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domenica 30 ottobre 2005

これはこれ Sampdoria 2-2 INTER

29/10/05 SerieA 05-06 #10

試合後、かなりの脱力ではあったけれど、その後のオトナリ対ドープしろくろ戦で、オトナリが3-1と勝ったため、「ルイジ・フェッラーリスでサンプドリア相手に引き分けなら悪い結果ではない」、という、大人びた発言をできる環境になりました。つまり、ミランと2差広がったものの、一位のユーべとは8差、勝点1近づいた(笑)。

対戦相手をみてもここまでインテルが厳しい相手が続いていたので、これはこれで今後なんとかできなくもないという前向きな感想をするオレでありました。

ただし、来週のラツィオ戦、勝たないといけません。これは絶対条件。今シーズンの最初のヤマと思って間違いありません。インテリスタの皆さま、勝利を信じましょう。

その前に、とりあえず、ポルトに勝っておきましょう。リーグ戦でベンフィカに負けたらしいのでマジでやってくるかと思いますが、そこはそれ、昨年からしこんだ「無観客試合」で拍子抜けしてもらいましょう(笑)。

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venerdì 28 ottobre 2005

泡盛の炭酸割り

最近はまってたのが、泡盛の炭酸割り。

普通10月の声を聞くと、いくらなんでも沖縄でも、そろそろビールのがぶ飲みも終わりにしたくなってくる。夏場に飲みすぎるし。しかし、今年はとくに10月に入っても、なんじゃそりゃ?といった暑さが続いていたわけで、まだ炭酸なお酒がほしい昨今。

ということでビールを続けて飲むという選択肢もあるわけだが、オレはもともとビールをがぶがぶのむが好きではない。好きではないけれど、沖縄だから飲むということになっているわけです。しかし、それでもいささかもう飽きたというか。そういうことだったりしています。

なもので、そういう時には、泡盛の炭酸割り。高い古酒はあいません。泡盛臭い「白百合」などは好みですが独特の香りが余計に立つのでどうだろうか。とにかく万人受けする「美しき古里」、「やいま」、「残波」の白といったあたりのスムーズな泡盛がいいのではないか。そういうことでいえば首里周辺の酒や「菊の露」もありか。

とにかく、現在、女の子も好んで飲むような泡盛がいいんじゃないだろうか、ということです。

こういった泡盛を氷の入ったグラスに適宜いれ、炭酸水で割る。できればシークゥワーサを絞ると満点。かき混ぜてガバガバっと飲む、と。

ミラノあたり、夕方になるとあっちこっちのバールで作られるカンパリソーダとか、夏の南仏の定番、安い地元産赤ワインの炭酸割と同じようなノリでオレはいただいています。

これ、チーズが結構あいます。マジで。

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giovedì 27 ottobre 2005

ありえない敗戦 INTER 2-3 Roma

26/10/05 SerieA 05-06 #09

おいおいおい。いくらバカ・デルビー(by オレ)だからといって、負けるのはまずいだろう?

バカ試合になるのは当然のことなので、驚きに値することはないのだが、負けてはいけない。バカ仲間のローマに。マジ?

それでもだ。とりあえずアドリアーノが2発決めたのはよい。ベローンと得点後にタッチなんざしていたのも悪くはない。いわゆるチーム内の不協和音が聞こえる昨今、ちょっと安心である。

それもこれも、審判のおかげといえまいか。いや、誰とはいわないがインテルと相性が最悪の審判だから、何もいうことはない。フィーゴは3つぐらいPKをもらっていたし、クルスもひとつはあった。おまけに3点目のローマのPKはいくらマテラッツィがヤバイやつだとしても触っていない。イタリア語音声でも「ない」とはっきりいっていた。これは珍しいことだ。

というわけで、敗戦。3敗目。ちょっと雲行きが怪しくなってきたが、次のサンプドリアを血祭りにあげて、ポルトを潰せれば、先はまだまだ100パーセントあると感じるのであった。

それと、ここで、ひとついっておくと、オレは日本語でセリエAの放送は見ない。というか、見る気にならない。あまりにひどい日本伝統のアナウンサー技が炸裂することが多々あるという事実が一点。加えてアナウンサーがまともだとしても(早い話八塚氏の調子がいいときだけだが)、日本の解説者でセリエAについてオレよりわかっている人間はスカパーにも民放にも皆無だからだ。

もちろん、テレビ関係者以外にオレよりセリエAに詳しい人間がいても不思議ではない(まだ会ったことはないが)。おっと、そういえば、あくまでテレビ放送に限定して、オレよりセリエAについて価値のある発言ができる人間は先ほど「皆無」と書いたが、よくよく考えてみると、不倫相手とうまくいっているときの富樫氏がいたので、氏以外、2005年10月現在、日本にはいないということに訂正。

そのため、くだらない三流解説者の戯言を聞く気にはならないのだ。当然である。とりあえず「フットボールの身体性を語れる」可能性がある相馬とか名波あたりが解説者にならないと常態として日本語のセリエA解説なんざ聞かないだろう。もちろん、テレビ番組のアンカーマンやデータマンのぼっちゃん、じょーちゃんなど、オレの眼中にない。なので、当分の間、スカパー様が提供してくれるイタリア語副音声でセリエAを見るオレ。

それはそうと、ここ2試合、7年ぶりのフリウリでの勝利に続いて、メアッツアでローマ相手に久々の敗戦。インテルにとってありえないことが次々と起こっている。ということは、今年は長い間ありえなかった、小楯?(笑)。などと、鷹揚に構えているのは「まだまだ前哨戦だからなあ」、などとお気楽風をふかせているオレではあった。間抜けといえばマヌケ。なもんで、次からは必勝あるのみ。目が覚めたろ?アドリアーノもマルティンスもベローンも。あ、ベローンは次節出場停止か(苦笑)。

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mercoledì 26 ottobre 2005

泡盛『五枝の松』

久しぶりに入った酒屋で15分ほど見学。

あいかわらず結構珍しいものも置いていた。奥まった一角には数十年前の泡波や今は亡き銘柄のボトルなどが鍵つきの棚に並ぶ。なかなか壮観な図。

車じゃなかったこともあって4合ビンあたりをひとつ。選んだのは、『五枝の松』。

久米島にふたつある酒造所のうち、小さい方の酒造所である米島酒造産。ここのメインブランドは『久米島』といい、ほとんど久米島内で消費されていて本島ではあまりお目にかからない。以前聞いた話だと最初は『米島』という名前の泡盛を作っていたらしい。それが『久米島』になったということのようだ。

この『久米島』のラベルにも沖縄好きならあたりまえに知っているだろう久米島の観光地である「五枝の松」が描かれるが、その名所を名称にした泡盛『五枝の松』。久しぶりに買ったような気がする。

ちなみに久米島の大きいほうの酒造所はもちろん「久米島の久米仙」。もっとも、那覇市仲間のモンゴル泡盛なんぞも作っている「久米仙」も、もともとは久米島なので、ちょっとややこしい。

とにかく、現存する久米島の酒造所のうちで一般に知られていない方の酒造所の泡盛を購入したということ。

さて、実のところ、まだこの泡盛。飲んでいない。

というのも、よくよく思い出したら、この米島酒造で作られている泡盛は現在、『久米島』と『美ら蛍』。オレも記憶していた『五枝の松』は過去の代物か?。

そうなると素性と現在の状況を考えてから封をあけるという、なんというか、もったいぶった、希少価値かもしれないからどうしよう?といったケチくさい考えが脳裏に浮かんでしまうのは、やはりオレも十分に大人になってしまったのだなあ、と苦笑い。

というわけで、泡盛『五枝の松』はグリーンの角型ボトルの肢体で、いま、オレのキーボードの左斜め奥20cmぐらいのところに鎮座しているのでありました。

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martedì 25 ottobre 2005

沖縄本島南部一部縦断

2週間ぶりに那覇で一泊したので、午前中に用事を済ませ、昼前にバスで百名方面へ向かう。途中、糸数入口で下車。オレはどこへいくのだろうか。とりあえず、いけるところまでいく。今日はそう決めていたので。

まずは坂道を登って糸数城跡へ。近隣の小高い尾根の突端に作られたグスクで、その敷地はかなり広い。石積みの城壁も以前に比べるとかなり復元され、じっくり見ると30分以上はかかるのではないかと。残っている城壁跡はなんとなくだが、石垣のフルスト原遺跡のようだし、雰囲気は浦添城跡のそれか。

驚いたことに、ここ糸数グスクは本島南部でもかなり東側にあるのだけれど、ここからは那覇、首里方面だけでなく、その西方に浮かぶ慶良間の島影が確認できたのだ。晴れた日ならもっとはっきりと見えるのではないだろうか。

しかしこんなところにバスと徒歩で来るやつはそんなに多くはない。実際、ウガミにきていた家族と昼時にお弁当を食べにきたニイニイも、あたりまえだが車でやってきている。さて、どうするか。思ったより今日は体調が良い。そこで、今朝、考えていたことを実行に移すことにした。

それは、ここから、普通は車で走るグスクロードとかいう舗装道を歩いて、玉城城跡、ミントングスク、垣花城跡をたどっていくグスクめぐりの徒歩旅行。直線距離でほぼ5kmほどか。そうと決まったら、夜の6時には那覇にいなくてはならなかったので、とっとと行動に移す。

糸数城から東に出ると丘陵地帯の荒地にでる。オレのこのブログをきちんと読んでくれている人ならピンとくるかと思うけど、そう、この荒地、どう見ても、古の集落跡に違いない。遠目に石垣跡が見て取れるのだ。本土的にいえば、「糸数城の城下町」といったあたりになるのだろうか?もしかしたら、「門前町」かもしれないが。

歩くこと20分。グスクロード公園という名前がついた地方交付金を拝領して作ったのであるなら地方活性化に寄与したであろう公園にたどり着く。正直、地方交付金による活性化など、個人的に興味がないので、この公園そのものに興味をもてなかったわけだけれど、ただひとつ玉城村中学校発祥地という看板には興味が引かれた。おお、そういうことか。確かに、一周200m強ぐらいのトラック跡も残っている。学校かあ。

この公園から10分。玉城城跡につく。中腹の井戸のあたりで数人の人がお参りをしている。邪魔しないように山頂を目指す。山頂部の自然石をくりぬいたと思われる入り口がポイントのひとつ。アメ公が記念撮影している写真などを書籍などで目にすることがある。なんでも下方の郭の石はアメ公が土木作業用に持ち去ったとのこと。

文化と歴史がないアメリカのことなのでどこまで本気がわからないが、正直いえばやつらのほとんどは脳が足りない。アメリカ人がくだらないことを、しでかしたという点についてはご先祖さまから代々の日本人であるなら納得してもらえるだろう。

玉城城跡から坂を下っていき邸宅が立ち並ぶあたりを越えるとバス通りに到着。左に曲がって坂をあがり、右手の丘を時計回りに回りこむと垣花城跡の登り口。

判っている方なら、バス通りを右折してすぐのミントングスクを先に見た方が効率がいいのでは?と思うかもしれない。もちろん先に見ようと一度坂を下った。しかしミントングスクはご存知のように個人の屋敷の敷地内。そのため、ウガミさせてもらうために家の方に声をかけたのだが留守のようで返事がない。ぱっと入ってしまうことも可能だが、それでは不法侵入になってしまう。そのため、ミントングスクは後でもう一度来ることにして、垣花城跡を先にしたという按配。

垣花城跡の頂上付近の広場はかなり大きなものだった。以前行った具志川(うるま市)の兼箇段グスクのような雰囲気もある。しかしこちらは石垣も若干残っている。草木の間からエメラルドグリーンの海と青い空が顔をのぞかせている。木漏れ陽が葉っぱに揺れながら地面に降り注ぐ。静かな午後。

同じ道を下ってきて車道に出ると、垣花樋川(かきはなうふがー)が近いという看板が目に付いた。なんでも日本の名水百選に選ばれたらしい。とりあえず水場は好きなので行ってみる。車道から急な石畳の坂道を下り数分。そこには、絵に描いたような風景が待っていた。流れる水、小さな池、木陰を作る木、下界に広がる街と翠海。視界の半分は白雲をところどころに塗りつけた紺碧の空。池のほとりの木陰のベンチにはカップルがはだしになって休息中。

KakihanaUfuga.jpg

幸せの図を眺めてから再び降りてきた坂を登る。すぐにミントングスクへ向かうつもりだったが、ちょっと思うところがあり右折して知念町方面へ。目的は達することはできなかったが、段丘の上に長年に渡って育まれてきた人の営みを感じることもできた。

しかしこの一帯は沖縄戦の激戦地でもあったのだという事実も一方にはある。確かにグスクロードの道すがらあちこちに死の匂いを感じた。のしかかってくるような匂い。

来た道を再び戻ってミントングスクへ。沖縄発祥の地と伝えられるグスク遺構だ。しかしやはり家人はお留守。また近いうちに再訪することを決める。

なんといっても太平洋に向かう急な斜面に作られたこの仲村渠(なかんだかり)地区の集落には旧家が多く、琉球各地に子孫が繁栄したといういい伝えもある。またミントングスクは東御廻いのウガミの地。また、この仲村渠には仲村渠樋川があり、津堅島の石工が作ったという立派な建造物があったり。

つまりこの仲村渠集落は沖縄の歴史、精神、呪術、祭礼において重要な土地のひとつといっていいと思われる。

といったところで時間をみたら4時近い。6時には那覇にいるということは、この時間の那覇での渋滞を考えるとそろそろ出てもいいころである。混んでいなければ車で30~40分の距離なのだけれど。

ということで10分ほど待ってやってきたバスに乗って那覇へ向かう。バスの中には学校帰りの小学生の嬌声であふれていた。

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lunedì 24 ottobre 2005

那覇郊外

今日は那覇泊。午前中に用事を済ませてから、午後は天久へ。

天久といっても、返還されて現在沖縄一の不動産バブル地帯となっている場所ではなくそれ以前から天久として名がとおっているあたりへ。琉球新報社の社屋があるあたり、旧東急ホテルあたりといえばわかるだろうか?。そのあたりを散策。

基本的は、天久グスクの探訪だったのだが、結局場所がわからず失敗。夜、ねぐらに戻って考えるに、やはり、旧東急ホテルの南側だったのかなあ、と反省。それなら首里ではない守礼門をくぐって左に折れて坂を登っておけば、と。ということで、近日中にリベンヂする。

それでも、坂を下ったところにあった天久のウタキや、いわゆる家紋と苗字の家があったりして、いろいろと妄想を膨らませることができた一日であった。

夕食は「那覇に残された最後の巨食系食堂」といわれる『三笠』でなぜかレバニラ(苦笑)。

レバニラを食いながら、「なんだか最近は沖縄ではほとんど、ウガミ(拝み)ばかりしているような気がする」などと疑問を感じたのだけれど、これは当分の間、続くような。そんな気がしている。オレたち日本人はどこからきたのか?。そしてこれかどこへ行くのか?。

人類学的、歴史学的、民族学、民俗学的専門性はもとより、興味のあることを自由に楽しめるそんな生徒を生産するべきなのか、と。とにかく、教育の基礎は詰め込みである。そんな詰め込みにあぶれたとしても、徹底的といったレベルまで自らを消費できれば世界が変わってくる。これは間違いないのです。

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lunedì 10 ottobre 2005

伊江島一周

10年ぶりに伊江島へ向かう。伊江島といえば、海軍の島で(叔父や祖父からいろいろ話を聞いた)、沖縄戦時は激戦地のひとつだった。現在でもアメリカ海兵隊の訓練地が残っていて、その訓練地にあるものを含めると滑走路が三つもある、そんな島。

有名な観光地はなんといっても、島の真中に、興奮時の乳首のようにそそり立つタッチュー。久しぶりに上ってみるか。そんなことを考えながら、大西のバス停から、渡久地周りのバスに乗って、本部港まで向かう。乗ってみると、ずっと運転手さんが何を思ったのかしらないが、俺に話し掛けてくる。いやはや。まあ、別にこういった状態は嫌いではないので、お付き合い。

船は9時発で、バスは本部港に8時45分着。即座に下りて往復券を買いフェリーに乗り込む。休日とあって車は満車。小学生の団体を含め船内の椅子は満席。船は瀬底島大橋の下を通り、イノーの間をぬけ、伊江島へと向かう。今日は天気もよいし、絵に描いたような「観光びより」ということになるのは間違いない。

そういうことで、16時の本部行き最終便まで、伊江島を一周。東西南北、すべての端っこまで自転車を借りて走りぬく。

島の西側では牛の匂いにつられ北海道のような風景に出会い、北側では、名所の断崖そばの食堂でそばを食い、東側では金を払うのがバカらしくてビーチを訪れずその代わり近くの浜で地元のガキに「おじさん、しまんちゅうでしょ」とダメだしを喰らい、きっちりとタッチューにも久々に上り360度のパノラマを楽しんだというか、なんというかそんな一日でありました。

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domenica 9 ottobre 2005

コザから名護そして羽地

名護へ。

お昼は時間があったので、久しぶりに八重食堂でソーキそばをいただく。八重おばあが怪我して入院したということで、会えなかった。どうやら息子のお嫁さんが店を仕切っている模様。

しかし、ん?。いや、まずいわけではないのだが、麺がちょっとやわらかすぎまいか?。なんというか先に茹でておいておいたような麺。歯ごたえがイヤだ。そして肝心のやかんに入った汁。ん?。まずくはないのだが、脂がちょっと、いや、はっきりいえば、かなりういていまいか?。すすってみると、ん?あのかつてのあっさりした濃くがなくなったわけではないのだが、脂がその微妙な味わいを消しているように感じる。

うーん。入院しているおばあには悪いけど、正直言わせてもらうと、味が落ちたよ。この味なら新山か宮里を選ぶ俺である。

そんな八重食堂を後にして、羽地方面へ。羽地グスク、仲尾次グスクなどを回る。

何度も走り抜けることだけはした地域を改めて歩いたわけだが、目からうろこの発見がたくさん。羽地グスクから仲尾次グスクと田井等の集落あたりにかけては、間違いなく古島(古代部落跡)だ。

おそらくこの一体にはかなり有力な豪族が治めていた部落が点在していたことは間違いない。実際、史書によればこの羽地の領主が今帰仁グスクを攻略し第一次北山王国を壊滅させ、第一次北山王国の一族をおいやったという話がある。逃走した一族は伊波グスクや山田グスクを作り、伊波グスクの後継は安慶名グスクを治めたり、山田グスクの領主の子孫からは護佐丸が排出している。

後の、琉球の歴史に大きな影響を与えた一派が、羽地内海に臨むこの地にいたということが実感できる。そんな地域だ。おそらく羽地の海に北からやってくる大和の船と交易を行ったり、白旗(もしかしたらこの羽地の一派は南走平家の一族だったのかもしれない)を見て戦闘体制を整えたりしていたのかもしれない。

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sabato 8 ottobre 2005

とりあえず泡瀬でさかな

本当はチキン(津堅島)へいくはずだったのですが、なぜかコザ的に寝坊。午後お腹がすいて外へ出ようと思ったら土砂降り。うむ。チキンへ行くなという天の配剤。

しかしやることがないがお腹はすいたということで、泡瀬漁港まで行って魚を食すことに。31番のバスにのり、泡瀬三区下車。そこから海方面に歩いて行き、大きな道を何本か超えてたどり着いた漁港。ここに漁協が経営する海産物売り場とお食事処がある。

昼食時間をはずしたので、テーブル席があいていた。ラッキーである。魚汁定食を注文。数分でできあがり、がっつく。うま~い。沖縄の食い物の中で俺のフェイバリットトップ3に入るのが魚汁である。マグロの刺身もついていて非常によろしい。

食ってから同じルートをたどり、胡屋まで出て、CDを見繕ったりなどしたのでありました。やはりコザではなんもしない日が続くのであった。

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venerdì 7 ottobre 2005

カッチンの先。金武湾の上。

沖縄中部、コザあたりにいると、いつものことなのだけれど、「朝かぁ、ま、いいや、まだ寝よう」「んー、だるいからやめない?」といった気分になって、ねぐらでウダウダしていることが日常なのだけれど、今日は違うのです。

朝からカッチン(勝連半島)の先にある海中道路と橋でつながれた4っつの離島、平安座(へんざ)、宮城(みやぎ)、伊計(いけい)、浜比嘉(はまひが)へ向かうという。

ふつうこのあたりへ行く場合は車を使うのが一般的。なんといっても沖縄でも一二を争うドライブポイントなので、景色も抜群。車で行かない輩は、どこかおかしいといわれてもしょうがない。しかも、この離島にはいわゆる一般の路線バスは走っていない。そういうこともあって、車が「当然」(沖縄はどこでも基本的に車が当然なのだけれど)なのであるわけです。

しかし、この4離島、車か徒歩しか訪れる術がないかといえばさにあらず。うるま市立有償バスというものが一日数便だけれど、勝連庁舎前~与那城JA前~平安座~浜比嘉~平安座~宮城~伊計という路線を走っているのですな。

基本的には地元の人の足の確保、とくに車を持っていない、運転できないお年よりなどのためなのだけれど、地元民以外が乗っても別にかまわない。というか、うるま市の広報ページでは、よそ者(観光客含む)も、どうぞといった記述が見える。

このバスが与那城のJA前を出るのが9時半過ぎ。そのバスに乗るために8時台などというコザ的にいえば早朝といってもいい時間のカッチン方面行きのバスに乗る。

そして10月とは思えない灼熱の一日。伊計グスク、比嘉グスク、浜グスクを回ったのでありました。

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