K-7でばしばしシャッターを切ってみた結果思ったことだけど購入等の参考にはなりませんよ

某社の配当金もらいに郵便局へ行ったついでに50枚ほどK-7+D40で撮影。何も考えずにPで。

本当は撮影結果をここにはっつけるとよいのかと思うけれど、ちょっと忙しいので行いません。あしからず。

巨大掲示板のK-7関連のスレで高ISO時のノイズがなんとかとか、kakaku.comでは縦線がどうとかということでみなさん盛り上がっておられるようですが、確かに、PCで見る限りなんとなくなんとなくなんとなくそんなかんじもなきにしもあらずといったこともそこまで言われると、なるほど、そうかもなあ、と思ってしまいますが、別にわたしのレベルではそんなに騒ぐほどのことだろうか、おそらくファームでなんとかしてくれる(って、してくれますよね?Pentaxさん。あ、HOYAさんか)というように希望的観測を述べるあたりでとどめておきたいというかんじだったりしています。

というのも、そういった画質面での期待値が高かっただけに、問題があるのかもしれないけれど、それ以外のところでは、概ね良好なので。

AWBもK10Dあたりでは、わたしの場合緑っぺーなあと思ってカスタムでいろいろ設定しておいたりしていたのが改善されて、もう、とりあえずおまかせでいいかなと思ったり。AFも速いし、小さいし、防滴だし、動画だし、といったいろいろな面で大幅改良が加えられているので、とにかく使い倒してみるよ、と思わせる機械になっているとは思えるわけです。K-7は。

まあもう少し使ってみないとK10Dの行く末については結論は出ないという現在の結論はありますけれどね。

確かに安い買物ではないけれど、十数万の値段なのですから、買って頭来たという人がいらしたとしても、まあまあ、とりあえず、人柱ということで。

HOYAさんがPentaxさんをご購入以前、Pentaxユーザーの間では「ボディはでたら買いましょう、レンズも買いましょう。お布施です」といった宗教まがいのジョークがまかり通っていましたが、それは今も絶賛継続中と考えてよいのではないでしょうか。

ちっちゃいこといわないで、とりあえずお布施と思って買ったなら使いましょう。きっと中の人がいろいろやってくれます。そのためにも不具合をつめていく作業をユーザーが行って、Pentaxさんにフィードバックしていくというのも建設的行為かと思ったりもします。

ああ、俺って大人なのかもしれない(苦笑)。

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Pentax K-7が届いたというのに単なる印象を書くしかないので読まなくていいです

51sehosgkvl_sl500_aa280_カメラという機械そのものがめちゃくちゃ好きというわけでもないが仕事もあってカメラにはそこそこお金をかけている。なんてことを言っているがたぶんかなりカメラは好きだと思う。

はじめてのカメラ体験は父親にもらったOlympus Penだった。1959年発売の初代機。(なんだか来月デジタルで出るらしいのでちょっとよろめいている。とても困った)。その後、いろいろなカメラを買ったりもらったりしたけれど、考えてみると最もよく使っていたのはMinox。リアリストだとか、ウォーレンサックだとか、フェドなどといったステレオカメラも愛用した(今もだが)。コンパクトデジタルカメラも何種類か買った。仕事で必要なものもあるがそうでないものもあった。

わたしの場合、祖父、叔父、父がPentaxとOlympusを愛好する人たちだったためそれなりにレンズの資産がそろっていたということもあって、デジタル一眼レフカメラを購入するということになった時、結局Pentaxの*istDを選択。これが結構わたし好みのカメラで昔のレンズを使ったマニュアルでの撮影は楽しくてしょうがなかった。

その後、*istDs、*istD(二台目、貸し出し中)、K10DとPentaxボディ本体を購入してきたわけだけど、K-7発売の話を5月末に知ることとなり、とりあえず買わないといけないのだろうなあと、ぼんやり思いながら巨大掲示板や話題沸騰している方々のBlogを眺めているうちに、なぜかポチッとボタンを押してしまったのだった。お金の工面も考えずに。とても困った。というか困っている。

そのK-7が昨日6月27日、発売日に届いたということでありました。

電池を充電しながら眺めたのだが「なんだか、昔の光学式のカメラみたいだなあ」という印象だ。手にとってみると*istDの感覚で*istDsを持ったという風情。おそらくK10Dより小さくなってグルップの感覚が*istDsに近いからかもしれない。

かなり長い充電が終わったあと電池と8GBのSDHCカードを入れ、液晶保護シートを貼り付けて、FA35mm/F2を装着。すでに夜なので部屋の中でパシャパシャと撮影してみる。

画質とか操作性とか機能とかまださっぱりわかっていないのだが、これまで使ってきたK10Dの代わりに使っていくことにはなるだろうなということは直観できた。

来週からの出張で使ってみて検証するんだろうが、今回のK-7は動画撮影もできるのでそういうのも試してみようと考える。

とりあえず、カメラとしてのオブジェ感では好きになれそうだ。

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いまさら 矢野顕子 『akiko』 が 良い アルバム で ある こと を

Akiko音楽に「良い、悪い」の区分けは意味がない。

聴く側の趣味や経験、嗜好、育ちや情報取捨選択能力の違いによって聴く音楽聴かない音楽が分かれるからだ。

百歩譲って、音楽を「好き、嫌い」で分けることは可能かもしれない。もしくは「好きか、知らないか」。どちらにせよ聴く側の個人的な問題だ。

だけれど、矢野顕子の『akiko』はこの世に「良い音楽」というものが存在するとすれば、間違いなくそのひとつであるといってよいのではないだろうか。

誰もまねの出来ない矢野顕子のオンリーワンの歌声、そして奔放かつ繊細に紡がれるピアノ。ポピュラーミュージックを知り尽くしたウエストコーストのミュージシャンたちによる力強く、引き際を抑えた演奏。それらをまとめあげるT・ボーン・バーネットのプロデューシング。

音楽好きにとってはこれらの情報だけで一聴に値するアルバムであるということが理解されるが、環境、年齢、経済的な問題で広大な音楽の世界のほんのほんの一部分にしがみついている多くの人たち、とくに若年齢の人たちに音楽を聴く喜び、そして、音楽の豊かさ、深さを感じてもらうには格好の作品であるといえる。

くしくもネット上で矢野顕子本人のこのアルバムに関するインタビュービデオが配信されていたので眺めていたが、「いまの巷にあふれる音楽しか聴かない人に聴いてほしい」といったことをいっていたが、まさにそうだろう。

打ち込みを一切使わない生演奏によるこのアルバム。

唄、もしくはピアノ、ベース、ドラムスなど機械を使わず人間の演奏能力で奏でられる、どれかの楽器に注目して耳を澄ませてみればわたしのいう「良い」の意味がわかるのではないだろうか。そのひとつひとつの音色と演奏が有機的に絡まりあいひとつの音楽の世界を構築しているということが。聴いていけば背筋に何かが走る瞬間が必ずあるはず。たぶん、それがあなたの好きな本当な音であり音楽世界への扉なのだ。

嫌いな人も、知らない人もいるかと思うが、なんどでもいう。このアルバムは「良い」。それぞれが本当に好きな音を、それぞれに知らせてくれるという意味でも。

できれば品質のよいオーディオ装置で聴きたいところだがiPodなどでもわたしのいうことはよく分かるかと思われる。

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日本語の世界に一石を投じ、わたしたちはどこからきたかを知るてがかりにできるだろうか

Woshite_3『よみがえる日本語―ことばのみなもと「ヲシテ」』

「ヲシテ」に関する新著を先日読了。

著者の解説によれば

「ヲシテ」とは漢字以前の縄文時代から用いられていた、「やまとことば」を言い表す文字をいい、これまでは江戸時代の偽造と考えられてきた。本書は、これまで謎であった日本語の本質・起源を解明するヲシテの全貌を分かりやすく解き明かす「ヲシテ」入門書であり、「ヲシテ」がいかに日本語の基礎を作り文法を生み出したかを証明する。

「ヲシテ」の実在性を、「やまとことば」の本質に遡って、考究証明する。
ここに、縄文時代に「やまとことば」の醸成形成が完成したことが明らかになった。
(ヲシテ文献(ホツマ)の世界 へ ようこそ _ 池田 満 の 案内)

つまるところ、古事記、日本書紀の原典と著者が考える「ヲシテ」は日本語のなりたちに肉薄する(いや、日本語そのものを成り立たせた)文字であり、「ヲシテ」文献は日本古代史のみならず日本語学に一石を投じる史料であると考察を加えているのだ。


この書籍を読み進めていくうちに、この三十年、眼前にかかっていた靄が少しずつ薄れたような、そんな気がする。

この眼前の靄とはこういうことだ。

古史古伝と呼ばれる文書群がある。基本的に学問の世界からは偽書とされているが何故か心ひかれる言葉の群れだ。

しかしながら、その多くは、その創造性に敬意を払うべきであるとしても、過去を記しているとは思えない代物だとわたしの内観が教えていた。

上記しかり、宮下、富士、竹内、九鬼などの各文書、東日流外三郡誌など古史古伝のほとんどが文学作品としての価値は認められるものの、資史料、歴史文献ではないということだ。(もちろんこれらの「偽書」と呼ばれる文書がなぜ作られたか。作成者たちの意図、意思、目的は?という疑問は歴史研究の対象ではあると思う)。

ただし、その靄の中に薄っすらと、「秀真伝」だけは弱い輝きを放っていた。何かがわたしの中に入ってくる。これは何だろうか。

もちろん、多くの古史古伝と同じく「秀真伝」は「偽」の匂いがするのだが、この手の書籍を読み漁っていくうち、「秀真伝」は「ホツマツタヱ」の漢字仮名交じり翻訳書であること、そして、「ホツマツタヱ」はヲシテ文献と呼ばれる三冊の文書のひとつであることを知ったのだった。

そして、インターネットの時代になり、「ヲシテ」研究の第一人者松本善之助氏の弟子である池田満氏のサイトにたまたま出会い、ヲシテ関係書籍の中ではこの両氏が記したものが最も信用に足るのではと個人的に結論付けたのあった。

加えて、池田氏のサイトからのリンクで「真名の日本巡礼」というWebサイトも知る。現在更新は止まっているのだけれど、ヲシテ文献をもとに日本の信仰対象地のいわれをひも解くなどことに記紀神話が現在の神社や祭、聖地に残ることを証明するなど、圧巻かつ画期的な試みのサイトだった。

『よみがえる日本語―ことばのみなもと「ヲシテ」』はこの「真名の日本巡礼」というサイトの管理人の方が中心となって書かれたものだ。

正直いって「ヲシテ」をそこそこ齧った人間にとってはくどい部分も見受けられるが、これは、はじめて「ヲシテ」に触れる人への配慮であろう。

それよりなにより、「ヲシテ」という文字と文章が内包する世界への扉をあけ、21世紀の現代の野に放ったという意味において重要な書物だといえる。

「ヲシテ」そのものは偽書であるかもしれないし、そうでないかもしれない。最も古い写本は江戸時代のものなので、江戸時代に創作された文書である可能性もないわけではない。しかしそれがどうしたというのだろうか。そういった問題点を突き抜けるだけの力が「ヲシテ」文字、「ヲシテ」文献、その信ずるにたる研究者の方々の言説がいま存在しているのだから。

それでも「偽書は偽書。価値はない」という人もいるはずだ。それならば、ここで「ヲシテ」が江戸時代の創作=偽書であるという証明を行ってみよう。

さすれば、この「ヲシテ」という文字と「ヲシテ」文献に綴られた数々の歴史が「偽」である証明をしなければならない。

ところが、この書籍を読むと「ヲシテ」が日本語の音の意味、日本語の単語の意味、日本語の文章、それらの成り立ちを理解する上で最も無理がなく合理的であることが看破される。

「ことだま」という言葉がある。言葉にこめられた魂のようなものと理解するが、「ヲシテ」はその「魂」を説明できる文字であり、かつその文字の構成要素すべてに意味がある。逆にいえば文字の構成要素から文字が作られ単語が作られ文章が作られる。

もしもこれが江戸時代に作られた文字だとしたら、その労力と知識、想像力は人智を超えているといわざるをえない。神がかりというものではないだろうか。

加えて、「ヲシテ」文献に書かれた歴史は、古事記、日本書紀でツジツマが合わなくなっている記述をほぼすんなりと説明し、現在の非知となっている数々の古代史、習俗、風習などを説明づけることができる。

江戸時代に記紀神話で曖昧模糊とした部分をここまで調べ上げ、新たなしかも日本語を的確に表現できる文字を創作し膨大な文章を残すこと。不可能とは言わないが、それが現実的かどうか。もしも江戸時代に創作した文書ならば世界史に残る文学作品でありかつノンフィクションとなる。

逆にいえば「ヲシテ」文献が江戸時代に作られた偽書であるとする根拠は脆弱ではないか。その脆弱性をこの書籍は暴いているともいえる。

少なくとも日本語のみなもとへの旅のひとつのツールとなることだけは確実だろう。


個人的には「ヲシテ」文献が偽書であろうと、なかろうと、その文字の成り立ちと書かれた神話に合理性が感じられるため、「ヲシテ文献」に書かれた古代の南西諸島や関係諸地域に関する記述を改めて比較参照していくことで、日本列島弧および東アジア地域の権力移譲、征服の歴史、人的、文化交流について何かが見えてこないだろうかという見当をつけているのだが、とりあえずはいまは、ゆっくりと「ヲシテ」の世界に再びつかってみることが必要かと思っている。

しかしこうやって漢字仮名交じり文を書いている日本人の自分はどこからやってきてどうしてこういった日本語を書いているのだろうか。それは学習と社会環境だけではない、自分の中の何かが書かせているのでは。ヲシテを読むことでそういった疑問もわいていくる。

そういえば、この書籍の出版社は明治書院である。明治書院といえば国語教科書をはじめ事典など日本語および語学関係を中心にする老舗出版社である。その明治書院が本書の出版を決意したという意味も少なくない。

もしかしたら何かがかわりはじめているのかもしれない。

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一発勝負のACLベスト16決定戦

鹿島とソウル、名古屋とスゥオン、G大阪と川崎の試合をザッピングしながら観戦。

一番早くけりがついた万博の試合は空気を読まない川崎の面目躍如ということか。寺田をボランチで使ったのは2年ぶりぐらいらしいが、これがある程度はまったといえるかもしれない。一方ガンバは選手のバイオリズムが悪かったという点は考慮に値いするけれど、それでも本当に強いチームならどんなことしてでも勝つだろう。それができなかったということはガンバというクラブの現実を表している。

ちなみに、巨大掲示板などでいわれる「法則」については首をたてにふるわけにはいかないが、韓国人FWと韓国人DFを獲ってアジアで勝ち上がるというのはそれは結構無謀か?と思うのは私だけではないのではないか。なんとなくだが。

名古屋とスゥオンは監督の経験値の差だな。欧州において知らないものはいないピクシーと一部のブンデスリーガファンだけが記憶する、チャブングン監督の差。そういうもんだと思われる。

で、鹿島なんだけれど、ガンバと同じく左サイドバックは韓国人。水戸にいた子だ。別に悪いとは思わなかったが、やはり巨大掲示板的にいうと法則発動ということになってしまったのかもしれない。

それでも鹿島というクラブが東京とか大阪とか百歩譲って県庁所在地のクラブだったら軽くかってたろうと思う。この対戦はしょうがない。なんといっても、ひとことでいってしまえば、ファンの質の差だ。日本国内においては通用しても、海外にでたら、1500万都市のソウルに何人かしらないけれど多くて数十万人ぐらいの人口の鹿島がアジアレベルで勝つのはアップセットという。そのくらの常識はわかっていていいと思われる。

しかし、まあ、ガンバがグループリーグ最終戦で手をぬいたということもあるので恨むならガンバを恨むことですな。それでも鹿島嫌いの俺だけど一応は応援していたんだよ。鹿島のこと。だけど、あの結果。結局、生活圏情報量の差だったんではないかね。

で、どうでもいいことを書き連ねたわけだが、もう少しどうでもいいことを書けば、鹿島対ソウルの解説をした名波。君だよ。本当によい解説だった。このまま精進してほしい。君みたいな輩が増えてくることを祈りたい。

その他の日本の試合の解説およびアナウンサーは俺よりレベルは下だ。これは断言するが間違いない(大笑)。というか現状日本の解説者で俺にかなう方はそんなに多くないと思われる。事務所がらみの馴れ合いがあるのはわかるが日本のフットボールのためには、俺を解説者として使ったほうがいいと思う(爆笑)。

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