『よみがえる日本語―ことばのみなもと「ヲシテ」』
「ヲシテ」に関する新著を先日読了。
著者の解説によれば
「ヲシテ」とは漢字以前の縄文時代から用いられていた、「やまとことば」を言い表す文字をいい、これまでは江戸時代の偽造と考えられてきた。本書は、これまで謎であった日本語の本質・起源を解明するヲシテの全貌を分かりやすく解き明かす「ヲシテ」入門書であり、「ヲシテ」がいかに日本語の基礎を作り文法を生み出したかを証明する。
「ヲシテ」の実在性を、「やまとことば」の本質に遡って、考究証明する。
ここに、縄文時代に「やまとことば」の醸成形成が完成したことが明らかになった。
(ヲシテ文献(ホツマ)の世界 へ ようこそ _ 池田 満 の 案内)
つまるところ、古事記、日本書紀の原典と著者が考える「ヲシテ」は日本語のなりたちに肉薄する(いや、日本語そのものを成り立たせた)文字であり、「ヲシテ」文献は日本古代史のみならず日本語学に一石を投じる史料であると考察を加えているのだ。
この書籍を読み進めていくうちに、この三十年、眼前にかかっていた靄が少しずつ薄れたような、そんな気がする。
この眼前の靄とはこういうことだ。
古史古伝と呼ばれる文書群がある。基本的に学問の世界からは偽書とされているが何故か心ひかれる言葉の群れだ。
しかしながら、その多くは、その創造性に敬意を払うべきであるとしても、過去を記しているとは思えない代物だとわたしの内観が教えていた。
上記しかり、宮下、富士、竹内、九鬼などの各文書、東日流外三郡誌など古史古伝のほとんどが文学作品としての価値は認められるものの、資史料、歴史文献ではないということだ。(もちろんこれらの「偽書」と呼ばれる文書がなぜ作られたか。作成者たちの意図、意思、目的は?という疑問は歴史研究の対象ではあると思う)。
ただし、その靄の中に薄っすらと、「秀真伝」だけは弱い輝きを放っていた。何かがわたしの中に入ってくる。これは何だろうか。
もちろん、多くの古史古伝と同じく「秀真伝」は「偽」の匂いがするのだが、この手の書籍を読み漁っていくうち、「秀真伝」は「ホツマツタヱ」の漢字仮名交じり翻訳書であること、そして、「ホツマツタヱ」はヲシテ文献と呼ばれる三冊の文書のひとつであることを知ったのだった。
そして、インターネットの時代になり、「ヲシテ」研究の第一人者松本善之助氏の弟子である池田満氏のサイトにたまたま出会い、ヲシテ関係書籍の中ではこの両氏が記したものが最も信用に足るのではと個人的に結論付けたのあった。
加えて、池田氏のサイトからのリンクで「真名の日本巡礼」というWebサイトも知る。現在更新は止まっているのだけれど、ヲシテ文献をもとに日本の信仰対象地のいわれをひも解くなどことに記紀神話が現在の神社や祭、聖地に残ることを証明するなど、圧巻かつ画期的な試みのサイトだった。
『よみがえる日本語―ことばのみなもと「ヲシテ」』はこの「真名の日本巡礼」というサイトの管理人の方が中心となって書かれたものだ。
正直いって「ヲシテ」をそこそこ齧った人間にとってはくどい部分も見受けられるが、これは、はじめて「ヲシテ」に触れる人への配慮であろう。
それよりなにより、「ヲシテ」という文字と文章が内包する世界への扉をあけ、21世紀の現代の野に放ったという意味において重要な書物だといえる。
「ヲシテ」そのものは偽書であるかもしれないし、そうでないかもしれない。最も古い写本は江戸時代のものなので、江戸時代に創作された文書である可能性もないわけではない。しかしそれがどうしたというのだろうか。そういった問題点を突き抜けるだけの力が「ヲシテ」文字、「ヲシテ」文献、その信ずるにたる研究者の方々の言説がいま存在しているのだから。
それでも「偽書は偽書。価値はない」という人もいるはずだ。それならば、ここで「ヲシテ」が江戸時代の創作=偽書であるという証明を行ってみよう。
さすれば、この「ヲシテ」という文字と「ヲシテ」文献に綴られた数々の歴史が「偽」である証明をしなければならない。
ところが、この書籍を読むと「ヲシテ」が日本語の音の意味、日本語の単語の意味、日本語の文章、それらの成り立ちを理解する上で最も無理がなく合理的であることが看破される。
「ことだま」という言葉がある。言葉にこめられた魂のようなものと理解するが、「ヲシテ」はその「魂」を説明できる文字であり、かつその文字の構成要素すべてに意味がある。逆にいえば文字の構成要素から文字が作られ単語が作られ文章が作られる。
もしもこれが江戸時代に作られた文字だとしたら、その労力と知識、想像力は人智を超えているといわざるをえない。神がかりというものではないだろうか。
加えて、「ヲシテ」文献に書かれた歴史は、古事記、日本書紀でツジツマが合わなくなっている記述をほぼすんなりと説明し、現在の非知となっている数々の古代史、習俗、風習などを説明づけることができる。
江戸時代に記紀神話で曖昧模糊とした部分をここまで調べ上げ、新たなしかも日本語を的確に表現できる文字を創作し膨大な文章を残すこと。不可能とは言わないが、それが現実的かどうか。もしも江戸時代に創作した文書ならば世界史に残る文学作品でありかつノンフィクションとなる。
逆にいえば「ヲシテ」文献が江戸時代に作られた偽書であるとする根拠は脆弱ではないか。その脆弱性をこの書籍は暴いているともいえる。
少なくとも日本語のみなもとへの旅のひとつのツールとなることだけは確実だろう。
個人的には「ヲシテ」文献が偽書であろうと、なかろうと、その文字の成り立ちと書かれた神話に合理性が感じられるため、「ヲシテ文献」に書かれた古代の南西諸島や関係諸地域に関する記述を改めて比較参照していくことで、日本列島弧および東アジア地域の権力移譲、征服の歴史、人的、文化交流について何かが見えてこないだろうかという見当をつけているのだが、とりあえずはいまは、ゆっくりと「ヲシテ」の世界に再びつかってみることが必要かと思っている。
しかしこうやって漢字仮名交じり文を書いている日本人の自分はどこからやってきてどうしてこういった日本語を書いているのだろうか。それは学習と社会環境だけではない、自分の中の何かが書かせているのでは。ヲシテを読むことでそういった疑問もわいていくる。
そういえば、この書籍の出版社は明治書院である。明治書院といえば国語教科書をはじめ事典など日本語および語学関係を中心にする老舗出版社である。その明治書院が本書の出版を決意したという意味も少なくない。
もしかしたら何かがかわりはじめているのかもしれない。
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