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martedì 27 luglio 2004

生魚ダメ人

生の魚は食べらないんです。

という人間がまわりにそれなりに多いのですよ。だいたい20代が多いのだけれど、「日本人は生で魚を食べる魚食民族である」などと簡単に結論付ける言説がまかり通っている昨今、そんなことを言ったら生の魚は食べられない彼等は日本人ではないということになるわけです。

だいたいこの言説は「日本人は」などと言った瞬間に、曖昧かつ精緻さに欠くという問題外の言い方なので、無視すればいいわけなんですし、百歩譲ってここでいう日本人を日本列島にすんでいる人々と規定したとしても、まったく生魚を食べない人がいるんですから、そんなこと勝手にきめつけんなよ、という話になります。

そういった話は無視したとして、しかし、なおかつはっきりしていることは、「事実として“生の魚は食べられない”日本に20世紀末に生を受け日本社会で生きてきた人間がいる」ということ。ここで、キーボードを打つ回数を減らすために、彼等を便宜上“生魚ダメ人”とするのでそのあたりよろしくお願いします。

さて、人間は社会的な動物で環境や育ちによって生き方、考え方、性格、味覚などが左右されるのは当然のことで、彼等「生魚ダメ人」は、そういった環境で育ってきたので生魚がダメになった可能性があるわけです。つまり家庭、学校、周辺社会などが「生魚はダメ」という環境であったということです。

これは、かなりの確率でありえます。ぼくは東京に住んでいるのでその20代を中心とした「生魚ダメ人」も東京生まれ東京育ちが多いのですが、この東京というのは、多くの食材が地方から入ってくるわけで新鮮なものが手に入りにくい。産地の10倍ぐらいの金を出せば常に食べられるのでしょうが、そんなことができるのは一握りの人でしょう。

そういった環境にあって、生魚のように、鮮度が命といった食材を常日頃食べられたかどうかはかなり疑問です。彼等の親にしても、あまり鮮度がよくない魚を食べたいと思わなかっただろうし、そうなれば子供も当然、生魚を食べる機会は失われる。

知人に長崎出身の友達がいて、一時関東に住んでいたのですが、彼はほとんど東京では魚を食べませんでした。まずいんだそうです。実際、ぼくもそう思います。ただ、長崎に帰ると魚をばくばく食うそうで、やはり現代の東京は魚食環境として劣悪であるということが言えそうです。

そういった劣悪環境で育ってきた彼等が「生魚ダメ人」となるのは、あたりまえといえばあたりまえのこと。逆に「生魚ダメ人」は、非常にセンシティブな味覚を持っているがために、ちょっとでも鮮度が落ちたものは食べられないということになった可能性もあります。

そしてここからはぼくなりの妄想なのですが、実はこの「生魚ダメ人」は東京に限らず、地方にもいるのです。それも東京近郊と同じような都市圏ではなく地方にも。それも山間地ではなく漁港近くの町にも。これでは生育環境だけが「生魚ダメ人」を作ったというのはおかしいということになってしまう。

そうなると、妄想をたくましくすれば、いわゆる「部族違い」という理由が登場してくるのです。つまり、そういった「生魚ダメ人」はそういう部族なのだと。一方で「生魚OK人」。「肉も生魚もOK人」、「どっちもダメ人」などがいるわけで、長い年月そうやって過ごしてきたのでそうなったということもいえるのではないか。

いまさら日本は単一民族国家だ、などというマヌケな人はもういないと思いますが、ここ20年ぐらいの間に日本に居を構えた諸外国人や在日の半島系の人々、沖縄系の人々、アイヌの人々などとは文化、生活、習慣、社会の歴史が異なる日本列島在住者以外の、一般的に日本民族などと呼ばれている人々が単一の民族かといえばそんなことはないわけです。いろいろなところから移動してきた人々が混在し、時に交じり合ったのがいわゆる日本民族なのですから。

そう考えると、日本民族というものはない。あるとしても、そこには、様様な生き方、考え方、コトバ、味覚を兼ね備えた多くの部族集団の混在である、と。

そうなれば、「生魚ダメ人」の彼等とぼくみたいな「肉も生魚もOK人」は異なる部族集団に属してきた祖先の末裔という可能性もないわけではない。つまり、部族が違うともいえる。違うのだから、相手の味覚を理解することはできない。ぼくは生魚が好きだし、週に何度か食べないと寂しい。こういうことは彼等「生魚ダメ人」は理解できない。彼等はぼくが生魚を食べるのをみれば頭おかしいんじゃないの?と思うはず。当然である。理解できるわけがないのだから。

様様な味覚をもった部族がいて、いろいろな生き方をする人々がいる。お互い理解しようとすればストレスが溜まるだけだ。大事なことは、理解できなくても、認めること。自分と違っていても認めることだ。なぜならきみたちとぼくたちは日本人とくくられてはいるけれど、「違う」のだから。違っているものを理解する必要はない。認めればよいだけ。理解できる言語をしゃべっているからといって「同じ」と思うのはまだ想像力や知識が足りないということではないだろうか。「違う」のだから認めればいいのではないだろうか。

ということで、最後に、いつものようにサウジTV2で観戦していたけれど韓国がすんなり勝って一位抜け。まあ、今の日本ならこの山に入ることはないだろうから、韓国対イランですな。しかし日本の相手になるヨルダンは守備堅そうだからなあ。まあ、1点とれば勝てるだろうが。

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