるのが適当だという説もある。沖縄の古代部落は海浜地域でなく高台や丘陵地に造られることが常態であったらしい。

グスクはいわゆる日本の城とは異なる存在ではある。現代に残るグスクは沖縄圏の重層的な歴史の上に存在している。しかし逆に考えれば、日本中に散見するいわゆる城や城跡というものはどうしてその場所に造られたのだろうか。なぜその場所が選ばれたのであろうか。

泡盛

焼酎ブーム、沖縄ブームがあり泡盛や古酒はポピュラーな存在になり、東アジア圏の良質なスピリッツとして世界にも知られつつある。

しかし、ほんの20年前まで泡盛は飲めたものではなかった。その頃はアメリカ世の影響もあり、ブランデーやウイスキーなどが主流。いまでも泡盛よりもウイスキーの方が好きだという人間は多い。

泡盛が沖縄の象徴になれたのはこの復帰以来、質の向上に傾注してきた泡盛関係者の人々の努力と先見があったということだろう。

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14/08/04

グスクと城

琉球文化圏に残るグスクと大和の“城”は似て非なるものと思ったりもしていたのだけれど、よくよく考えてみると、戦国時代以前の大和の“城”は現代日本で大方の人が思うような“城”のイメージ―たとえば、姫路城など―とはかけ離れたものではないですか。

大和のあちこちには“城跡”と称される場所がある。これらは今ぼくたちが大和の“城”に持つイメージとは異なり、丘陵を切り崩し平坦地を作り堀切をめぐらしたり、自然の要害地に館を建てただけのものがほとんどである。天守閣とか立派な城門といったものがない“城”がほとんど。単に守りやすく攻めにくい場所―たとえば三方を山や河川で囲まれている―とか、その地域の街道筋の重要な場所などに作られた館が“城”と呼ばれていただけだ。

そう考えると、琉球のグスクと大和の“城”は、北東アジア列島弧内での共通点がないわけではない。時期的にも琉球のグスク時代と戦国時代以前の“城”は時期的にかぶる。当然、戦国時代以前の14世紀、15世紀は“海”によって人も物も情報も繋がっていた時代だ。

沖縄のグスクの成り立ちと大和の“城”の成り立ちには違いがあるように思えるがその構築技術などについてはかなりの共通点が見られるのではないだろうか。

関東では北条早雲(伊勢)以前の上杉関東管領期に作られた多くのそういった“城”が現在、城跡公園や学校、スポーツ施設などになっている。このあたりのかつての関東の“城”をもう一度ゆっくり見直してみるのもいいのかもしれないなと最近思ったりもしている。たとえば、小机や寄居、世田谷。そういえば油壺の岬も“城”だった。稲村ガ崎も。

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12/05/04

具志川市教育委員会の白い「標識」

先週沖縄に到着した日、いままで行っていなかった具志川市内の“喜屋武(きゃん)グスク”と“具志川グスク”を探訪した。ちなみに“具志川グスク”は他にふたつあり、そのふたつは同じ按司が作ったといわれている。この具志川グスクはどうもそのふたつとは関係がないらしい。

翌日は恩納村の山田グスクと嘉手納町の屋良グスクを巡ったのち、時間があったので昨日行けなかったやはり具志川市内の江州(えす)グスクへも足を伸ばした。つまり今回は具志川市内のグスクを3つ訪れたということになる。話はそのうち具志川グスクを訪れたときのことだ。

喜屋武グスクからタクシーで金武湾を眺められる勝連半島の付け根あたりまで移動して、具志川グスクと思しき、海に突き出した岩山の前に立った。しかし目の前には土建屋の事務所兼住居と廃材が鎮座していて、グスクの目印である“具志川市教育委員会の白い「標識」”が見当たらない。しかし、その「標識」は兼箇段グスクの時にも書いたけれどどこにあるかが非常に分かりにくい。

ぼくは「もしかしたら」と、その土建屋の事務所兼住居の裏へまわり海に突き出した岩山へと近づいてみた。すると、虫が知らせたのか、「それは」そこにあった。「具志川グスク 具志川市教育委員会」と書かれた、具志川市教育委員会の白い「標識」が。具志川グスクのそれも他の具志川市のものと同じく、白い木の棒にところどころかすれた文字が書かれているだけの代物。それでもぼくにとっては「ここがそこである」ことを示す大切な目印であることには変わりない。観光ガイドなどには載ってない小さなそして整備されていないグスクを巡っていく時にこの「標識」はとても大切な「目印」になっているのだ。

今回もこの具志川市教育委員会による白い標識にいくつか出会った。喜屋武グスクのそれは地下貯水槽へと整備された斜面に作られた舗装道路の入り口。そして、その反対側、ちょっとでも止まると蚊がすぐに襲ってくる木々が密集した斜面の入り口にもあった。江洲グスクのそれはまだぼくは見つけていない。江洲の按司の墓に関する標識はあったのだけれど。

今帰仁村の緑色のしっかりした看板や今回訪れた山田グスクを要する恩納村のそれも散策の助けとなるように整備が進んでいる。やはり今回訪れた嘉手納町の屋良グスクも、アメリカ軍によって削られた後、公園として整備されてしまっているものの、大きな説明看板があり情報には事欠かない。

実は、今回訪れた具志川市の具志川グスクは戦跡でもある。沖縄戦時、グスクの南面にあるガマ(洞窟)にいた若い男女十数人がアメリカ軍の火炎放射によって焼き殺されたのだという。その場所には慰霊碑が建っている。ぼくは手をあわせた。地方按司、首里、薩摩、大日本帝国、アメリカ、そして日本。支配者が変わる度に、この場所は違う意味を持っていったわけだ。

具志川市は沖縄県の中でも裕福な自治体なのだそうだ。その裕福な街からすると他の市町村に比べ、グスクを示す標識や看板から醸し出される寂しさは否めない。しかし、これもグスクの今の姿のひとつとして、ぼくは受け入れてはいる。具志川市教育委員会の白い「標識」は、グスクの場所だけでなく、沖縄の移り「世」をも示して、そこにたっているのようにも思えるので。

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14/04/04

兼箇段グスクにおもふ

カネカダングスクと読む。本当はカニカダンと発音するようだ。現在の行政表記でいうと具志川市兼箇段。このあたりは稲の来沖神話が残っているらしい。あたりは田園風景が続く。

この兼箇段グスク。今まで気になっていたのだが、バス道を外れているので、バス移動を基本としている僕にはなかなか訪れる機会がなかった。今回は沖縄市登川にある闘牛ビデオで名をはせる屋良電器を訪れたので、ついでに、といっても30分弱歩いたが、とにかく行ってみることにした。

住宅街と農家の間をてくてく歩き、途中で小さな男の子に質問され、細い道を走る車を避けながら、そろそろ兼箇段グスク近し。あたり見回すとこんもりした緑の森が見える。おそらくあそこではないかと近づいてみると、<埋蔵文化財 兼箇段城跡 教育委員会>の標識がたつ。

兼箇段グスクの標識


この兼箇段グスクはお椀をふせたような小さな丘に作られたグスクなのだが、その標識のどこから上に登れるのかがはっきりしない。これは同じ具志川市にある同様の独立丘型の安慶名グスクもそうだ。こっちかな、と思ってグスクの麓沿いに回りこんでみるが上り道は見当たらない。逆方向に行くと祠があり、その奥に山道が見える。近くで農作業をしていたオジイに「上にあがれるのでしょうか?」と尋ねた。しかし耳が遠いようでもう一度大きな声で。すると、「そこから」といって、その奥に見える山道を指差しながらその手をぐるーりと螺旋上にふりあげた。挨拶をして山登りである。

オジイの言うように道は左にゆっくり曲がりながら上へ上へと伸びていた。道はそれなりに踏まれているが、両側、そして足元も草木に覆われている。ハブに注意しながら進む。結構出るのだ。5分後、こんもりと木々に覆われた広場らしきところに出た。右手には琉球石灰岩の岩場が見えその上に続いているような急な道が見えるが人の手はまったく入っていない。左手に見える土手ならいけそうなので登ってみるが、右に登れるような跡が見えるがはっきりしない。多くのグスクに見られるような石積みも見つからない。ただ自然石に人の手が入ったような跡が見える。いろいろ想像力を働かせてみて、急峻な右手の上は知花グスクの頂上みたなものか?と思ったり。登ってきた道を戻ってみるともうさっきのオジイはいなかった。

世界遺産に名を連ねることになったグスクのほかに、沖縄には小さなグスクが散見する。中には戦争や開発で完全に破壊され尽くしたところや民家や公園になったりしているところもあるが、その多くは今回の兼箇段グスクと同じようにほとんど整備されず登ってみてもどこがどこだかはっきりしないといったものが多い。

ここからグスク巡りが楽しい僕の勝手な希望になる。こういった荒れ果てた自然のままの姿というのも魅力的ではあるのだが、できればもうちょっと整備してもらっても文句はない。というかしてほしい。とくに具志川市のそれはヨソモノが訪れても、あまりよく分からない。安慶名グスクにしてもはじめていった時は登リ口がわからず闘牛場側に回って一周して返ってきたくらい。ここなど急な山道を登ったあとの感動はなかなかのものなのだけれど。

中城、座喜味、今帰仁、勝連(わざと首里ははずした)といった世界遺産のグスクは観光地として機能してはいる。とくに、今帰仁村などはとくに素晴らしい学芸員に恵まれ、地域の歴史のひとコマの中にグスクを位置づけるように活動をしているように感じる。しかし、これら世界遺産系のグスクは特別優等生であり、一般的なグスクは今回の兼箇段グスクみたいなところがほとんどなのである。200余あるといわれる(まだまだ増えそうにも思う)沖縄のグスクについても、もう少し力を入れて、現地での道順と解説看板程度でいいから作ってみてはどうか?とヨソモノが勝手なことをここでいってしまう。グスクは沖縄人の祖先の方々、ひいては東アジア地域の過去の人々がどのような生活を営んできていたかを知る貴重な歴史考古遺産なのだから。

いや、逆に、そういった大切な場所だし、今も御願所などが残っているグスクも多いのでヨソモノに荒らされちゃたまらんということで荒れ果てたままになっているということか?と解釈できるわけではあるけれど。どっちに進むのがいいのか?