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venerdì 29 aprile 2005

あかりパンダ、徳之島で勝つ

徳之島へ移籍した“あかりパンダ”が、今日、徳之島の伊藤観光ドームで行われた“スラッガーズ結成記念闘牛大会”に出場し、1分32秒 猪鹿蝶を撃破。自他共に認める日本一の闘牛の島、徳之島で幸先の良いスタートを切ったわけです。

徳之島は正月とGW中に大会が集中する傾向があるため、なかなかいけないのだが、早いうちに徳之島詣でを計画しないといけないなあ、と。“あかりパンダ”が戦っているうちに。

それはそうと5月3日にはやはり徳之島の伊仙闘牛場で、徳之島全島一横綱“福田喜和道1号”と “大福環境開発1号”の戦いがあるそうだ。これはここ数年で最大の見ものかもしれません。なんといっても“大福環境開発1号”とは、あの沖縄の前横綱“八重山酋長”のことなんですから。

ああ、みたい。

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domenica 24 aprile 2005

FC琉球を観る

昼前にコザから62番のバスで北谷(ちゃたん)の美浜(みはま)へ向かう。Kyuリーグ、FC琉球の沖縄開幕戦というふれこみの対V・ファーレン長崎。会場は北谷陸上競技場。

謝苅を抜け58号線を渡ったところでバスを降り美浜食堂で昼食。トンカツを頼んでみた。まずくはないけれど、やはり、中部病院前の“かおる”の方が上等。ただし量では美浜食堂の勝ち。世間的には一長一短かと思う。ただ50歳に近いぼくとしては、やはり旧具志川、現うるま市の“かおる”に軍配をあげる。量はそこそこでもおいしいものがいい。

食事後、スタジアムに向かう。途中、右手にジャスコ、左手には毎年2月に中日ドラゴンズがキャンプを張る北谷球場がある。

目的の北谷競技場はバックとサイドが芝生席となっているので、フットボール者としてメインスタンドでの観戦を選択した。しかしチケット売り場が不明。ネットでの情報によると入場料1000円のはずなのだが、チケットを買える場所が見つからない。探しているうちになんとなく階段をあがったりしているとメインスタンドの長崎側の場所に入ってしまった。同行した人間はFC東京ファンなので、これでFC東京ファンのスタジアムの無料入場突破は沖縄でも行われたということになる。わからなかっただけだが、ユユシキ問題ではないだろうか(大笑)。

メインスタンドのうしろは北谷の海。北谷は沖縄の人間にとってここ数年の天久(あめく)神話以前からトレンディスポットとしての地位を維持しつづけている土地柄。FC琉球の試合を行うロケーションとしては成功なのかもしれないと思ったりもする。

試合がはじまる。FC琉球は個人技を中心とした80年代のブラジウみたいなチームだった。監督がジョージなので(与那城ジョージ)なのでさもありなん。対する長崎は昨年まで有明FCという名前だったチーム。国見OBを中心とした、しっかりとした守備と中盤の構成力。組織だったプレーが目を見張る。正直FC琉球の先制点が決まるまでは長崎の方がいい試合をぶりだったように感じる。

応援団についていうと長崎は3人。メインのアウェイ側に陣取るというJFL以下のカテゴリーではよくあるパターン。対してFC琉球はバックのピッチ上にメガホン応援を中心とした団体が陣取る。この姿、Jリーグファンなら柵のない臨海を想像してみるといいだろう。

ところで応援についていっておくと、長崎はかなりクルバ的な雰囲気が漂うものだった(三人だが)。その中でも、長崎ご当地食い物羅列応援、たとえば「カステラ長崎、カステラ長崎」「ちゃんぽん長崎、ちゃんぽん長崎」などといったあたりはわけわからんが好感が持てた(笑)。へんな外国被れをするよりも如何に土地柄を前面に出すか。それがフットボールの応援には大切かと思う。JリーグからJFLまでは勘違いした、かっこつけたチームが多い現状を考えれば個人的に、わけわからんが、OKだ(笑)。とくにJFLの英国意識したようなマヌケな応援に比べればご当地意識を前面に出すことはまったくもって正しい。

一方の、琉球。基本的にはよくあるJリーグ的応援なのだが、唯一、はまったのだが「ちゅら、ちゅらぁ~、ちゅら、ちゅらちゅららら、ちゅらちゅらぁ~、ちゅらゴール」というコール。「ちゅら=美ら」と現代うちなー口では書くのだけれど、日本語学的にいうと「ちゅら=清ら」。意味は「美しい」とか「きよらからですがすがしい」といった意味になる「ちゅら」だが、「ちゅらゴール」というと、まっこと英語でいう「ビューティフル・ゴール」といったあたりのニュアンスが漂う。

そんなコールが登場した数分後、FC琉球の得点は日本フットサル代表でもあるリカルド比嘉のフリーキック一閃。ゴール左隅に決まり、1-0。押されまくっていたのだけれど先制だ。メインもバックも大騒ぎ。チームカラーであるベンガラ色の旗がふられている。

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そうこうしてハーフタイムである。これがまた凄かった。

まず、子供エイサー隊の演舞。次に、スポンサーであるらしい沖縄ペプシのキャラクターであるペプシマンが登場。このペプシマンがバックスタンドあたりにいくと子供たちがおっかけるおっかける。控え選手が練習しているのだが、なんと子供たちはペプシマンをおっかけてピッチの中にも進入。主宰者側の誰も止めず。ほとんどウチナー結婚式の余興みたいなノリになっていた。

後半、長崎が一点を返そうと反撃に出る。4バックの両サイドが果敢に上がる。3バックの琉球の右サイド、元ヴェルディの某選手が正直穴だったことを察知したかのように左サイドから重点的に攻める。この某選手、足元がまずダメで、守備意識なく、でかいのに対人も弱い。見ていて良く使ってるなあ、と思っていたのだった。

ところが、この某選手から逆サイドへクロスがあがり、これをダイレクトで受けたFWがトラップしてシュート。なんと2点目をとってしまう。それまでダメダメだった選手が一転ヒーローになること。こういう試合は勝ち試合になる。

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試合はそのまま2対0で終了。バックスタンドに陣取った応援団に挨拶に行く琉球の選手たち。するとバックスタンドから子供たちがピッチに大量侵入。芝生の上を走り回り、選手を捕まえてサインをねだり、ゴールを使ってシュート練習をはじめる始末。ヒーローインタビュー(インタビュー用のバックボードがあった)の時にも、取り囲むのは報道陣数名。あとはガキの大群。本土では即刻大問題だろう。

柏でピッチに入ったとか飛田給で落ちたなどといったことは、「だから、なに?」、だ。日本のフットボール界ではあるまじきことなのだろうが、うちなー的に「だっからよー」で終りのはず。これでいいのではないだろうか。そんな気がする。

終了後、スタジアムを出て、謝苅一区の若手エイサー隊の演奏を見たり、ビーチを歩いたり、北谷グスクの拝所へいったりしたあと、コザへと戻った。

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sabato 23 aprile 2005

きっと20年後も 内里美香ライブ

コザ、モッズでの内里美香のライブ。内里は一皮向けた。

ここ3年ほど彼女のライブを機会あるたびに見ているのだけれど、久しぶりに見た彼女は、これまでのどこかおどおどしたパフォーマンスが影をひそめ、唄者として、エンタテイナーとして独り立ちしたような。ライブの一曲目を聴き、彼女がしゃべりはじめたときそう感じたぼくなのでありました。

友達や内輪の人間も来ていたという場の良さもあったかもしれない。しかし、そんな状況であったことを割り引いても、彼女のパフォーマンスはちゃんと観客に届いていた。

いま、思えばその兆候は昨年末、青山CAYで行われたよなは徹プレゼンツによる「カチャーシー・ア・ゴーゴー」のライブの時に現れていたのかも…。曲順を間違えて演奏後ひっこもうとした自分のボケにつっこんだ余裕。楽しませることは自分の地を出してしまえばいい。かっこつけていい娘ぶる必要もないということを知ったのだろうか。

もちろん素の自分自身に魅力がなければ客はついてこない。しかしながら彼女には表現者としての唄と三線の才能と人を魅了する育ちがあるわけで、それを素直に出して精進を続ければもっとよくなるとおせっかいながら思っていた。そして、今日の彼女はその次の段階に入ったと確信できたと感じたり。

伸びやかな歌声に磨きがかかり、その唄の持つ意味と情感をきちんと表現。MCも今まで以上に素直な等身大の彼女が現れていて好感が持てるものになっていた。

サポートの伊集タツヤのギターも彼女の唄と三線を殺さず、かつその隙間を紡ぐように心地よいもの。伊集の力量もあるだろうが、世代的に近いという気安さもあるのか、内里は、伊集の音を素直に信じていた。

マネージャーのビセマキ嬢もここのところの内里のライブの良さを確認しているようで、キャンパスのWebページの掲示板ではイベントや他の唄者とともに行われるライブだけでなく今夜のような単独でのライブを是非みてほしい。それだけの力量はついてきたと太鼓判をおしている。同感。

ステージであがってしまうことをステージフライトというが、ぼくのまわりの昔からの沖縄民謡好きの間では、ライブにおいて存在感が出てきたことを、「ステージタッチューした」などと勝手に言っているんですが、今夜のようにまさにステージタッチューした彼女は、これまで沖縄の音楽シーンに登場し、一時代を築いてきた女性唄者を超える資格を得たのではないか?。20年後、彼女はどんな評価を受けているのだろうか。それを見届けていきたいと思える今夜の出来だった、と。

内里美香(うちざとみか)の単独ライブ。沖縄民謡ファンだけでなく多くの音楽ファンにおすすめできる。オーラが立ったかな。

話は違うが5月半ばから今日のライブが行われたコザのモッズが北谷・美浜へ移るとのこと。話によるといろいろなことがあったらしいけれど、今の時代、美浜の方が商売としては良いのかもしれない。たいていコザにいるボクにとって美浜はちょっと行きづらくなる点が難ではあるけれど。

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venerdì 22 aprile 2005

PanaのPanali

panali.jpg4月20日に発売になった“クイヌパナ”改め“Pana”の『Panali』を聴いている。たまたまOTVでクリップを見て、新譜が出ることを知り購入したのだが、うん、かなり良いですね。

石垣島出身のクイヌパナは東京で活動したのち昨年石垣島に帰り“Pana”として再出発。2枚のシングルが好評でついにアルバムがリリースされたとのこと。

アルバムのつくりとしてカチャーシーを意識したというあたりテンポの速さと曲間のつなぎなど「連続カチャーシー」的といえなくもない。しかし、このアルバムで聴かれる音楽はどちらかといえば“沖縄アンダーグラウンド”的なアプローチに近い印象。

もっといえば、東南アジアの大都市の地下クラブで地元の子達を踊らせているローカル・ダンス・ミュージック。たとえば、ジョゲやダンドゥットからインスパイヤされたもの。そんな音楽の雰囲気を感じたり。

八重山民謡の“とぅまた節”以外、上原正吉の弟子川門正彦の作曲による作品で、彼の三線が全編にフューチャーされているあたり、2005年現在の石垣ロコミュージック、と呼べるかもしれない。件の“とぅまた節”にしてもしっかりとこのアルバムの色に染まっている。

八重山で育ち東京でデビューし八重山に帰って作り上げた2005年の音。それは彼女のひとつの方法論であって、その方法論は間違いではなかったと思う。次作が正念場となるんじゃなかろうか。

Panali=パナリ、というタイトルから新城島を連想するのが八重山好きだろうが、Panaの母親が新城島出身なのだそうだ。

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giovedì 21 aprile 2005

0-1 Derby Italiano

来年のCL圏という目標だけになったInterがJuventusにデッレ・アルピで勝利。

クルスのゴールがゼ・マリアからというのは、コンクラーヴェも終り新教皇誕生とカトリックのぼくにとってはうれしいことかもしれない。

さて来季は頑張るぞ。

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mercoledì 20 aprile 2005

フルスト原にて

それはそうと、昨日歩きに歩いたフルスト原(バル)遺跡には感動した。以前はただただ森の中に崩れた石がごろごろしているという場所だったのだが、10年程前から復元が進んでいて本島にあれば「特異なグスク形態」とでも呼ばれるような、そんな遺跡群が現れていた。

はたしてここは土地の古老の方がいうようにオヤケアカハチの居城だったのだろうか?。グスクや沖縄の聖地を巡りつづけているぼくの感覚では、当時の有力者とその権力をささえる人々、もしくは同盟者たちの村、いや、町、いやいや、もしかしたら、都市、そう八重山中世都市と呼んでもいいものだったのではないだろうか。

現在でもこのフルストバル遺跡の領域は大きくその中に確認できるだけで15もの石積み遺構が残っている。当時の八重山の人々はどのような生活を送っていたのだろうか?。首里の大軍はこのフルストバル遺跡の一部から見える大浜や白保の海岸から攻め上ってきたのだろうか?

そんなことを思っていると石垣空港滑走路へ着陸寸前のJTAの737がぼくの真上を横切っていく。暫定ジェット旅客機空港として供用されている石垣空港が現在1500mというジェット旅客機の離発着にギリギリの長さの滑走路を伸ばせない理由のひとつに、このフルストバル遺跡が滑走路の北東延長線上にあるからと聞いた事もある。日本海軍がここに空港を造ったとき、滑走路を今の状態に延長したとき、いくつかの石積み遺構が破壊されたという話もある。

那覇からのジェット機は737という小さな機体ではあるものの、この島に“幸せ”をもたらしているはずだ。しかし、この島の幸せ、とは何なのだろうか?

首里からやってきた軍勢によって殲滅されたオヤケアカハチ伝説や八重山への厳しい税の取り立ての逸話など。階層化された琉球史。空港そばのフルストバル遺跡は今も首里のある那覇との関係を現代につきつけているようにも感じたり。

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martedì 19 aprile 2005

白百合再発見

前夜3時間ぐらいしか寝られずに、ふらふらになりながら、石垣島に到着。空港から滑走路横の農道を汗だくだくになってフルスト原遺跡まで数キロ、その規模と沖縄本島のグスクとの類似点および相違点に感動しながら数キロ、再び汗だくだくになって八重山闘牛場まで数キロ。そのこじんまりとした小ささを沖縄本島や徳之島の闘牛場と比較したり。

すでに午後4時半だが東京なら午後3時前といったあたりの太陽がまだまだ容赦ない。すでに下着まで汗まみれ。靴擦れで足が痛い。タクシーを捕まえてホテルまで行こうかとも思ったが、こうなったら歩いてしまえと離島桟橋そばの美浜にあるホテルまで歩くことにする。途中、宮良殿内によるのも良かろうということで。

殿内は車がすれ違うことができない住宅街の中にたたずんでいる。きれいだったがそれだけだ。もうビールが飲みたい。頼む。暑いんだ。ビールをあまり飲まないぼくだが、ビールだ。そう思って酒屋を探して港への道を下っていく。

すると右手にカマボコ屋かさしみ屋みたいな風情の赤瓦の間口の狭い家の軒先に“池原酒造所”という字が書いてある。

池原酒造の泡盛を専門に売っている店なのかと思ったが、よくよく覗きこんでみると、どうやら本当に住宅街のこの場所で泡盛を作っている正真正銘の池原酒造所なのだった。

池原酒造といえば「白百合」だ。華麗な名前のイメージから爽やかな今風の泡盛を想像したあなたは甘い。これはぼくにとって25年ほど前の数年間、夏の間、沖縄のド田舎に調査で滞在していた学生時代に飲んだあの頃の泡盛を彷彿させる独特の味と香り(いや匂い)が強烈な泡盛なのだ。

正直、ぼくは苦手だった。味わいは違うのだけれどその当時の泡盛によってもたらされた暗い(今となっては懐かしくもあるけれど)思い出と重なるから。

そのため、長い間口にしていなかったのだけれど、たまたま酒造所の前を通ってしまった。今夜は「八重仙」でも「請福」でもなく「白百合」の三合瓶と決まった。

そして夜、近くの安売り店で「白百合」三合瓶を買い、スーパーでお惣菜と水を調達。部屋にもどりいよいよ風をあける。そしてひとくち。

「うわ!」

やはり白百合はツワモノだ。なんだろうこの独特の香りは。黴臭さといってもいい香り。一瞬、水かホテルのコップが黴ているのではないか?と思うほどだ。甕とあの土地、あの家屋の持つ香りなのだろうか。

世田谷あたりで焼け残った大正時代に建てられた家の五右衛門風呂の夏の夕方の匂いといったらわかるだろうか(わからん)。とにかくそんなかんじの匂いが鼻腔をかけぬける。やはり苦手かもしれない。

しかし、ぼくも十分にオトナになったのか、少々我慢しながら飲み進めるうちに、あ、おいしいと思える瞬間が増えてきたのだった。三合瓶380円と安かったのでもったいないと思ったわけではない。お年寄りのご夫婦ふたりだけでこの泡盛を作っているということに敬意を表したわけでもない。石垣のネトッとしたこの夜の空気にふさわしい。その黴臭さの後にやってくる芳醇な味わいがぼくが分かるようになっていたのだろうか。

子供のころ山羊のチーズは食べられなかったけれど、ドイツにいた26年前、二十歳のころ食べられるようになった。クサヤは30歳を過ぎて食べられるようになった。40歳を過ぎてフィリピンのバロット(途中まで育ったアヒルの卵)をおいしいと思えるようになった。歳をとるというのはそういうことなのかもしれない。

ということで、三合瓶は一晩であいてしまった。ちょっとおなかがすいたので、300円の八重山そばを食べてきた。

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domenica 17 aprile 2005

法王?

日本のメディアではカトリックの世界における現世の最高権力者を「法王」と表現しているようですが、現在在日韓国人および韓国系帰化人よりも少ない日本の少数民族であるカトリックのボクは違和感を感じてます。

今回なくなったのはローマ「法王」ではなく、ローマ「教皇」です。

「法王」って仏教用語じゃないですか。カトリックは仏教でありません。

愚考するにおそらく日本の場合「天皇」という象徴である方がいらっしゃるために「皇」という字の持つ意味に左右されているのではないかということ。

しかしながら、どのメディアも今回の報道では「法王」という言葉を使用しているのには少々唖然。こういったメディアの内部にもカトリックの人間は一人や二人はいるのだろうから、一言いっといても良かったんじゃないかと勝手に考えるぼくなのですが、いろいろ立場もあるんだろうな、ということで大人の見解。

でもね。日本語にした場合は法王じゃないからね。教皇ですからね。今回はとにかく日本のすべてのマスメディアではそうじゃなかった。そういうことだけを覚えておいてください。ということで一時間目はここまで(?)。

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venerdì 15 aprile 2005

マイル関係覚書

全日空(NH)のANA Mileage Clubとルフトハンザ(LH)のMiles&Moreのマイルをコレクトしている人。ともにスターアライアンス系なので無駄といえば無駄なのだが、たまにそういう人がいるかもしれない。

ちなみにボクがそうなのですが、マイルを無駄なくコレクトするためにそれぞれの航空会社のマイル関連のルールを把握しておくことは必須。

とくに問題となるのは、NHの日本国内線をLHのMiles&Moreにつけた場合。Miles&Moreの場合昨年大幅に運用が変わったのでここ数ヶ月、どうなるのかと、いろいろ探っていたぼくなのでした。

つまり、ほとんどの国内線フライトをNHの割引運賃(超割とか前売21とか)で飛んでいるぼくなので、NHの国内線割引運賃のMiles&More適用の謎を解明できればマイルコレクトの効率化に寄与するという塩梅。

ということで探索を重ねていたわけですが、ここに来てひとつの結論が出たように思うのです。それは以下の通り。

割引運賃普通席は、どっちもほぼ同じ。ポイントとしてせこい話だがMiles&Moreの方が1マイル多い場合が多い。
割引運賃+スーパーシートプレミアムアップグレードの場合Actualマイルが400以上ならMiles&Moreがお得。NHがスーパーシートプレミアムのキャンペーンなどをしない場合に限る。

といったあたり。この結果、そこそこの長距離便以上のスーパーシートプレミアムに関してはLHのMiles&Moreにつけるべきという結論。

ちなみに国際線に関しても正規運賃以外NHのマイル加算はどうしようもないのですべてMiles&Moreにつけるのが当然。

もともとボクはアメリカで航空会社のマイル制度がはじまった頃からアメリカ系の航空会社のマイルを集めていてUA(ユナイテッド)とNW(ノースウエスト)については最上級会員を維持していました。つまり年間、18万マイル近く乗っていた(今もそれに近いけれど)。しかしながら、9.11以降アメリカに行くことが少なくなったのと、UAの経営問題やらNWのXXXXXなどがあって、SFCになっていたANAと欧州を考えるとベストなLHにシフトしたというわけです。

こういう状況下、現在の問題は、UAとNWにいまだ残っている合計80万マイルほどのマイル。UAのマイルはLH便でのアップグレードやNHの国内線に使えばいいわけですが、NWはどうしたものか。やはり素直に提携欧州航空会社で欧州の便かマレーシア航空でアジアへ無料航空券で行くというあたりですかね?JALの国内線にも使えるけれどあまりおいしくない。

とにかく年間三桁回数は飛行機に乗っているぼくなのでマイルの有効活用は心地よい旅のために常に考えなければならない大きな問題なのでありました。

でもなあ、大金持ちなら素直にファーストクラスで行き来すればいいんですよねえ。風の便りでは大金持ちほどエコノミークラスで飛ぶという話もありますが。

それと、やっぱりJALです。航空会社としてはANAよりJALの方が好みなんだけれど、今の状況だとメインの航空会社にするわけにはいかない。事故や不祥事が多いからではないですよ。とにかくどこかのアライアンスに入ってくれないだろうか?。JGCのメリットなぞ年に数回しかない昨今だったり。奄美方面や沖縄の離島はJAL系しかないという状況なんですよねえ。やはり小さい方の政権与党が野党にならないと難しいのでしょうか?。

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mercoledì 13 aprile 2005

CLセット解約

ジュゼッペ・メアッツアに降り注いだ発煙筒の炎がとてもきれいだった
そんなこともあって(負け惜しみ)、なんというか、そういうわけで、
スカパーのCLセットをスカパーのWebから解約。

8月まで「ちゃんぴおんずりーぐ?何それ?うえはあ?おいしい?」と、
今年もまたぼける季節になってしまった。春だなあ。

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lunedì 11 aprile 2005

大潮、浜下り、旧三月三日

備瀬のフクギ並木の集落を抜けて浜に出ると、沖に珊瑚礁の三日月型の半島が現れていた。

海の上をいけるところまで歩いてみた。

足元には“なまこ”や“貝”や“うみうし”や“うに”や“ひとで”が蠢き、目を沖にやると伊江島タッチューが備瀬の浜から見る数倍の大きさになっている。往復6kmは歩いただろう。海の上を。琉球では海は泳ぐものではなくて、歩くものだ。漁師である海人を「海を歩く人」というじゃないか。

海の上をいけるところまでいって、戻ってくると、日ごろ船がなければ訪れることはかなわない備瀬の灯台の御嶽とその下の洞窟へも入ることができた。そこでユタらしいおばあの話を聞けた。灯台下の洞窟に鎮座する赤い大きな石は龍神の母なのだそうだ。雨乞いの神事をするのだろうか。

帰り際、そのユタらしいおばあが洞窟の出口で滑って転んでしまった。連れのおばあが「まぶやーまぶやー」とマブイグミをしていた。

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sabato 9 aprile 2005

葬儀

サンピエトロ広場は凄い人だった。ロマも大活躍中。
噂好きのイタリア人は新教皇の話題でもちきりだ。
カトリックのぼくにとってやはり教皇の存在は大きいのだな、
とローマの空を見上げ思う。

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lunedì 4 aprile 2005

[019]三重城

よなは徹セカンドアルバム21世紀の「花風(はなふう)」。

みーぐしくにぬぶてぃ てぃきじむちゃぎりば
はやふにぬなれや ちゅみどぅみゆる

日本語訳:三重城に登り、お別れにてぬぐいを振っていたけれど、船足が速く一瞬しか見えなかった

といった歌詞ではじまる花風(はなふう)とは琉球舞踊の中の雑踊り(ぞうおどり)の名作。明治38年、那覇の芝居小屋で創作されたとされる。

三重城(みーぐしく)は現在、那覇の西町ロワジールホテル裏にその石垣の痕跡を残している。近くにあるのは沖縄電力の変電所やマンション、市内線バスのターミナルなど。しかしそれらはかつて海の中。

三重城は対岸(現在の那覇空港側)に作られた屋良座森城(やらざもりぐしく)とともに、琉球王朝時代、海中に飛び出した敵国船に対する要塞として、また交易船に乗った夫や恋人を送る舞台として存在していた。

よなはの「三重城」の歌詞も、別れの歌。まさに花風の世界だ。しかし、そこは21世紀を生きる歌者であるよなは徹のこと。琉球音階を薬味に美しい現代の恋歌に仕上げている。つまり昨今のJ-POPのひとつといわれても、こんな曲があってもいいんじゃないか、と思えるのだ。

もちろん、彼に対して現在の日本における売れ筋の音楽に対して媚びすぎではないかといった意見があることも承知している。

しかし、考えて見ほしい。よなは徹という沖縄の若者は琉球古典芸能の継承者であり沖縄民謡の唄者であるだけでなく、20世紀末から21世紀の情報革命時代を生きてきたウチナンチューでもあるのだ。この「三重城」はそんな彼の等身大の姿を表しているのではないかとぼくはおもっている。

先日東京に戻る日、三重城を久しぶりに訪れた。漫湖の河口に面したそここに作られた拝所(うがん)の前には、おじい、おばあの姿が。人工の城(ぐすく)も年月を重ねることで聖地となる。いや、聖地とは人類の意思と情念が篭った場所なのだということを改めて確認できた。

彼のセカンドアルバムである“三味連りてぃ(チャミチリティ) ”に収められたこの曲も21世紀の三重城の物語となる可能性を秘めている。

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domenica 3 aprile 2005

[018]恋語れー

名護良一『沖縄の民謡』嘉手苅林昌未CD化音源を集めた『ジルー』は、彼のデビューSP盤「恋語れ節/なすび節」が一曲目、二曲目である。当然この曲順は構成・解説などを行った小浜司氏や監修のビセカツ氏による嘉手苅林昌のレコーディング史を意識してのねらいだろう。

「恋語れー」はこの「恋語れ節」から派生。両曲(実際は同じ曲といっていい)とも、嘉手苅林昌の十八番であるだけでなく、さまざまな歌者による名演も残る。ポピュラーミュージックとしての琉球民謡史に輝く名曲であるといって、間違いない。

嘉手苅林昌のほか、大城美佐子、照屋寛徳など名演は数多いけれど、名護良一『沖縄の民謡』の一曲目に収録されたこの「恋語れー」は、その端整な歌い口と三線に、しのぶ恋の、つらさとちゅらさが重なる。三線によるリフレインする演奏とサビの収束形はことのほか美しい。

ところでこの「恋語れ節」と「恋語れー」。今多く耳にする歌詞の世界は、基本的に、しのぶ恋の世界である。「門の前」という歌詞からすれば遊女(ジュリ)が恋する男を待つ歌なのかもしれない。どちらにしてもテーマは時ならぬ秘めた恋。一方で嘉手苅林昌のジルーに収録された「恋語れ節」の歌詞は年老いた男の恋の思い出や若い嫁をもらったことでの気恥ずかしさや悩みが歌われている。

沖縄民謡は歌者によって歌詞はどんどん変えられていく。そのため珍しいことではないが、その時の歌者の感覚や時代背景などが如実に反映されていくことも少なくない。もちろん、「おもいつき」の一言で片付けられることも多々あるのだけれど。

とにかくも我々にとって幸せなことに、沖縄民謡を代表する著名な曲だけあって、CDで購入するのも容易である。

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sabato 2 aprile 2005

いやはや

教皇がなくなり、そのうえ私事が雑多を極めはじめてきた。
明日からたいへんな日々がはじまりそうだ。
予定したことはほどんどキャンセル。

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venerdì 1 aprile 2005

[017]涙は悲しみだけで、出来てるんじゃない

最後の晩餐サビの歌詞には、世の中のことがだいたいわかってきたいまのぼくにも、うなずいてしまう力がある。

実はこの曲が入ったアルバム『最後の晩餐』が発売された頃、自分の心の中には、歌詞とは違って、すでにこの地球上で自分にとって、ステキな、至高のビーチが存在していた

それは、その頃はビーチというより「はま」といった方がよかったのだけれど、沖縄本島中部は具志川市(当時)にあった「宇堅の浜」。

北東を向いたこの浜のどこが至高の存在なのか?。それを明確に語ることは、ビーチ好きの人間に話すことさえ、とても難しい。それでも、今でも、ぼくは、あの頃の「宇堅の浜」はぼくにとって一番の場所だと思っている。

透明度だけはとんでもなく素晴らしい、なんでもない浜なのだけれど、海に向かうと左手に石川の町並み、左斜めに金武の町並み、右斜めに伊計島、右手に沖縄電力の火力発電所が見える碧く輝く絵にかいたような海。恵みの海、金武湾が作り出した自然の絶景だ。

はるか昔、この水平線上には日本本土からやってきた船団の姿があっただろうなどと夏の夕方の気持ちよい沖縄の風をうけて感じたあの頃。

こういったものがすべてひとつになり、ぼくにとっての至高の浜となっていた。

しかし、すでにこの「宇堅の浜」は<宇堅ビーチ>となった。

政府や県から大量のおかねが投入された結果、人工の砂をいれ、監視員がしっかりつき、お手洗いもシャワー施設もあたりまえに完備された、ふつうにキレイなビーチに生まれ変わった。これはこれで喜ばしいことなのだと思う。

でも、この曲で歌われたころ、素敵なビーチを知らなくても自分だけが大切にしたい「はま」が、海を見ることができる人なら誰にでもあったんじゃないだろうか?

もちろん、今の若い人にもそういった「はま」があるかとは思うけれど、もうあの頃の「はま」はこの日本にはほとんど存在していない。

そういった意味で、屈折した歌詞の思いが、21世紀になってまたぼくの中で屈折したのだ。ステキなビーチを知っていたが、それは過去のものになってしまった、と。つまり、もうぼくはいまは知らないのだ。すてきなビーチを。

残念なことに、そのころの「宇堅の浜」に大事な人を連れて行ったことはない。機会がなかったのだ。いまおもえば、あの娘や子供たちは無理してでも連れて行くべきだったかもしれない(正直いえばそのころはお金に困っていたからなのだけれど)。


今となっては<宇堅ビーチへ>と変貌したかつての「宇堅の浜」へ誰かを連れていきたいとはあまり思わない。それでも時間があると、行ってしまう。オリオンビールを照屋商店で買って。涙は枯れているのだけれど。

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